北国の春

mojo

断罪を受けました。

 「まぁ、座んなよ」

 部屋の主に言われるまま、太一は炬燵に座った。部屋は暖かい。暑いといってよいくらいである。二重窓の下で旧い型式の石油ストーブが芯を青くして燃えている。太一は顔が火照る気がした。部屋の主の頭越しに日章旗が見える。それは部屋の窓一枚を横にしたような大きさで、この狭い空間にはひどく不釣合である。

「聞いてるよな?」

 部屋の主が切り出した。

「はあ? 何をですか?」

「ふふふ、とぼけるなよ」

「だから、何をですか?」

 しかし、太一は概ね事態を把握した。日章旗が壁に貼られているのである。

「いいガタイしてるじゃなか。旗手の有力候補だな」

 そういうと、部屋の主は荒井に目配せした。荒井は立ち上がり、流し台の横の冷蔵庫を開け、缶ビールを数本出して戻ってきた。

「コップ、要ります?」

「東京の人だしなぁ。まあ、ここは東京じゃないから必要ないだろ」

 部屋の主はそういうとにやりと笑った。

「ほら、飲めよ」

 荒井から促され、缶ビールを手に取りプルトップを引く。一時でもはやくここから立ち去りたい。それを無言で示すつもりで、太一はサッポロ黒ラベルをほとんど一気に飲み干した。

「ほぅ、いい飲みっぷりだ。冷蔵庫にまだある。日本酒もあるぞ。なくなったら荒井が買い行く。どんどん飲んでくれ」

 太一は二本目からはちびりちびりと啜るようにして黒ラベル飲んだ。会話が途絶えがちになり、サーモスタットが作動したのか、冷蔵庫がぶーんと鳴った。


 バスは空港から市街地を迂回し、山岳地帯へ向かうバイパスを走っている。バイパスの両側には広大な雪原が広がっている。雪原の彼方の山並みには夕方の厚い雲が被さっていた。

 ここは北国のとある小さな街。東京は既に桜の季節だが、この地は真冬の東京よりも気温が低い。

 太一は市街地を抜けてから三つ目のバス停で降車した。車窓からの白を基調としたモノクロームは太一を昂らせ、和ませたもしたが、バスから降り立ってみると、バイパスの際には黒く汚れたシャーベット状の雪が堆く積まれていた。太一の片手には地図、もう片方の手にはスーツケースの柄が握られている。

 バイパスから民家が密集する地域に通じる小道に入る。灰色のアイスバーンに被われたその小道の両側はやはり雪原で、遠景にこんもりとした森とわずかばかりの民家が見える。太一は危うい足取りでその集落までの道を歩いた。辺りは既に薄暗い。時折どこからともなく犬の吼え声が聞こえた。


「遥々よくきたねぇ。ここはまだ寒いでしょ? 滑って転ばなかった?」

「はい。何度か転びそうになりました。これからお世話になります」

 太一はスーツケースを開け、母親から持たされた菓子折をだしてテーブルに置いた。

「おやまぁ、ご丁寧に。あんた、好き嫌いはある?」

「いえ、何でも食べます」

「そう。安心したわ。今夜はトンカツを揚げようと思うの」

「大好物です」

「良かった。ご飯は何杯お代わりしてもいいからね」

 そのとき、どかどかと階段を下りてくる音が響き、がっしりとした体躯の若者が居間に入ってきた。

「おばちゃん。おれ、いまから団長のアパートに行くから。晩飯はお盆に乗せて部屋に入れといてよ」

「あら、荒井くん。今夜はせっかくトンカツなのに。それより新入生がいま着いたとろなの。えーと、篠原くんだっけ?」

「篠原太一です。よろしくお願いします」

「荒井くんはここの寮長みたいな人なの。あんたを入れて六人しかいない下宿だけど」

「おー、新入生。聞いてるぞ。東京から来たんだってな? また何でこんな田舎に来る気になったんだ?」

「北海道が好きなんです。ずっと憧れてました」

「ほんとかぁ? 他は全部落ちたからじゃないのかぁ?」

 新井は下卑た笑いを顔に浮かべ、太一の肩の辺りをばんばん叩きながらいった。

「荒井くん、この子の靴、面倒みてあげてよ。来た早々に転んで怪我でもされたら親御さん怒られちゃう。あとで白石堂へ連れていってあげて」

「よしきた。白石堂にはあした行くから、あんたも付いてきなよ。他にも身の回りのものを揃えるだろ? この辺りじゃ雑貨類は白石堂でしか買えないんだ。市街までは遠いしな」

「先輩、おれ、この土地のことは何も判りません。色々とお世話になると思います。どうか、よろしくお願いします」。

 太一が椅子から立ち上がり、腰を折り頭を下げると、荒井は満足そうな表情で頷づき、玄関から出て行った。

 翌日の昼下がり、太一は白石堂に行くからと荒井に連れ出された。太一の足取りはやはり危うい。道すがら、靴底の仕様がここと内地(本州)では違うことや、灯油は五月まで絶対に切らせてはいけないことなど、太一はこの土地の習慣のあれこれを荒井から教えられた。

