第一章

貴族の若さまが何かふざけたことを言い始めた件

第一節(前)

 自警団の主力をほぼ叩き伏せた少女、アーシェ・ゲニアは額に滲んだ汗をぐい、と手の甲で拭うと、ようやっとひとつ、ふうと息をついた。

 そうしていると、ただの可憐な少女だ。右手に剣を持ってさえいなければ、の話だが。


 ぐるりと練兵場を見回すと、剣を落としたり向こう脛を抱えたり、首の辺りを押さえたりする男たちが地面にしゃがみ込んでいる。ううう、と低く悔しそうに呻くのを聞いて、ちょっとばかり苦笑した。


「だから言ってるのに。ちゃんと基礎を身に付けるのが一番早いんだよ」

「くっそー……いや、そりゃ解ってるんだけどなあ……」

「まったく、バカみたいに強くなったもんだ」


 アーシェは今年、十六歳になったばかりの少女だ。自警団には、物心ついた頃からずっと出入りしている。はじめのうちは誰にも相手にされなくて、それでも黙々と、端っこで基本の素振りや型のおさらいなんかを延々と繰り返していた。


 本当なら、剣を扱う場所に女性が出入りするなどとんでもないことだ。周囲の大人たちはこぞって彼女から剣を取り上げようとしたが、彼女の母が苦笑しながらも好きな事をさせてやってください、と言ったこと、そしてどんなに反対されようと決して剣を離さなかった彼女自身に根負けして、結局今に至っている。


「まったく、勿体ねえよなあ。もうこの辺じゃ、アーシェに叶う奴はいないだろ」

「男だったら騎士団に入るとか、領主さまんとこの兵士にでもなって出世できたんだろうになあ……」


 のろのろと立ち上がりながらぼやく男たちに、アーシェは再度苦笑した。この会話は、十四才を過ぎた頃から何度も繰り返されている。

 アーシェはその度に手をひらひらと振って、いいの、と笑って見せるしかなかった。


「別に、騎士になりたくて鍛錬してる訳じゃないから」

「いやまあ、そりゃそうだろうけど。なろうと思ってなれるもんでもないだろうし……でも、それじゃどうしてそこまで稽古してるんだよ」

「強くなりたいから」

 

それだけ! 短く言い切ってにこっ、と微笑んでみるも、男たちはやっぱり納得がいかなさそうだ。それはそうだろう。アーシェがこうやって鍛錬に来る度、彼女の強さを思い知らされているのは誰よりも彼ら自身なのだから。


「だから、何でそう強くなろうって―――」


 一人が尚も言い募ろうとしたその時、ぱんぱんぱん、とやや気の抜けた拍手がひらけた空間に鈍く響いた。ただ空いた土地を足で踏み固めただけの練兵場の入口で、ぬぼーっとした冴えない風貌の男が手を叩いている。


「アンセルム先生!」


 男の伸ばしっぱなしで首筋に纏わり付く黒髪と、裾が足首までを覆い隠すようなずるずるした服装に、アーシェはパッと顔を明るくした。


「いやあ、見ないうちにますます強くなったもんだ。アーシェ、お前さんどこまで行くんだろうねえ」

「ありがとうございます。っていうか先生、どうしちゃったんですか。まだ陽も高いうちから外に出てくるなんて」


 アンセルム・メイベンはこの村で唯一、文字の読み書きや学問を教えることができる「先生」だ。本人は学者なんだと言っていた。いわく、「誰にも邪魔されない所で思う存分思考に耽りたい」らしい。

 その為には、しがらみだのお付き合いだのが最も邪魔なんだそうで、それでこの、学者なんかは一人だっていそうにない田舎の村に流れて来たんだそうだ。


 そうして、先生と呼ばれながらも誰一人として生徒を取らなかったアンセルムが、唯一の教え子としたのがアーシェだった。理由は、何だか突拍子もないことをしでかしそうだから、だそうだ。

 あまり嬉しくない。


「俺は吸血鬼か何かかい。別に暗くなるのを待って買い物だの食事だのしてる訳じゃあないんだよ、アーシェ・ゲニア。ただ、時間ってもんを気にしてないだけで」

「うーん。正論みたいに言ってますけど、ちっとも正しくない気がします。先生」


 堂々と胸を張る恩師に、アーシェはちょっと笑ってしまった。けれど、ふと気付く。アンセルムはいつも、身体がどこにあるのか解らないような幅も裾もずるずるした服を着ているが、今日は更にその上へ、薄地のマントなどを羽織っていることに。それも、頭から足下までをすっぽり覆うような大きなものだ。


