第5話 2度目の受験日
受験日を迎えても、由美は家から出ようとはしなかった。
特にその日は外に出たくなかった。
パソコンで渡辺健一の作品を眺め、色々と想像することが楽しかったし、あのことを忘れさせてくれた。
由美にとって、唯一信じられる成人男性なのかもしれない。
彼に嫌悪感を感じることは全くない。
むしろ安心感すらある。
由美がこれまで見てきた彼の行動は、好感の持てることばかりだった。
近くにこんな男性、いや、人としても尊敬出来る人がいたなんて。
まだ彼の全てを知っているわけでは無いことも承知していた。
でも、これまで見てきた彼の人柄は信頼するに十分なものだ。
そんな由美を見て、人は”恋は盲目”と言うかもしれない。
それでも良いと由美は思っていた。
由美の行動を不審に感じ、母親の百合子が問い詰める。
「由美、ちょっと良いかしら」
「何」
多分母親の百合子に大学の件を悟られたのだろうと感じていた。
「由美、あなた本当に○○大学、行く気あるの?」
無言の由美。
「去年は、一生懸命実技対策をしていたけど、今年は全くしていないわよね。本当に受験したの?」
さすが警察官、鋭い指摘だ。
だが何も答えず黙ったままの由美。
「このまま大学にも行かず、働きもせず。そんなみっともない事、許しません」
「私がしていることは、みっともないことなの!そんな風に思っていたの!」
「ご近所様にも、恥ずかしい。もっとしっかりしなさい」
「私のことより、ご近所の目が気になるの?判った、この家を出て行く」
些細なことから始まった売り言葉に買い言葉だが、仲の良い親子なだけにお互いの事を察して欲しいという思いが強く出てしまった。
せめて誰かもう一人いればこんな事にはならなかっただろう。
しかし、父の秀一はもういない。
止める者がいない。
その場の勢いで由美は家を飛び出してしまった。
家を飛び出したは良いが、行く当ては無い。
とりあえず叔父の浩二に連絡を入れる。
待ち合わせのファミリーレストランに、1時間程経って浩二は来てくれた。
「どうしたんだ、由美」
「ちょっと母さんとケンカしちゃって。しばらく叔父さんの家に泊めてくらないかしら」
この親子が大ゲンカすること事態初めてだろう。
しばらく時間をおいた方が良いと浩二は判断し、
「判った。俺は今忙しく、ほとんど家には帰らない。だが、早く仲直りするようにな」
「うん、判っている」
浩二は由美を連れて家に帰る。
「これが家の鍵だ。あのソファーは背もたれを倒せばベッドになる。そこで寝てくれ。食べるものは冷蔵庫に何かあるだろう。俺は仕事に戻る」
「叔父さん、ありがとう。気をつけてね」
頼られたことが嬉しかったのか、かけられた言葉が嬉しかったのか、少し照れくさそうに出て行く。
署に戻りながら浩二は姉の百合子に電話する。
「姉さん、由美は俺の所にいる。心配いらない。それと話しておかなきゃいけないことがある」
そう言って浩二は由美の身に起きた森の件を話す。
本当は合格していたが、その事があり受験に失敗した事にしてきた等彼の知っていることを話した。
渡辺の件はまだ話さない方が良いと判断し、隠すことにした。
娘のいろいろなことを一度に伝え、百合子が感情に走るのを避けたかった。
森の件だけでも百合子にとってはショックが大きかった。
何も気づかなかったことが、母親として情けなかった様だ。
「私、何も気づかなかった。だめな母親ね」
「姉さん、丁度事件の帳場が立ち、一番忙しかった時だから仕方ないよ」
「ううん、仕事のせいには出来ない。だって、実の母親なのよ。秀一さんにも顔向けできない。私にも心の整理をする時間が必要だわ。しばらく由美をお願いね」
「判っている」
そう言って電話を切る。
渡辺の件をどのタイミングで話すかに頭を切り替える浩二だった。
渡辺健一は作業場には歩いて通っていた。
最近作業場の近くに行くと不思議な感覚になる。
何か良い香りがするのだ。
実際に何かの香りがするわけでは無いが、その場に残った雰囲気というか気配というか、健一の感覚がそれを香りとして捉えているようだ。
敵意や悪意では決して無い。むしろ優しくそして切ないような、それでいて胸の奥が熱くなるようなこれまでに感じたことの無い感覚だ。
「今日も良い香りがする。何か良いことあるかな」
その日の昼に山本刑事がコーヒーを飲みにやってきた。
いつもより時間をかけてコーヒーを飲んでいる。
時々何かを考え込むような顔をする。
渡辺の顔をしばらく観察するかのように見ていたかと思うと突然
「おまえ今度の日曜日、夕方6時頃時間とれないか?」と聞いてきた。
「とれないこともないけど。」と渡辺は返事を返す。
「それじゃあフレンチレストランの○○を予約しておくからきてくれ」
「○○って言えば、高級レストランじゃないか。そんなお金ないぞ」
「俺が奢ってやる」
「おいおい、夏に雪が降るんじゃないか?一体どう言う大事件なんだ」
「いいから必ず来いよ」
「○○を奢ってくれるなんて、断るわけないだろう。いくよ」
「待ってるぜ」
約束の時間にレストランに行くと、山本刑事は先に来ていた。
となりには女子大生くらいのキュートな女性が座っていた。
健一の心に残る香りを纏い、少し照れたように微笑みながら。
残り香(暇な殺し屋) キクジヤマト @kuchan2019
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