臆病少女と憑依少女 3

 次の日、事件が起こった。それはわたしと能代の人生を大きく揺るがす、起点となった出来事だった。


 その日は体育があり、わたしはそこそこ適当に励んでいた。頑張りすぎても浮くし、あきらかにやる気がなくてもそれはそれで浮いてしまう。かといってある程度できなければ弱みを見せることになり、そうなればクラスメイトに下に見られてしまう。わたしのなかでは特に疲れる授業だ。


 今日はバスケをやっていた。あまり目立たず、かといってお荷物にならないような立ち位置を見極めて動く作業のなか、一瞬フィールドの外に目が向いてしまう。


 能代が先生と何かを話して、それから体育館を出ていった。体調不良だろうか。


「惑!」


 死角からの声に反応して、すぐにそちらへと向く。


 ちょうどわたしの気が逸れていたところで、バスケットボールが顔に勢いよくぶつかった。そのまま仰向けに弾き飛ばされ、床に頭を打つ。


「ちょっと! 大丈夫?」


 強く打った鼻のあたりを手で触れて確かめると、生温かく濡れたものを感じる。見ると、人差し指の腹が赤黒い滴で染まっている。


 やってしまった、と思った。今回のこれで、クラスメイトにトロく無様な印象を与えてしまったかもしれない。頭を打ったことや鼻血が出たことより、そっちの方が心配だった。


 手持ちのティッシュですぐに詰めをして、保健委員の子に連れられて保健室へと行く。途中で「大丈夫?」と声をかけられて、思わずあきらかな空返事で返してしまう。


 それから保健室の先生と話をして、大した怪我でもないため授業に復帰することにした。か弱い印象を与えたまま、クラスメイトに舐められるわけにはいかない。


 来たついでに、保健室のベッドをちらと確認する。ベッドには誰もいなかった。


 なんとなく気になって、先生に訊く。


「この時間、他に保健室に来た子とかいませんでした? うちのクラスの子なんですけど……」


「この時間だとあなたが初だけど……なにかあった?」


「……いえ。やっぱりいいです」


 すぐに椅子から立ち、先ほど連れ立ってた子とともに保健室を出る。


 どうして能代のことが気になるのだろう。あんな陰キャ、関わるだけ損じゃないか。


 そう思いながら、さっさと体育館に戻ってしまおうと歩いている途中で、それでも内に湧いた好奇心が抑えられなっていた。


 わたしは足を止めて、連れの子に言った。


「ごめん、トイレ寄ってくから。先戻ってて」


 そうして保健委員の子を無理やり体育館へと戻らせ、トイレに入るふりをして出入り口前で待機する。人目がなくなったところでトイレから出て、すかさず更衣室に向かう。


 先生と話をした上でサボるのなら、普通に保健室に行けばいい。とすると、サボることとは違う目的でどこかに行ってるのかもしれない。そこで思い当たったのが、更衣室だった。教室の可能性もあるが、目的のことを考えると更衣室の方が可能性は高い。


 昨日、彼女はわたしのスマホを盗もうとしていた。普段からの腹いせか、金目的かは知らない。ただ、わたしの机の中にあったスマホを、彼女がわざわざ手にとったことだけは確かな事実だ。


 今度はなにをしようというのだろう。更衣室の前に来て、扉をがらりと開けて確かめる。


 中では、能代が扉に背を向けて座り込んでいた。ロッカーのひとつが開け放たれていて、遠くからでも鞄やハンガーに掛けた制服が荒らされているのが見える。それは、わたしの使っていたロッカーだった。


 音に反応して、能代は肩越しに振り返る。顔へ寄せていた両手は、どこかから持ってきたブラウスで包まれていた。


「え……」


 彼女がとろんとした目つきをこちらへ向ける。それをよそに、わたしはすぐさまつかつかと中へと進み、ロッカーの荷物を確認する。


 ハンガーにかけていたブラウスがない。嫌な予感を覚えながら、彼女の手にあるものをすぐに引ったくって確かめる。それはわたしのものだった。


 能代の身体が、突然びくりと跳ね上がった。彼女はおぞましいものを見るように目を見開いて、尻をついたまま後ずさる。


「あ、ま、また……またあいつが……」


「また霊的な存在?」


「あ、あ、あいつ、また、私に取り憑いて……ごめんなさい、私、あの、本当に……」


 涙で視界がにじむ。彼女と関わってから、本当にろくなことが起こってない。


 思わず、わたしはつぶやいていた。


「……気持ち悪い」


 まさか、誰かにこんなことされるとは思わなかった。しかも、よりによって能代なんかに。こういう時、どんな反応をすればいいのかわからなかった。


 一体、なにが目的なのだろう。まさか、好きだからなんてことはないはずだ。


 もしかして、嫌がらせか。


 能代はわたしの知らないどこかで、わたしを根に持っていた。それで、わたしのまわりでストーカーじみたことをして、わたしの精神をすり減らしていくつもりだった。きっと、そういうことだったのだ。


「ほ、本当だよっ! さっき体育館でセーラー服の霊を見て、それから私――」


「言い訳はいいよ!」


 ジャージの袖で目を拭いながら続ける。気づけば声を荒げていた。


「なんでこんなことするの? わたしなにかした? たしかに昨日は君の椅子に座ったけど、すぐどいたじゃん! なんで? わたし、ただ厄介事に巻き込まれたくないだけなのに……」


「だから違うの。わたし、さっき憑かれてて――」


「憑かれてるだか疲れてるだか知らないけどさ! 文句あるなら素直に言ってよ! わけわかんない! 説明してよ! なんで君にこんなことされなきゃいけないの?」


「ごめんなさい。でも、私は本当にやってないんです。私に取り憑いた霊が……」


 言い逃れできない状況のなか、それでも能代は上目遣いで聞き飽きた言い訳をする。そんな彼女を前にして、わたしはどうしようもなくムカついた。


 こうすれば、こう言えば、波風も立てずに済むのに、あえて火に油を注ぐ。こんなことになる前にやめればよかったのに、どうしてするのだろう。どうして彼女はわたしの足を引っ張ろうとするのだろう。


 気づけば、能代の身体を蹴飛ばしていた。予想以上の力が入ったらしく、彼女は仰向けに弾き飛ばされ頭を強打する。彼女のせいで先ほど惨めな姿を晒したこともあり、とてもせいせいした。


 どこか変なところに入ったらしく、彼女はしばらく床によだれを垂らして身悶えている。物の弾みで眼鏡が外れて、震える目には涙を浮かべていた。


 ゾクゾクと、全身に快感が走る。ただの憂さ晴らしとは違う、アリの巣にたくさんの水を流し込む時のような感覚。突然の不幸を前に怯える生き物に対する、愛おしさのようなものが胸のうちから湧いてくる。


「つ、つき、し、ま、さ……ど、して……」


「…………」


 追い打ちで彼女のお腹を踏みつける。彼女が咳をして、そのはずみでジャージの下に唾が飛び、それを理由にさらに強く踏みにじる。


 わたしの顔には自然と笑顔が浮かんでいた。ただ息苦しいだけの人生で、こんな楽しいことがあったのかと。


 いまこの瞬間、人生のいついかなる時より幸せだと、そう思った。

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