「どこかお出掛けになるんですか?」


 珍しいこともあるものだ。いつも、用がなければ一歩だって家から出たくない、とのたまう人なのに。

 目を僅かにまるくしたアーシェへ、アンセルムは唇の端だけを持ち上げてちょっと笑った。


「ちょっとここにいたくない用事が出来そうだからね。暫く留守にする」

「何ですそれ?」

「さあて。杞憂だといいんだが」


 そう言って、師はごそごそとマントの内側を探った。どうやらそこには、沢山の大きなポケットがついているらしい。


「あった。これだ」


 そうして取り出したのは、分厚い一冊の本と一通の手紙だった。手紙は封蝋で閉じられておらず、いつでも中身を取り出せるようになっている。


「宿題と、まあ俺の勘が当たっていたら必要になる物だ。手紙のほうはその時まで、中を見ないでおくように。まあ、見てもどうせ今はまだ、意味なんか解んねえからな。あと、本の方は宿題だ。全部読んでおきなさい。あとで質問するからね」

「何だかよくわからないですけど、解りました」


 アンセルムは時折、こんなふうな言い方をする。「必要だったら」「勘が当たったら」「予想通りだったら」―――そんな時、あらかじめアーシェがその意味や理由を尋ねても大抵は訳が解らない。だけど彼の言う「その時」が来たら、ぴたりとそこに当てはまるのだ。渡されていた解決策であったりヒントであったり、指示であったりするようなものが。


 いつもよく解らない研究をしていて、昼も夜もとっちらかっているような人だけれど、多分紙一重というやつでかなり頭がいいんだろう、とアーシェは思っている。


「それじゃ、あと宜しくね。気が向いたら、週に一度っくらいうちの窓開けて、風通しておいてやってくれると助かる」

「解りました。けど、書き付けとか、飛ばないようにしてありますか」

「自信ねえな。ま、その辺は適当に頼みます」


 アンセルムは肩をすくめると、じゃ、と手を振って踵を返した。しばらく留守にするらしいというのに、随分あっさりしたものだ。が、三歩ほど進んだところでぴたりと足を止め、首だけで振り返る。


「あ、そうだ。アーシェ、お前さんこのあと何か用事とかあるか?」

「ないですよ。仕立屋のおかみさんとこに寄って、仕事があるかどうか聞いてくるくらいです」


 アーシェは自警団に出入りはしているものの、正式な団員という訳ではない。そもそも自警団は自発的に組織しているもので、出動があれば村長から心付けが出はするが、ちゃんとした給金がある訳でもない。普段の生計は仕立屋のおかみから縫い物の仕事を請け負って、針子として立てている。

 ふるふると首を振るアーシェに、そりゃ丁度良かった、と学者は呟き、ガリガリと面倒そうに後頭部を掻いた。


「んじゃ、村長のとこに寄っていけ。突然呼び出されるよりはマシだろうからね」

「え?」

「それじゃ、元気でやるんだよ」


 聞き返すアーシェにはかまわず、アンセルムはそのまますたすたと去って行ってしまった。この人はいつもそうだ。説明、という手間を取ることがない。

 仕方ないな、とアーシェはひとつ嘆息した。きっとこれも、「行ってみれば解る」「その場になってみれば解る」ことのひとつなのだろう。


「……相変わらず、訳わかんねえお人だな」


 口を差し挟む暇もなかった団員が、呆然と呟いた。それへ、そうだねえ、とちょっとだけ乾いた笑いを浮かべつつ同意する。


「でも面白いし、いい人ですよ」

「ああ、うん。それは解る。先生のおかげで、作付けも安定したしな」


 そうだ、アーシェ。村長のとこ行くんなら片付けはいいぞ。男はそう続けて、アーシェの手から抜き身のままの剣を受け取った。

 練兵場、とは言っても、掘っ建て小屋がひとつ、ぽつんと建つだけの空き地だ。使ったあとは、色々と片付けなければならない。


「先生はああ言ったが、多分ありゃあ、早めに行っといたほうがいい案件じゃないのか」

「そうかなあ。うーん、先生結構のんびりしてるしね……解った、真っ直ぐ行ってみます」


 お言葉に甘えて、と添えて笑い、アーシェは小屋の中へ置いておいたタオルで汗を拭うと、家から背負ってきた籠の中へそれをぽいと投げ入れて練兵場をあとにした。

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