第7話


「皐月…?」


 ベッドに腰を下ろしている皐月の表情がどこか固い。それは初めての体験を期待しての固さではなく、どこか罪悪感に苛まれる子供ような、今にも泣き出しそうな表情だ。


「どうした?」


 心配になり、皐月の腰を摩る辰馬。皐月はそんな愛しい彼の顔を見つめ、やがて決心したかのように言葉を紡ぎ出した。


「あのね、私辰馬に言わなきゃいけないことがあるの。」

「なんだ?」

「まずは昔話からね?

 私が“魔霧”の一人娘としての自覚を得たのは五歳の時。ある日、お母様が私に聞いたの。さっちゃん、さっちゃんはこれからどう生きたい?って。それからいろんな人にいろんな事を聞いたわ。そして知った。私は特別なんだって。あらゆる恩恵を享受出来る代わりに“自由”とは無縁の立場なんだって。

 でもね、逃げたい。とは一度も思わなかった。あの時の私は優しいお母様と私の事を一番に考えてくれるお父様が護った魔霧と言う家を引き継ぎたい、と思ったの。だからね、お母様にはこう答えたの。さっちゃんはお父様みたいになりたい、って。」


 そう語る皐月の目はいつになく優しい。


「あの時、お母様は泣きそうだったわ。私にはその意味がわからなかった。わからなかったから精一杯自分の考えを言ったの。結局逆効果にしかならなかったんだけどね…でね、私がお母様の涙の意味を知ったのはその三年後。あの日、あの夏の日、春樹おじさんが貴方を連れてきた日。私はわかったの。お母様が泣いたのは私の生き方が定まってしまったからだ、って。私は五歳の自分を呪ったわ。だってあの時私が自由を求めたら、求めていたらあの日からあんなに泣くことにはならなかったのですもの。」


 女性にして十六家の当主。それが意味するのは、家に縛られた悲恋の人生である。自分で自分の恋心を否定し、幸せを捨てる選択を取り、政略的に意味のある婚姻を自分に強いらねばならない。

 だが、聡明とはいえ幼い皐月にはそれができなかった。不幸にも、一目惚れした相手を否定できなかった、忘れられなかった、捨てることができなかった。

 彼女はどこか懐かしむような表情で話を続ける。


「でね、泣いて、悩んで、考えて、私が出した答えは賭ける事。貴方を惚れさせ、貴方がその恋のために動いてくれる事を狙ったの。とんだ悪女よね?貴方が惚れても私と結ばれるのが許される程の男になれなかったら…でも馬鹿な私は身勝手にも貴方の人生に介入したの。」


 そして、少女は賭けに勝った。辰馬は世代の頂点に上り詰め、皐月に、魔霧の名に見合う男になった。

 皐月は隣で静かに話を聞いていた辰馬の頬に手を添える。


「辰馬、ごめんね?私が…私がわがままだったばかりに貴方を縛り付けてしまった。貴方の翼を捥いでしまった。もしかしたら貴方が私に抱いているのは恋心ではなく憐憫の情なのかもしれない…でも、それでも、私は嬉しく思ってしまうの…貴方が私に手を伸ばしてくれた事を、追い付いてくれた事を、そして受け入れてくれた事を…たとえその原動力が私と同じ感情でなかったとして___んぐっ」


 彼女が言葉を紡ぎ終えることはなかった。話の途中で唇を塞がれた皐月は一切抵抗することなく、辰馬にその身を委ねる。涙を垂れ流していた瞳は閉じ、強張っていた体の力が抜けていく。

 そして、一分ほど経過した頃だろうか、二人の影が離れた。


「…皐月。」

「…」


 皐月は自分を慰める言葉が出るのか、先程の接触を最後とする、と言われてしまうのかわからず、固く、固く目を瞑る。


「俺はな、実を言うと最初にお前をみた時からお前に惚れてるんだよ。」


 しかし、放たれた言葉はさつきが予想だにしていないものであった。


「え…で、でも辰馬は私を避けて…!」


 そう、幼き頃、辰馬は積極的な皐月を毛嫌いする様子を見せ、避けていた。


「それは…それは俺が化け物だからなんだ…」

「化け物…?」

「そう。人間ではない何か。君と同じ時を生きられない何か。」

「な、なにを…」


 辰馬の話を途中で遮ろうとする皐月を辰馬が制する。


「皐月、よく聞いてくれ。俺はな、お前を嫌ってたんじゃないんだ。もしお前に受け入れてもらえないと、拒絶されると、死に分かれると考えた時、怖くなったんだ。そして逃げた。」


 瞳を正面から捉えられ、真剣な声色で語られる皐月は今度は口を挟まない。


「俺は、俺は特殊魔法使いなんだ。」


 辰馬の一言に皐月の表情が固まる。

 特殊魔法使い、それが意味することは一つ。露呈すれば、辰馬は表舞台にいてはならない、と言う事だ。かつて、魔王達の支配から人類が解放された後、世界は概念魔法使いの共有財産化を決定した。総勢二十七人の彼ら、彼女らは、世界に管理され、世界に生かされる。その一人がいくら十六家とはいえ、当主と結ばれるのが許されるはずがない。


「辰馬は、辰馬は何番目なの?」


 世界に存在する概念魔法使いは番号で呼ばれる。確かに名前はあるが、一般的に使われることは基本ない。これは、人類が概念魔法使いに親しみを覚えないようにするためである。


