第10話 約束

 肺が痛い。血液が巡るたび、心臓が破裂しそうなほど脈を打つ。しばらく全力疾走なんてしてなかったから、ものの十分で俺の足は限界だった。

 病院の中はくまなく医師と涼華が探してくれている。長い間入院していた俺たちしか知らない、秘密の隠れ場所はもう全部確認済みだ。

 偏頭痛で歪む思考で、奏がいけるところなんて限られている。よく夏に夕焼けを見たこの岬か、屋上か。大声で名前を呼ぶ。崖から落ちないように最新の注意で一周したが、奏はいなかった。

 残るは屋上くらい。山の上に作られたこの病院じゃ、街に降りるのは時間がかかる。もしそっちなら、俺にはもう見当がつかない。

 急いで裏口から院内に戻り、非常階段で屋上まで駆け上がった。扉の鍵は空いている。でも期待できない。不良な医者が一服している可能性もある。

 乱れる息を整えて、俺は扉を開けた。

 目に飛び込んでくる星空に、膝をつく。そこに奏はいなかった。錆びついた柵と、磯の香りと、俺がいつも寝ているハンモック。もちろん、他の人もいない。

「……どこ行ったんだ、不良娘……」

 扉を閉めて、階段を下りる。全身から力が抜けそうだった。手すりにつかまっていないと、もう落ちそうなくらい。

 俺まで少し偏頭痛がしてきた。頭を振って考える。記憶がない奏が、思い出した限りで行きそうな場所。それさえ分かれば。

 気がつけば、足が自然と奏の部屋に向かっていた。もしかして。そんな虚無な希望を抱きながら。

 西病棟三階の角部屋。神藤奏の札がかかった部屋の扉を開ける。とても長期入院患者とは思えないほどに、小綺麗な部屋。そりゃそうだ。アイツはずっと、短期間の検査入院だと思っているのだから。

 畳まれた布団が、奏に意識があった事を示している。机の上に置かれた『春暁』の本が、髪を縛っていたゴムが、この間俺があげた指輪が。この部屋が、奏を記憶していた。

「……二年も前の本なのに。何回読めば気が済むんだ、全く……」

 月明かりに本をかざす。見慣れた表紙に見慣れた文。パラパラとページを操ると、挟んであったしおりが落ちてきた。

 押し花で作った、ヒメムラサキのしおり。奏が俺と交換したやつだ。

 懐かしげにそれを見る。すると、一つの違和感に俺は気づいた。それは、しおりの挟んであった本だ。

「……なんで、こんなにキレイなんだ?」

 あまりにも、『春暁』の本がキレイだった。二年間、奏はほぼ毎日これを持ち歩いて読んでいた。記憶をなくし続けているのだから、その行動自体は特に気にならない。だから見落としていた。

 本の一番最後、印刷情報欄を確認する。奏が持っていたのは、俺があげた第一刷りだ。だが、今ここにあるのは最新の重版版、六刷りだった。

 驚いたのはそれだけじゃない。ページの最後、印刷情報欄の隣の裏表紙に、奏の字が残されていた。

「『今の私は、たぶん二十七回目。そして、今の私は覚えていないけれど、今日は約束の日』」

 それは間違いなく、奏が書いた、奏からのメッセージ。だけどそれは、俺や涼華に残したというよりかは、むしろ、自分に向けてのような。

「……あいつ、自分が記憶喪失だって事知ってたのか?」

 奏の記憶が確実にないのは分かっている。それは精神科医や脳外科医が証明済みだ。だがもし彼女が、自分が周期的に記憶を失っていた事を知っていたら。

 忘れるたびに、彼女は必ずこの本を手に取る。そして最後まで読んだ自分に向けて、こうしてメッセージを残していれば。

 記憶は残らなくても、記録は残る。それは言葉に、音に、身体に、そして文字に。奏が残した、奏自身の記録を俺は探した。

 鍵がかかっていた戸棚をこじ開ける。最後まで内緒だといって見せてくれなかったそこには、およそ二十冊の『春暁』の本があった。その全てに、買った日付が書かれている。

 一番古い第一刷り。最初の見開きに俺がサインを書いたやつには、なんのメッセージも残されていなかった。二冊目の二刷りから、最後にメッセージが残されていた。

『たぶん、私は記憶喪失になった。それも一度や二度じゃない。違和感もないから気づかなかったけど、今日冬真くんの小説の映画がクランクインだと知って気がついた。逆算すると、たぶんこれで七回目。きっとまた記憶を失う。だからここに記しておきます。次の私、絶対冬真くんへの気持ちを忘れないで』

『たぶん八回目、了解。次の私、今回の私は冬真くんとデートに行きました。忘れてしまってるでしょう。とても楽しかったです』

『たぶん十五回目、了解。今回は冬真くんから告白された。手を繋いで、お城を見に行った。とても緊張したけど、楽しかった』

 俺の記憶にある全てを、奏は記録していた。絶対に自分がこの本を読むとわかっていたから、彼女はここで次の自分に託したのだ。

 そして、最後から五冊目。日付は俺と奏が初めて恋愛契約を交わした月だ。

『たぶん二十三回目、了解。今回冬真くんは、私と恋愛契約というものを結んだ。直接告白されると思っていたから、少し面食らった。でも面白いから結んだ。次の私、もう一度冬真くんとこの契約を結んで』

『たぶん二十四回目、了解。驚きだ。恋愛契約の内容と思しきものを私が覚えていた。これは発見! もしかしたら、この記憶喪失も治るかも! さっそく一つ約束した! 次も覚えてるといいなぁ』

 二十五回目も、六回目も、同じようなことが書かれていた。

「……バカはどっちだ。お前一人で、こんなもん背負いやがって……!」

 握りしめた拳が痛い。無力感が、胃の底からせり上がってきた。奏が一人で、二年分の空白と闘っている間、俺は恋愛契約だの、忘れて欲しくないだの、ガキみたいなことばかり。

 どこにいる、奏。俺はお前に、言わなきゃいけないことが沢山あるんだ。

 本を戻すとき、戸棚にもう一つ束があることに気がついた。それは、俺と奏の名前が入った契約、六通の恋愛契約書だった。

 全三十条で構成された、記憶じゃなくて記録に残す恋愛。最新の一枚を見る。そこに記されていた、足されていた一文に俺の涙腺は切られた。

『恋愛契約、第三十一条。何があっても、恋人のことは忘れない』

 声を殺して、契約書の上に涙を落とす。これは、奏が最後まで病気に抵抗した証だ。

 思い出せ。捻り出せ。どこだ。奏が、俺の恋人が行きそうな場所は。

 ふと、机の上にあった二十一冊目が目に入る。彼女が残した言葉、『今日は約束の日』。この一文が、頭にひっかかった。

 彼女との約束を、一つずつ思い返す。記憶があっても、こうなれば一緒だ。

 あたりを見渡して、目についたものを片っ端から考える。椅子、机、星空、月、海、本……。春暁に、リナリアを。

「春に……またここで……リナリアを……」

 いつだ。リナリアが枯れている季節。冬、クリスマス前の契約、デートで行った。

 ここで……植物園。

「あの植物園か!」

 次はまた春に、今度は外に咲くこの花を見にきましょう。クリスマス前のデートで、彼女はそう言っていた。もし、その記憶が戻ったなら。

 満開に咲き誇る花畑に佇む奏の姿がまぶたに浮かぶ。俺はもう携帯を取り出していた。

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