第6話 ただ、お前に笑って欲しかった
小説を書いたのは、あんまりにも毎日が退屈だったからだ。朝起きて検査を受けて、昼と夜も同じ繰り返し。うざったい呼吸器を外すと、すぐに看護師が飛んでくる。
祖母がたまに顔を見に来ては、どこかに連れて行ってくれた。俺より後に入院したくせに、俺より先に病院からいなくなった。
新人の医者が来るたびに、本を貸してもらうのが楽しみだった。小難しい医学書で、学校に行ってない分の読み書きと知識を補った。
『おい涼華、人の心はどこにある。内臓の位置も神経の配線もこの本には書いてあるのに、心とか言うやつだけ載ってないぞ。不良品だ』
『そりゃまだ分かってないからな。今はそれが完璧は本なんだよ。いつかそれが分かったら、お前が書いてみろ。ノーベル賞ものだ』
『言ったな? じゃあ書いてやる。人の心がどこにあるかを』
クリスマス明けの朝、俺は病院の庭で冷えたコーヒーを飲んでいた。新作の締め切りまであと一週間しかないが、今は何も手につかない。
さっきから、深々と雪が降り始めていた。肺を冷やすなよ、と涼華から散々言われているが、知らない。どうせここにいたら来てくれる。
「外出んなつってんだろクソ冬真。せっかく安定期入ってんだから、大人しく書いてろ」
「……悪いな、涼華。待ち合わせ中だ」
薄桃色のナース服が雪の中に溶ける。珍しく涼華は、昔みたいに髪を結んでいた。
「……もう起きてる。行くぞ」
缶の中身が揺れる。今日はイヤに調子がいい。全部の運を、身体に吸われたみたいに。
涼華に連れられ、俺が来たのは西病棟三階の角部屋だった。何となく時間が欲しくて、病室の前にあるアルコール消毒を噴いた。扉を鬼ナースが顎で差す。三度ノックした。
部屋の中の小綺麗さは、まさに短期入院患者のそれだった。彼女はベッドの上で、スライド式の机に広げられた朝ごはんをおいしそうに頬張っていた。
「おはようごさいます、冬真くん。どうしたんです? こんな朝から。もしかして、プリン狙いですか?」
「……第二十一条」
口が乾く。さっき飲んだコーヒーの苦味が、喉元から迫り上がってきた。
「二十一条? 表現の自由ですか? あ、もしかして小説の表現について相談に来たんですか? ちょっと待ってください、今調べますね」
「……いや。奏がちゃんと勉強してるか調べにきた。お袋さんから言われてるんでな」
「うっわ、朝からめんどくさいですよ、冬真くん」
目の前で自慢するみたいにプリンを頬張る彼女を、俺はどんな目で見ていたんだろう。笑えていただろうか。いつもの、偉そうな冬真でいられただろうか。
外の雪が強くなっていた。今日は寒くなりそうだから、外出るなよ。そんな事を言って、部屋をあとにした。
ナースステーションは、全フロアを見渡せるように真ん中にある。だから扉を開けてすぐ、中にいた涼華と目が合う。
「……今回も失敗だ。奏は覚えていない」
「あそこまでしてもダメか……。すまないな、冬真。これは私たちの仕事なのに」
「構わんさ。俺は奏の先輩だからな」
眉間にしわを寄せて、精一杯強がってみる。鬼ナースは、黙ってドーナツを奢ってくれた。
屋上は雪が積もっていたから、俺の病室で涼華はサボりがてら買ってきたドーナツを食べていた。こいつがここに来ると、編集からの見舞い品がすぐ消える。どんだけ食うんだ。
パイプ椅子に腰掛けた涼華は、一口食べてから全然動いていない。俺も同じで、降り頻る雪だけを眺めていた。
「冬真、お前まだ奏が好きか?」
「……当たり前だ。そのために俺は、あの本を書いた」
引き出しからDVDを取り出し、それをパソコンに入れる。何度も見た冒頭のシーンが終わり、タイトルが画面いっぱいに映し出された。
「春暁にリナリアを、か。次こそは、覚えていてくれよ」
二年前からだ。忘れもしない、あの植物園で、俺が奏と本物の恋人になった日の夜のことだ。
病気の進行を遅らせていた俺と奏は、病院から外出許可をもらい二人で出掛けた。そこで普通にデートをして、普通に告白が成功した。その日の夜、病院に帰った奏の容体は急変した。担当医から聞いた話によると、脳にできた血栓か何かが原因で頭痛を起こしたらしい。
一晩中うなされ続けた彼女は、次の日には綺麗さっぱり、後遺症もなく元どおりになっていた。しかしそれは、すべての記憶とともに。
以来神藤奏は、月に一度記憶を失う。催眠療法と時間をかけて高校生までの記憶は取り戻せたが、奏はそれ以上を覚えていられない。
雨戌の本の内容も、映画のことも、二人で出掛けたことも、俺の本心すら。月に一度引き起こされる偏頭痛で、全てが彼女の時間から消え失せる。
奏が楽しみにしてる映画は、もうクランクインどころか封切りも終わっている。この間行ったたい焼き屋は、もうすっかり地域に定着した店だ。
奏と一緒に書いた、恋愛契約書を取り出す。よくまぁ、こんなものに希望を見いだせたものだ。記憶ではなく、記録に残せば覚えていてくれるかも、なんて。
「俺にはもう時間がない。それなのに……っ!」
感情が昂って鼓動が早まると、肺が激痛を運んでくる。迫り上がってくる喀血を、側にあったタオルケットに吐き出した。
「興奮すんなバカ! あー、クソ! スタットコールだ! 四階東棟四◯五号室、喀血を確認!」
患者が急変したときに発令されるスタットコールが、病院中に鳴り響く。すぐに各科で手の空いているドクターが集まって、俺は呼吸気をつけられた。
鉄の味が口いっぱいに広がった。まだ今日やらなきゃいけない事は残ってるのに。まだ俺は、奏を諦めるわけにはいかないのに。
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