「なぁ、白石堂へ行くまえに、会わせたい人がいるんだが、寄ってもいいか?」

「はい、かまいませんけど」

 そして太一はこのアパートの一室に連れて来られたのである。


「入ってくれるよな?」

 部屋の主がそういうのは、これで三度目である。

「いえ、お断りします」

 太一の口調も苛ついてきた。

「きさま! 団長に向かってその口の利き方はなんだ!」

 酔いで既に顔を赤くした荒井が声を荒げた。

「まぁまぁ、荒井もそう怒鳴るなよ。おまえ、高校で何やってた? 柔道か? ここにも柔道部はあるが、同好会みたいなもんだぞ?」

「おれ、軽音楽のサークルに入りたいと思ってるんです」

「軽音楽だと? おい荒井、うちにそんな洒落たサークルがあったか?」

「どうでしょう。野球部のリーグ戦では市街の高校のブラスバンドを呼びますが」

「ばかやろう。あれは吹奏楽ってやつだ。こいつがいってるのは、あれだろ? 女みたいに髪の毛を伸ばしてギター弾いて」

「フォークソングってやつですか?」

「それだよそれ。だけど、こいつはどう見てもギターより柔道着の方が似合いそうだよな? いや、学ランならもっと似合うんじゃないか?」

「自分もそう思います。おい新入生、おまえ、団長がせっかく旗手に向いてるといってくれてるんだぞ? 入団するといっちまえよ」

「いやです」

「きさま!」

「よせよ荒井。あれだろ? こいつは昨日おまえんとこの下宿に入った新入生だろ?」

「そうです」

「それなら急ぐことはないじゃないか。他の部にだけは取られないようにしっかり見張っておけよ」

「押忍」

「おい新入生、きょうはもういいぞ。荒井と白石堂へ行くんだろ?」

「団長、何か必要なら買ってきます」

「いや、必要ない。荒井、どうせ入学式までには落ちるんだ。手荒なまねはするなよ」

「押忍」

 アパートを出ると、日は暮れていた。街灯がまばらで、人通りも殆どない夜道を、二人は暫く無言で歩いた。

 先に口を開いたのは太一だった。

「来た道じゃないですよね。今度はどこに向かってるんですか?」

「白石堂に行くといっただろ」

「おれ、応援団には入りませんから」

「そのことは、今日はもういいよ」

 荒井の口調は穏やかである。

「なんだ、やっぱり酔ったふりしてたんだ。ひどいやり方ですね。あんなことしないと、団員が集まらないんですか?」

「おまえが入ったのはそういう学校なんだよ。毎年五十人前後しか入ってこない新入生を取り合うんだ。おまえみたいにわざわざ東京からやってくる馬鹿は珍しいけどな」

「やくざみたいじゃないですか」

「うるせえな。OBにはその筋もいるよ」

 信号のない十字路に差し掛かったとき、左方向から学生らしき二人連れが歩いてくるのを確認した太一は、口調を変えていった。

「おれがこんなど田舎の糞応援団になんて入るはずがねぇだろ?」

「なんだ?」

 新井は驚いて太一に顔を向けた。太一は荒井の顔を覗き込むようにしていった。

「てめーはいまおれにメンチ切られてるんだよ。それくらい気づけよ、かっぺ」

 太一は荒井の胸ぐらを掴み、眼に力を込めて顔を寄せた。

 しかし、アイスバーンの小道に倒れこんだは太一の方だった。太一は顔をしかめて倒れたまま立ち上がらない。

「ふざけんな!」

 荒井の怒号が響く。太一は立ち上がらない。二人連れの学生が近づいてきた。

「ちょっと、大丈夫ですか? 怪我しました?」

 太一は依然として立ち上がらない。

「応援団だぁ!」

 荒井が二人連れを一喝した。

「あ、すいませんでした」

 一人がそう呟き、二人連れはそそくさとその場を離れていった。太一は薄目を開けて、遠のいてゆくスニーカーの靴底を見ていた。それは確かにジグザグで、太一のものとは違っていた。

