第9話 ここからの景色


 その日は桜が満開で、病院の屋上から見ると、沿岸の並木が絵画みたいにキレイだった。

 京都から帰って以来、俺はずっと呼吸器をつけて暮らしている。最後に潮の匂いを感じたのは、もう一週間は前だ。

 ずっとあった息苦しさは解消されたが、なんとも世界が簡素になってしまった。筋力もだいぶ落ちたのか、ペンより重いものはだいぶキツい。

 十二月に本を出して以来、もう何も書いていない。ありきたりな学園ラブストーリーを、適当に書いたそれは、なぜか割と世間で人気らしい。

 晩飯の後の、背徳の菓子パンを頬張っていると、勢いよく扉が開け放たれた。

「ちっ、違うぞ涼華! これはアレだ! 糖分の補給だ! 執筆には必須で……!」

「違うバカっ! お前が……書いて……ないのは知ってんだ……ぞ!」

「どいつもこいつも人をバカバカと……! しかしなんだ。そんな息を切らして」

 いつもは見た目を気にする涼華が、今日は髪を乱し、ナース服にじっとり汗を滲ませていた。病院を全力で一周でもしなければ、こんなに疲れはしないだろうに。

 牛乳を手渡すと、涼華はそれを勢いよく飲み干した。パイプ椅子を引っ張り出して座ったら、一度大きく息を吐く。

「……奏がいなくなった。就寝前の回診の時だ。荷物を残して、病室から完全に姿を消した」

 珍しく焦っている鬼ナースの言葉に、心臓が高鳴る。久しぶりに動いたいろいろな筋肉が、悲鳴を上げた。

「奏が消えた……? あんな身体でか? それに今日は……」

「院内はもちろん、周辺もくまなく探した。今手の空いた看護師や医者総出で捜索中だ。そしてお前がいう通り……、今日奏は偏頭痛を訴えていた」

 どんどん早くなっていた記憶喪失の周期は、ついに半月になっていた。奏が回診で偏頭痛を訴えた日は、涼華が昼飯を運んでくるときにさりげなく教えてくれる手筈になっている。

 病人である奏が脱走することは、病院からすれば大問題だ。だが、俺たちにとってはそこよりも重要な問題がある。

 奏は偏頭痛を起こし記憶を失う際、必ず一度長く眠る。今までは最短で半日、長くて三日だ。いくら暖かくなってきたとは言え、明け方の冷気に当てられれば凍死する。

「俺も探す。俺が一番、奏の行動を知ってる」

 身体中から鳴る痛みのサイレンを無視して、床に足をつく。しかし、うまく立てなかった。倒れるところを涼華に支えられて、なんとか踏みとどまれた。

「だめだ。お前は自分の身体を大切にしろ。奏は必ず私たちが見つけるから、頼む。これ以上、私の大切なやつがいなくならないでくれ」

 背中に回された涼華の手が震えていた。そうだ。こいつは俺たちとは背負っているものが違う。看護師として、患者の命を預かっているんだ。……だけど。

 俺を支えつつ、逃げ出さないように捕まえる涼華の手を握る。小さくて暖かい。子供の頃俺をぶん殴っていた、怖かったはずの彼女の身長を、俺はいつの間にか超えていた。

「こんな状態で大丈夫と言っても、信じられないだろう。が、俺はお前を信じてる。いつも何かした俺を叱ってくれたのは涼華、お前だったからな」

 薄くなった胸板に、涼華が頭を預けてくる。気がつけばちゃんと立てていた。ヤンキーナースが胸ぐらを掴んでくる。

「お前に叱られるまで、俺は死なない」

「……クソガキが。一丁前になりやがって。わかった。覚悟して戻ってこい。昔から、バカやったお前たちを叱るのは私の役目って決まってんだから」

 顔を上げた彼女は、鼻の頭が赤くなっていた。外が寒いせい? いや、俺はそこまでバカじゃない。

「いつかの答えを、今言おう。俺の心はここにある」

 親指で眉間を指す。涙を溜めた涼華の目が、一瞬で乾いていくのがわかった。

「早るなよ涼華。別に、俺の頭の中ってわけじゃない」

 人が死ぬのはいつか。一般的には、心臓が止まって動かなくなった時。医学的には脳死が確認された時。だが、俺はそんなくだらない死に方はしない。

「人の心は、観測されて初めて見つかる。お前が見てる俺の姿に、俺の心は宿る。わかるか?」

 『君に会えて初めて、僕は心を持てた気がする』。そんな文章を、『春暁』の中で書いた気がする。今思えば、昔の俺にはそれしかわからなかったんだ。

 出会いを果たし、打ち解け、そうして心が生まれる。だが違った。そんなもんは始めから誰も彼もが持ち合わせてる。ただ、自分じゃ観測できないだけだ。

 涼華が見ている俺と、奏が見つめる俺は違う。二人から見た俺が、俺以外の全てから見た俺が合わさって初めて、春巳冬真は完成する。

「わかんねぇよ、ばーか」

「わかれ、ばか」

 無理やり笑った涼華を抱きしめる。華奢だった。あんなに怖かった鬼ナースも、奏でと同じ、ただの女の子だった。

「俺は今から、欠けた俺の心を取り戻しにいく。……ついでに奏もな」

 弱り切った腕の中で、「苦しいんだよ」なんて声が聞こえる。涼華から離れ、病室に背を向けたた。

 お返しと言わんばかりに、涼華に背中を殴られた。病人に喝を入れるナースの力なんてもんじゃない。だけど、おかげで身体と魂が一つになった。

 親指を立てる。背中で語る。空っ風が吹く寒空へ、俺は飛び出した。




 冬真がいなくなった病室は、なんだか大きく見えた。それもこれも、アイツが無駄に成長しやがったからだ。

 ずっと弟みたいだと思っていた。奏だって、バカな弟に振り回される可愛い妹だ。そんなアイツらが、ようやくお互いの本心に気付けたんだ。これは姉として喜ぶべきことだ。間違いない。

 そのはずなのに。

「……ばかっ! ばかばかばかばか! アイツの、冬真の前じゃ絶対泣かないって決めたんだ。ちくしょう。なのに、なんで……! くそっ!」

 袖が濡れていた。拭いきれない分が、シーツに零れた。鼻が熱い。目が辛い。

 この病室には、私と冬真、奏の十数年が詰まっている。看護師に隠れて食べたカップ麺、後でめちゃくちゃ怒られたスイカ割り。一度だけ、高校生の頃に、私がバイトで貯めた金で買った室内プラネタリウムを見たこともある。

 たぶん、私はあの時から。星を見て目を輝かせる冬真に、いつか同じ景色を見せてやりたいと思った。ここじゃない、どこか外国の空を、一緒に。

「今アイツは、誰と同じ空を見てるんだろうな……」

 カーテンを開けると、春の空に光が散らばっていた。星がきれい、なんてどこかの本で読んだ事を言ってみればよかった。小説家のアイツなら、きっと気づく。

 下に視線を落とすと、冬真が病院の庭を走っていた。裏手に回って、海の方を見るんだろう。

 何かに全力で、好きなものに目を輝かせる。さて、奏と私を見る時、アイツはどんな目だったか。

「がんばれよ、冬真。なんたって、お前は私の…………」

 誰にも告げないその言葉は、満天の星空に溶けていった。

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