第7話 再契約

 物心ついたときに告げられた余命は、たった半年だった。俺が聞いたんじゃなくて、祖母の反応と態度からそう悟った。

 ならせめて楽しく生きてやろうと、毎日を我儘に過ごしていた。親がいないからって、両親と来院した同い年の子供と喧嘩したり、新人のナースと遊んでもらったり。

 奏と涼華は、俺の生きる意味になってくれた。俺が我儘を言うたびに叱ってくれる涼華と、俺のバカな好奇心に付き合ってくれる奏。

 いつだったか、二人から同時に手を伸ばされた。俺が取ったのは…………。

 目を覚ますと、天井のクリーム色が目についた。すっかり陽は沈んで、上弦の月が浮かんでいる。

 ナースコールで涼華を呼び出す。入院着が私服に変えられているのを見るに、相当血を吐いたみたいだ。呼吸器もがっちりつけられてる。

「奏の確認はできたか?」

「少しは自分の心配しろよ……。あぁ。精密検査つって、CTスキャンと記憶の確認は終わった。結果はいつもどおり。高校三年生の一学期までが曖昧に残ってる」

 これまでの二十数回の疲労がのしかかる。呼吸器から流れてくる無味な空気に、数回咳をした。

「ただ、一つ気になることを言っていた。何のことか知らないけど、最初は挨拶とか、百点を取ったことがないとか。学校に通っていた時の記憶だと言っていたが、お前ならわかるだろ?」

「契約の内容自体は覚えてる……?」

 その文言は、恋愛契約第一条と七条だ。恋愛契約を交わしたことも、俺とのデートの内容も覚えていないのに、その言葉自体は覚えていた。

 俺と涼華は目を合わせる。叫びたい気持ちを抑えて、拳を突き合わせた。

 奏が記憶を失った時、その体験をもとに書かれたのが雨戌の代表作『春暁にリナリアを』だ。その際俺は、この病院にいる脳外科医や精神科医に片っ端から記憶というものに関して尋ねた。

 前頭葉が刺激を受け、海馬に電気信号として記録される事象。それが記憶というものらしい。記憶喪失とは、その電気信号に異常が起こること。主に脳に対するショックで引き起こされる。

 だが、それはあくまで脳科学の記憶だ。人間は身体に蓄積する。武道の達人は記憶を失っても演舞を舞える。音楽なんかはモロに身体が覚えている。だが、そんな事よりも強く覚えていることがある。

 それが痛みだ。深層心理に分類されるその事象は、遺伝子レベルに刻まれる。

「恋愛契約は奏にとっちゃ枷でしかない。片思いを伝えられないんだからな。そこに来て、冬真が私を好きだという。最低で残酷だが、確実にその痛みは身体に記録される」

「俺だって、できればやりたくなかった。だがこれしか方法がない。気合と根性で奇跡が起こるなんて、医療関係志望ならよくあることだろ。それに、理屈を超えてこその小説家だ」

 身体を起こし、ベッドから足を出す。呼吸器を外すと、潮の匂いが鼻についた。まだ肺は全快じゃないが、妙にすっきりしている。

「協力してくれ、涼華。もう一度俺は契約する」

 ちっぽけなガキの、幾度の投薬で色素が抜けた薄金色の髪を、ヤンキーナースは優しく撫でてくれた。



 面会時間が終わった今、いくら病院側と協力していると言っても奏の病室には正面から入れない。だから俺は、非常階段と窓の縁を使って、西病棟三階の角部屋に向かった。

 真冬の海風は、重病人には少しキツい。何度か足を滑らせながら辿り着いた部屋は、もう消灯時間は過ぎているというのに、ベッド際の灯りが点いていた。

 窓を叩く。こんな時間に、病院で、外からの来訪者。さながら、俺は幽霊だ。

 恐る恐るカーテンを開けた奏は、目を見開いて後ずさった。ベッドの角に腰を打って悶絶している。百点だ。でも寒い。早く入れてくれ。

「な、何してるんですか先輩! え? 時間もそうだし、場所も! えっ!?」

 招いてくれたはいいものの、奏は怒りと困惑が半々だ。だが、俺はその言葉を聞き逃さなかった。

「話があってな。明日までじゃ遅いから今しに来た。つか、なんだ先輩って」

「なんかぱっと言っちゃったんですよ。それより冬真くん、話とは何ですか? 見つかったら私も涼華さんに叱られるんですから、しょうもない事だったら怒りますよ。こないだみたいに、小説のネタとか言って夜の海行くのはもう勘弁ですからね!」

 懐かしい、二年前のことだ。あの時は夏で、俺がまだ新人だった。『春暁』の中に出てくるワンシーンのために、奏を連れて夜の海に飛び込んだ。

 だが、無茶をしたおかげで確信が持てた。恋愛契約は、確実に記録として奏の中に残されている。

 恋愛契約を持ち出すのは三回目だ。何をいうかも決まってる。珍しく真面目な顔をして、俺は持ってきていた契約書を取り出した。

「実は、次の作品は恋愛モノに挑戦しようと思っていてな。だが、俺は学校に行ってないからまともな恋愛を知らない。俺はまだその感情を知らない。だから、奏に俺の恋愛の練習相手になってほしい」

 最低だ。この時点で奏は俺のことを好いている。そのことを俺は知っている。何度も何度も確認して、幾度も忘れられてしまったが。

 突然の申し出に、奏は固まっていた。ふらふら立ち上がって、冷蔵庫からお茶を取り出していた。お見舞いのお菓子を食べていた。最後に契約書を確認して、ため息をついた。

「……まったく、冬真くんに付き合えるのなんて私しかいないじゃないですか。でも勘違いしないでくださいよ。私はあくまで雨戌先生の作品のためにやるんですから」

 契約書に互いの名前を書いて、形だけの封をする。契約を結んだ後の、奏の悲しげな顔は何度見ても胸が痛い。笑って誤魔化そうとしている態度が辛い。口が苦い。

 俺は笑った。このふざけた美しい世界へ、目一杯の皮肉を込めて。

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