第5話 記憶

 日付が変わる前に、私は病室を抜け出した。外は息が凍るほど寒いのに、何も着ずに、雨戌先生の本だけを持って。

 ナースステーション脇のエレベーターは使わずに、錆び付いた非常階段で最上階まで逃げて、気がつけば屋上に来ていた。

 冬の空は嫌いだ。寒いくせに、澄んだ空気のおかげで星がよく見えるから。凪の海に映える月が綺麗だから。

「……よかった。これで私も青春の仲間入りだ。冬真先輩も、涼華さんも、お似合いじゃないですか」

 ハードカバーをきつく握りしめる。落ちた雫は、きっと夜露だ。雪だ。

 物理的に頭を冷やせば偏頭痛も治るかと思ったが、痛みは増す一方だ。一応午後の回診の時に伝えて薬をもらったのに。

「『忘れたくない想いがあるんなら、記憶じゃなくて記録すればいい。身体に、景色に、自分以外の誰かに。あなたの中からもう一度、今日までの全部がなくなっても、私がそれをかき集めて、必ず会いに行くから』」

『春暁にリナリアを』最後のシーン。全ての記憶を取り戻した主人公に、ヒロインがかけた言葉。

 もし、何十年後、私の中から先輩への想いが消えたとしても。きっとこの景色が、星空が、潮騒が教えてくれる。いつかの淡い、小説みたいな恋の話を。

 最後の一ページを繰った途端、偏頭痛がいよいよ耐えられないほどひどくなった。頭が割れるとかじゃない。脳が崩れるような、目の前の世界が外れたパズルになるような。

 膝が折れる。ほおに当たっているはずのコンクリートに温度はなかった。握りしめていたはずの本は、いつの間にか投げ出したようだ。

 走馬灯のような景色が蘇る。春のさくらの下、先輩の頭に乗った花弁をとった。夏の海で、かき氷の早食いをした。秋には紅葉の木をくぐった。

 冬は……。その冬は、私と冬真先輩があの植物園で……。桜の木の下で、手を繋いでいた。

 違う。そんなこと私はしてない。じゃあ、そこにいたのは誰だ。私はどこにいた。私は何だった。先輩の隣にいるのは。涼華さんじゃない。じゃあ誰だ。そもそも涼華さんって誰だ。私は誰だ。


 先輩って、誰だ。

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