「ナンバートゥーエイト。司る概念は“停滞”。試合で使ってる魔法も物理法則魔法なんかじゃない。停滞の魔法を大幅に縛ったものだ。」

「に、二八番…?でも概念魔法使いは二十七人しか…」

「俺は十五年前に生まれた新しい概念魔法使いだ。司ってるのもこれまでに確認されてないもの。多分、魔の大陸にでも隠れ住んでた奴が死んで継承されたんじゃないか、って。」


 概念魔法使いが死ぬと、一年以内に世界のどこかで同じ力を持った赤子が生まれる。これが二十七人の概念魔法使い達が生かされている最大の理由だ。

 もし、生まれてきたのが反社会的組織の子だったら、戦争を起こそうと目論む国であったら、歪んだ幼少期を過ごしてしまったら。いくら勝ったことがあるとはいえ、かつての大戦では一人の魔王に平均で二百万の兵が、七人の魔王に、一千四百万人が屠られたのだ。

 大戦後、まだ各自治体が領土戦争を行っている頃、全世界で共通の認識が一つだけあった。概念魔法使いは見つけ次第保護、唯一安定している北アメリカ大陸に移せ、と。

 それほど、彼らの存在は危険視されている。


「どこまでが貴方の本当の力を知っているの…?」


 皐月の中に辰馬が嘘を吐いている、との考えは存在しない。故に、彼女は確認する必要がある。辰馬の婚約者の皐月としてではなく、辰馬の上位者である魔霧の次期当主として。


「知ってるのは親父と日本軍の上層部だ。政府が知ってるかはわからない。」

「…そう。ふぅ〜、そう言うことだったのね。なんとか好かれようと二年間費やしたのは無駄だったってわけなのね?」

「……そうだよな…化物の俺なんかとは無理だよな……」


 冷められた、そう思った辰馬は泣きそうな顔になり、立ち上がって部屋を後にしようとする。だが、後一歩のところで手首を掴まれた。


「なに勘違いしてるのかしら?私は貴方に嫌われてるからと悩んだ時間が無駄だった、って言ってるのよ。別に貴方を落としたことが間違いだった、なんて言ってないわ。」

「で、でも俺は___」


 今度は辰馬の言葉が遮られる番であった。先ほどよりは遥かに短いキスを交わした後、皐月が続ける。


「いいの。私は貴方が好きなんだから。やっと手に入れられたんだから。別にしわくちゃになったからって捨てられるわけじゃないんでしょ?ならいいのよ。」


 皐月は辰馬の一番の不安がわかっていた。それは全ての特殊魔法使いが恐怖するもので、彼らが人との交流を避けることに同意している一番の要因でもある。


「それに貴方の魔法は停滞なんでしょ?なら案外寿命もなんとかなるんじゃない?あっ、永遠の十七歳!って本当に言えるかもしれないのね!悪くはないじゃない。」


 言っている内容は欲深い者が言いそうなことであるが、今はそんなことは関係がなかった。若干、辰馬の表情が晴れた。


「…俺は多分あと十年から二十年で時が止まる。今必死に開発してる皐月の老化を、寿命の消費を止められる魔法がそれまでに完成するかはわからない。もし出来なかったらお前が死ぬときに俺も死ぬ。そう思ってはいたんだ。でもお前がいうなら本当にできるのかもな?」

「できるわよ。だって辰馬は私が惚れた男よ?もし私の後を追いかけるようなことになったらあの世で無視してやるわ。完全に尻に敷かれるまで無視し続けてやる。」

「ハッ、恋愛は最初に惚れたほうが負けなんだよ。お前が俺を振り向かせようと必死になった時点で俺が尻に敷かれる未来は消えたんだ」

「なに言ってるのかしら?惚れたのは同時、でしょ?八年前のあの日、貴方も私に惚れた。覚悟なさい?これからは優位に立っていられるとは思わないことね。」

「うぐっ…」


 痛いところを突かれ、言葉に詰まった辰馬を皐月が笑う。そうして数分ほど戯れあった頃、辰馬の憂いを含んだ表情が完全に氷解した。


「皐月」

「なあにかしら?」

「ありがとうな。それとごめんな?今まで隠してて。」

「いいのよ。貴方が言えないのも仕方のないことだし。」

「それでも、だ。もう隠し事はしないよ。」

「ええ、そうして頂戴?」


 辰馬はそう嘯いたあと、内心で皐月にもう一度謝る。何故なら隠し事はもう一つあるのだから。絶対に皐月には明かさないと決めた隠し事が。しかし、それは悟らせることすらしてはならない。故に彼は仮面を被る。決して剥がれぬことのない、分厚い厚化粧をする。


(これだけは知られたくないんだ…たとえあの世で皐月に嫌われようとも、今は、生きている間は皐月の隣にいるために。)


 こうして皐月の独白から始まった心情吐露大会は幕を閉じ、特にそれ以上会話が続くこともなく夜が老けていく。互いに寄り添う二人は、やがて船を漕ぎ、同時にベッドに倒れ込んだ。

 人生で一番ではないか、と思ってしまうほど弛緩し切った表情で、愛しい相手を腕に、ゆっくりと夢の世界へと旅立つのだった。

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