第8話 これが最後

「おはようございます、冬真先輩。荷物多くて、時間かかっちゃいました」

 四月一日午後一時、駅前の時計噴水の前。いつも通り三分遅れて、奏が荷物を抱えてやってきた。

 読んでいた本にしおりを挟んで、目をあげる。頭に花びらを乗せた後輩は、肩で息をしながら伸びた髪を整えていた。病人のくせに無理をするな、バカ。

「多少の遅刻は焦らせる効果がある。加点だな」

「やったー! って、今日は私が点数つける番ですよ。しかもそれなら、初デートで遠くにお泊まりはちょっと減点ですね」

「やかましい小娘。文句があるならこの高級旅館と特急のチケットを燃やして、そこらのカラオケでもいいんだぞ」

「うっわ! ちょっと先輩、なにライター取り出してるんですか! ウソですウソ! 超楽しみです!」

 奏と恋愛契約を交わしたのは、これで六回目になる。同じ内容で、同じデートを繰り返す。四回目に彼女は条項のいくつかを、五回目にはデートの内容をほんの少しだけだが覚えていた。

 彼女の時間は動き出した。それと同時に、記憶を失う周期も早まってきている。だからこそ、決着をつけたかった。

 駅前の桜はもう花弁を咲かせて、凍えるようだった潮風はすっかり心地いい。花の種を啄むハトが、足廻りをうろちょろしていた。

「……先輩キライです」

「そうか。俺は奏が好きだけどな。さ、行こうぜ。電車来ちまう」

「……っ! ホントキライです!」

 今日のデートは少しばかり荷物が多かった。泊まりがけの京都旅行。それが今回のプランだ。

 電車に揺られながら、そよぐ桜をつまみにコーヒーを飲む。県外へ出かけるのなんて、もう何年ぶりだろう。それも転院じゃなく、恋人との旅行という形で来れるなんて、お互いにきっと思ってもいなかった。

 今回の契約を結んだ直後、涼華に言われた。もう二駅までの制限はなくなった、と。それはつまり、もう本当に時間が近づいているということだ。

 幸い、奏の病気は通院していれば進行することはほぼない。だから、告げられたのは俺だ。最近、いっそう髪の色が抜けている。高校生の歳の頃はキレイな金髪だったのに、もう白髪といっていい。

 新作を書いている俺の正面で、奏は飽きもせずに『春暁』を読んでいる。彼女にとっては、何十回目かの初見だ。いつかに作った押し花のしおりも、まだ使ってくれてるみたいだ。

 特急で二時間と少し、田舎者からしたら京都駅は魔境で、地下街で三回は迷子になった。俺も奏も、人混みに耐性がない。だから自然と、手を繋いで歩いた。

 バスの一日券を買って、行きたいところへ行った。伏見稲荷で鳥居をくぐり、渡月橋で昼間の月を見る。

 夜には祇園の一等高価な旅館に泊まり、温泉に浸かった。生まれて初めて湯葉というやつを食べた。日本酒を飲んで、浴衣を着て。まるで、今日が人生の最後みたいな。そのくらい、やりたい事をやった。

「奏、少し散歩行こうぜ。鴨川のほとりにうまいたい焼き屋があるらしいぞ」

「先輩、たい焼き好きですよね。いいですよ」

 草履の擦れる音が、夜の街に溶けてゆく。川のほとりは橋の喧騒なんて聞こえないほどに静かだった。

 土手に並ぶ夜桜が蒼莱を鳴らす。熱々のたい焼きは、すこしばかり季節外れだ。口が甘い。

「俺の本、どこまで読めた? ラストにかけて色々伏線を張っておいたんだが、どれが分かりやすかったとかあるか?」

「もう全部読み終わりましたよ。いやぁ、やっぱり最後のプロポーズのところ最高です。先輩って、意外と凄い人だったんですね」

「やっと俺の実力を理解したな。まぁ、新作はお前のおかげでうまくいきそうだ。期待しててくれ」

 違う。こんな事を言うために、わざわざ連れ出したんじゃない。この記憶にない場所で、記憶にないことをすれば、奏は覚えていてくれるかもしれない。そんな希望があったから、俺はここまで来たんだ。

 しっぽを口に放り込んで、宇治抹茶で流し込む。

「今回のデートは点数をつけなくていい。ただ俺が来たかっただけだからな」

 動き始めた時間の中で、俺はどれだけ居座れるのだろう。居なくなったら、また俺のことを忘れるんじゃないだろうか。

 それが怖いから、今までこの方法は試さなかった。だから、命の期限を決められたのはちょうどいい。覚悟を決めるいいきっかけだ。

「……そうですか。でも、ならなんで私と一緒に? あ、小説のネタですか?」

 浴衣の裾に手を通す。そこにある小さな箱を握りしめ、すこし目を細めた。

「気付けバカ。俺がお前と一緒にいたいからだ」

 恋愛契約なんてのは、臆病な俺の逃げだ。俺が忘れられるのが寂しくて、俺が好きなお前が、俺を好きなお前が、俺を覚えていないのが悔しかっただけだ。

「今日俺たちは、契約した恋人としてここに来た。だが明日帰るとき、それが本物になっていたら、おもしろいと思わないか?」

 川上から散った桜の花弁が流れてきていた。俺は箱を取り出し、中身を奏に差し出した。

「左手はもう少ししてからだ。右手の薬指にでも付けておけ」

 二人の名前の入った指輪。記憶ではなく、確かに残る記録。傷としてではなく、喜びの痛みとして奏の中に残るもの。

 少し躊躇って、奏はそれを受け取った。わかり切った告白なんて卑怯だが、それくらいは許されてもいい。なんと言っても、俺は世間で人気の小説家なのだから。

「冬真先輩……。嬉しいです。最高です。大好きです。百回でも、千回でも言います。私は冬真先輩のことが……」

 ずっと、今日のことを覚えている。きっと死ぬまで。奏の記憶から全てが消えても、この場所が、空気が、鴨川が、夜桜が、俺が覚えている。世界中が、思い出のクラウドだ。

 今でも覚えている。きっと、奏の中の記録にも残っている。今日は、俺がようやく本音を言えた日。二十七回目の、両想いになれた日。

 けれど俺はこの時知らなかった。これが、最後の恋愛契約だったということを。そしてこれが、神藤奏とした、最後の旅行だということを。

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