第2話 受験
清香からの芸大を受験したい理由の問に少し間を置いて
「ほら、作品展で私、入賞したじゃない。あの時の喜びが忘れられなくて」
それが本当の理由でないことは幼なじみの清香には判っていた。
「由美、成績だって上位の常連だしお母様も警察官僚でしょ。私と同じ大学の文系を受験した方が良いと思うな」
「ううん。私は芸大に行きたい」
「そう、それならどこを受けるか決めていなくても、準備はした方が良いかもね。芸大は実技試験もあるんでしょ」
「そういえばそうだったわ。ありがとう、清香。もう一度三好先生に相談してみるわ」
「それがいい。頑張ってね、由美」
残った弁当を一気に頬張り、清香から貰ったお茶で流し込む。
「今日の放課後、相談する」
そう言って二人で教室に戻る。
その日の放課後、美術部の部室で三好にもう一度相談する。
「それで川原の目指したいものは整理できたのか?」
「まだ漠然としていますが、大体は」
「そうか、・‥そうだ。この前美術館に行く途中、電車から気になるものを見つけてな、途中下車してそこに行って見たんだ。そしたら面白いオブジェを見つけてな、作者に会ってきた」
由美はあの人だと直感した。
「渡辺健一というまだ若い子だったがなかなかいい男だったぞ。ああ、見た目だけじゃなく性格もな。少しだけしか話をしていないが今時の若者には珍しく、きちんとした気遣いの出来る子だった」
(渡辺健一って言うんだ。)
彼についてもっと詳しく聞きたかったが、話の流れから旧知というわけでは無さそうだ。それは無理だろう。
「彼の作品がな、なんとなく川原の作品の雰囲気に似ていてな、一度見てみるといい。川原の迷っている事の答えが見つかるかもしれん」
もう幾度となく見てきた。
芸大に行きたいと思うようになったのは彼とその作品を見たことが理由だった。
「時間があれば見てみます。でも、今は受験対策を優先したいと思います」
「ああ、そうだな。川原は作品を粘土で作っていたな。それなら工芸科が良いかもしれない。○○大学が良いか。川原はそこで良いか?」
「先生の勧めるところなら○○大学にします」
「では、そこの教授の好みの作風を調べてみるよ。川原の成績なら学科は問題ないだろう。最もあの大学は実技重視だからそちらの方が大変だろう」
「よろしくお願いします」
三好先生にはいつもお世話になっている。
入賞した作品も、粘土細工を知り合いの工芸社でブロンズ像にしてくれたおかげで入選したようなものだった。
いつも生徒のことをよく考えて下さる。
今回も甘えることにした。
入試対策の実技指導を受け、とうとう試験の日がやってきた。
1次は有名な石膏像のデッサン、2次は野菜をモチーフとした色彩表現。そして湖面をテーマとした粘土細工による立体表現だった。それぞれ7時間と6時間、6時間という時間が与えられた。4日間続けての試験はかなり体力を必要としたが、父親から古武道の稽古に付き合わされ、小学生の頃から習っていたため体力はある方だった。
試験が終わり帰宅しようとしていたところ、大学のキャンパスで声を掛けられた。
「君、ちょっといいかい。僕はこの大学で油絵の講師をしている森というものだが、出来れば君にモデルを頼みたい。僕のイメージに君がぴったりなんだ、頼むよ」
40歳前後だろうか、いかにもそれらしくあごひげを伸ばした男が立っていた。
「私、この大学を受験したものです。それはできないかと思います」
「それは全く問題ない。僕個人のお願いだ。いや、このところ少しスランプでね、やっとイメージ通りの女性を見つけたんだ。是非頼む」
由美は少し悩んだが試験も終わり時間もあるし、ここまで頼まれたならまあ良いかとつい
「判りました」
と返事をしてしまった。
すぐに後悔したが半ば強引に名刺を渡され、そのまま去ってしまった。
名刺にはアトリエのある自宅の住所が記載されていた。
次の土曜日、午後一時半とメモ書きがしてあった。
よく考えた結果やはり断ろうと、とりあえず名刺にあった住所のアトリエに行く。
モデルの件を断りに行くのだ。
財布等、最低限必要な物だけポーチに入れ肩に掛けた。
電話の連絡先がなく、直接行くしかなかった。