「立てよ演劇部。かすっただけだろ? あの程度でひっくり返るはずはないだろ?」

 太一は不貞腐れた貌で、むっくりと起き上がった。

「騒ぎを起こして事を大きくしようとしたな? 都会のガキが考えそうなことだ。だがここの学生は応援団だと喚けばだれも手出しはしてこないぞ?」

「とにかくおれは応援団には入らないよ」

「その件はとりあえず忘れろ。早くしないと白石堂が閉まるぞ」

 向こうからまた一人学生風が歩いてくる。

「臭い芝居はやめろよ?」

「わかったよ。応援団って大したもんなんだな」

「入ればおまえも威張れるぞ」

「け、しょーもない」


 その夜、太一は他の学生が各々の部屋に引き上げるのを見計らって居間に下りた。下宿のおばさんには夕食後に、あとで相談したいことがある、と伝えてあった。

「白石堂には連れていってもらった?」

「はい。とりあえず必要なものは揃えました」

「相談ごとがあるとか。どんなこと?」

「あの、実は荒井さんから……」

「どうしたの?」

「応援団に入れって。荒井さん、すごく強引で……」

「入らないの?」

「え? いや、はい。他に入りたいサークルが……」

「ここの子は全員応援団に入ってるのよ? あんた、知らないで来たの?」

「へ? そうなんですか? いや、おれは親父の勤務先の関係から探してもらったって聞いてます」

「そうなの? 杉井組の人から、東京から新入生が一人来るからよろしく頼むって話があって……」

「杉井組って何ですか?」

「建設会社よ。あの子たちも殆どは杉井組に就職するの。応援団のOBが多い会社なの。この話を持ってきた人も、かつてはここに下宿してたのよ」

 太一の父親は建設資材メーカーの本社に勤務している。杉井組はこの土地の地場建設業者で、父の勤務するメーカーの製品を扱う代理店も兼ねている。太一の父親は、縁故のない土地での倅の下宿先を、この地方の支店にいる後輩に一任した。その後輩が取引業者に相談し、それが即ち杉井組である。

「あんた、卒業してもこっちに居る気なら、応援団に入っておいた方がいいわよ。杉井組はこの辺じゃ一番大きな建設屋さんなんだから」

 部屋に戻った太一は、押入れを改装した狭いベッドに仰向けになり、上半身を起こせば頭が付きそうになる低いベニヤ張りの天井を見上げた。

「断罪か」

 太一は独り言ちた。

 思えば、あの神楽坂の登り口に近い、東京理科大に隣接した家の光会館で入学試験を受けたとき、自分はそう遠くない将来に断罪される、との予感があった。入試問題が呆気にとられるほど簡単だったのである。


 問1、次の中から正しい方を選べ。

  ①I am a boy.

  ②I is a boy.

 ガリ版で刷られた手書きの藁半紙には、そんな問題ばかりが並んでいたのである。


 太一が北海道へ行きたいとごねたのは、ただの我侭からであった。

 太一の通った高校は殆どの者が進学したが、一流とされる大学に進む者はほんの一部で、他の多くはそうでない大学に推薦入学するのが慣例であった。

 ライブハウスに入り浸り、自らもギターを弾くようになるころから、太一の成績は下がり始め、卒業する頃には全学年で下から数えて一桁の位置にいた。当然推薦枠からも外れ、卒業後は予備校に籍を置いたが、授業にはほとんど出席せず、パンを製造する工場の夜勤や引越しの荷物運びなど、短期のアルバイトで得た小銭を新宿や渋谷の路地裏で浪費するような日々を送っていた。

 年が明けると太一は焦りだした。合格できそうで格好がつく大学が見当たらないのである。苦し紛れに、

「北海道へ行って自分を見つめたい」

 と親に告げると、あっさり許可が出た。拍子抜けしながらも、確実に合格できる大学を探し、願書を取り寄せた。しかし、あの入試問題を一目見た途端、太一の背筋は凍った。怠惰でいい加減に暮らした日々のつけを、いつか払わなければならない。そう思った。

 そして、今まさに太一は断罪を受けている。

「あーあ、こんなにはやく来やがったか」

 見知らぬ土地で、寄宿する下宿の、自分を除く学生全てが応援団員である。

「逃げ切れないかもな」

 太一は自分が学ランを着て、日章旗を振る姿を思い浮かべてみた。

「ありえねー。絶対に無理」

 翌朝の、他の者がまだ眠っている時刻に、太一はバイパスまでの小道を歩いていた。足取りは軽い。白石堂で買った北国仕様のスニーカーが効いている。

 バス停の横の公衆電話からタクシーを呼んだ。市街から来るタクシーを待つ間、太一は何度も来た小道の入り口に視線を送った。万が一荒井が追いかけてきたら、やってやろうと思っていた。体格は似たようなものである。しょせんは素人の殴り合いだから、十中八九は先に手を出した者が勝つ。つま先を鳩尾にめり込ますか。頭を鼻面に叩き込むか。シュミレートするうちに気持ちが昂ぶってきたが、タクシーは案外早く来た。

「空港までいってください」


 数時間後、太一は羽田行きの機上の人だった。窓からは津軽海峡が見える。函館側も青森側も地図と同じ形をしていて、太一にはそれがなんだか不思議だった。

 太一はまたしても、自分の運命を司る何かに猶予を頼んだのである。しかし、時間稼ぎをすればするほど試練が大きくなることを、そのときの太一はまだ知らない。

 太一の北国の春は、こうしてたったの二日で終わったのである。

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北国の春 mojo @4474

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