呼び鈴を押し、しばらく待っていた。
後ろで近所の主婦達が由美を見ながら何やら話をしている。
内容までは聞こえないが、その表情からあまり良い話とは感じなかった。
「お待たせ、良く来てくれたね。さあ、どうぞ中へ」
「あの、すみません。今日はモデルの件をお断りしようと」
言い終わらないうちに由美の手を引き、強引に中に入れる。
「ち、ちょっと何をするんですか!」
森はかまわず由美の手を引っ張り奥に連れ込む。
入り口に鍵を掛け、振り向いた顔は別人と思うほど冷めた表情をしていた。
近所の主婦達の会話である。
「あの先生、また若い子を連れ込んだみたいね」
「あの子、どんな顔をして出て来るのかしら」
「泣きながら出て来る娘、放心状態の娘、鼻歌交じりの娘。大体このパターンよね」
「ねえ、明日のランチでも賭けない」
会話の内容から安易に状況は想像出来る。
由美の置かれた状況を判っているはずだが、非常識で不道徳極まりない会話だ。
正義感そして倫理という言葉は彼女達の中には無いらしい。
若い娘にとって、中年主婦(拙い表現で申し訳ない)=天敵 なのだろうか。
それよりも由美が心配である。
話を戻そう。
部屋の鍵を賭けた森は着ている服を脱ぎながら由美に近づいてくる。
「何をするんですか!やめて下さい!」
そんな言葉など無視して下着も脱ぎ捨て、さらに由美に近づく。
森の手が由美の着ている服に触れた瞬間、由美は右手で森の手首を折り、体を森の右脇に周しながら左手で肘を突き上げ背中でねじ上げる。
習っていた護身術が反射的に体を動かす。
「がっ、いたたたた。うっ」
あまりの痛さに森は途中から声が出せない。
由美は腕を折るつもりでさらに高く腕をねじ上げ、そのまま森を突き飛ばす。
テーブル毎ソファー?に倒れ込む森を逃げながら横目で確認する。
震える手でなんとか扉の鍵を開け、アトリエの出入り口まで走る。
出入り口は二重ロックになっていた。
反射的に体は動いてくれたが、襲われたショックは大きい。
恐ろしさで先ほどより震える手では思うようにロックを解除出来ない。
振り向くと森が由美の方へ向かって来るのが見える。
捕まる瞬間ドアが開き、外に逃げることが出来た。
先ほどの主婦達が由美を見ている。
ただ見ているだけだった。
まだ震えは治まらないが、それでも必死に走る。
周りの風景が廻るように流れてゆく。
駅に着き、丁度到着した電車に飛び乗る。
逆方向の電車であったが、一秒でも早くそこから離れたかった。
電車のシートに座ってもまだ震えは治まらない。
駅を3つ過ぎ、やっと落ち着いた。
バッグなどの大きめの荷物が無くて良かった、と由美は思う。
あの状況では手に取る余裕など無かった。
もし落とした物があっても取りに戻る気は無い。
幸い無くした物はなかった。
電車であろうと森の家の近くに戻るのは嫌だった。
次の駅で下車し、タクシーで家の近くまで帰った。
落ち着くにつれ、森の下卑た振る舞いに腹が立ってくる。
主婦達の会話に戻る。
「あの子、すごい顔していなかった」
「初めてのパターンよね」
「明日のランチ、無しね」
第3者には言葉を失うしかない会話だ。
とぼけた顔をした男が主婦達の前を通り抜ける。
冷ややかで心の中まで見透かしたような目を主婦達に向ける。
目が合った瞬間、彼女達は自宅へと逃げるように戻って行く。
一月ほどたった頃、入試の合否連絡が届く。
『合格』とあったが、由美はあの大学に行く気は起きなかった。
すぐに破り捨て、母親には受験に失敗し浪人すると伝えた。
高校に行くと美術部の三好が来た。
「川原、大学に入学しないのか。あんなに頑張ったのに、どうしてだ」
受験に合格しながら入学しないことを知り、不審に思ったのだろう。
その問いを由美は無視した。
大人の男性に対する不信感、嫌悪感を持っても致し方ないだろう。
親友の清香の変わらぬ態度が由美には有り難かった。
事情を知れば違う対応をするだろう。
どのように変わるかまでは判らないが。
卒業したら多分、これまでのような付き合いは出来ないだろう事は予感していた。
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