第2話 鬼ナース襲来

「こないだの外出許可、また冬真とどっか行ってきたんだってな? お前ら最近仲良いよな」

 人の腕に針を刺しながら、磯塚涼華さんはにやついていた。

 山の上に佇む、海と街を一望できる鳴海総合病院。三百床あるその全てが個室という贅沢さがウリのこの病院が、私と冬真先輩の家だ。

「水族館でナイトショー見てきました。冬真くんとは仲がいいと言うか、まぁ、色々ワケがありまして。涼華さんはどこも行ってないんですか?」

「私は家で一人寂しく勉強だよ。研修看護師に暇はないからね」

 そんなことを言いつつ、涼華さんは研修にしてはずいぶん派手な髪の色をしている。色素が抜けている冬真先輩と比べると劣るが、かなり金色だ。

 本人曰く「昔ヤンチャしてた」との事だが、信じられるものか。現役に決まっている。

 姿見に映る自分の黒髪をいじってみる。入院中は邪魔だからと、肩上まで切ったのを少し後悔していた。

 朝の検査を手早く終えると、朝ごはんを置いて涼華さんは部屋を後にした。私もあの人くらい美しくなってみたい。口が先輩と並ぶくらいガサツなのが残念だが。

 誰もいなくなったことを確認して、私は引き出しを開ける。そこにしまってある便箋を取り出して、机の上に広げてみた。

 恋愛契約書と表されたそれは、実に三十条を綴った私と冬真先輩の契約だった。

 私は血液の病気で子供の頃から入退院を繰り返している。高校に入ったはいいものの、何ヶ月かに一度は必ず透析やら検査で入院する。一応、国の指定難病なのだ。

 春巳冬真先輩は、聞いた話じゃ循環器系でいるらしい。だが彼は学校に行ってない。だから正確には先輩じゃない。

 小児科の時は病棟が同じで、よく顔を合わせていた。病院は暇だから、ずっと冬真先輩と遊んでいた。だから涼華さんの話は違う。仲がいいのは昔からだ。

「恋愛契約第七条、好きな人ができたらこの契約はおしまい、か」

 恋愛契約序文、甲と乙はお互いを恋人の練習台とする。

 二週間前、十二月の初めごろに、先輩はこの恋愛契約を持ちかけてきた。三年前から小説家として活躍している先輩の次の挑戦が、どうやら恋愛小説らしい。

 でも、恋愛はおろか学校に行ったことがない先輩はその感情が希薄なわけで。それは私も同じで。いつかその感情を知るための訓練期間として、この契約を交わした。

 だから先輩はあくまで作品のために、カップルの経験値を積んでるにすぎないのだ。言えるはずがない。言ってしまって、この関係を壊したくない。

 恋愛契約第六条、この関係は秘密とする。書類を鍵付きの棚にしまって、隣に積んであった本を一冊取る。雨戌先生の『春暁にリナリアを』という本だ。冬真先輩の最新作だ。

 日でも浴びながら読もうと、屋上へ向かった。春には可憐に咲く花壇はもう、茶色一色だ。

 白いタイルの真ん中に、誰かがハンモックを持ち込んでいた。そんなことをする人は決まってる。

「なんでこんなもの持ってきてるんですか冬真くん。そろそろ涼華さんがカルテ取り合えて休憩にきますよ?」

「恋愛契約第二十一条、二人きりの時は『先輩』を付ける」

「はいはい、冬真先輩。新作は順調ですか?」

「デートシーンが鬼門だな。あと、告白の台詞も考え直しだ」

「私はいいと思いますよ。月が綺麗だな、って。リアルで言われるとアレですけど」

「やめろ! その話題は出すな! 昨日は素面だったせいで倍恥ずかしいんだよぉ!」

 私の心を弄んだ罰だ。しばらくはこのネタで悶絶させてやる。

 先輩は一頻りハンモックの上でのたうち回ると、やがて座り直した。微妙に隣を空けてくれたので、遠慮なく座った。

「先輩、めっちゃ手冷たいですね。いつからいたんですか?」

「さぁな。でも、ここが一番捗る。つか、お前こそなんでこんなクソ寒いとこに……」

「読書は外でするほうが好きなんです。特にこの本は」

 去年の暮に冬真先輩が出した本、『春暁にリナリアを』は、映画化を控えている人気作だ。

 事故で記憶を失った主人公を、ヒロインが支えるという話。学園生活が書けない先輩は、いつも病院を舞台にする。入院生活の退屈さや、その暇の紛らわせ方のリアルさが世間で評価されたんだとか。

「この作品は私的に百点ですよ。先輩の書く、ちょっと無機質な恋愛好きです」

「俺の考えうる全てを注ぎ込んだからな。だから次はない。他のパターンも研究しなければ、いずれ飽きられる。奏くらいだ。俺に付き合ってくれるのは」

「私も、先輩のおかげで入院生活が暇じゃなくなりました。ご飯も奢ってもらえますし」

「小娘が……。その生意気な口も、恋心を知れば治るんじゃないか?」

「うっわ先輩、それ病院で一番言っちゃいけないやつですー」

 寒空の下、お互いに肩をぶつけ合う。これでいい。私は仲のいい年下の女の子で、先輩のファンで、契約相手。きっと、何十年後かに今日のことを思い出す。

 あぁ、私はこんなにもこの人に惹かれていたのだ、と。

「よぉ、お前ら。二人してどこ行ったかと思えば、屋上にハンモック吊るして仲良くイチャついてるとはなぁ」

 青空と雲に見惚れていたら、いつの間にか背後をとられていた。逃げるまもなく、肩をがっしり掴まれる。

 振り返らなくてもわかる。薬剤とほんのり漂う煙草の香り。そこにいるのが、激怒した涼華さんだと。

「うげっ……! 鬼ナース、なぜここが!」

「屋上で一服しようと思ったら声が聞こえてきたからなぁ。さて、お前ら自分がなんの施設に泊まってるかわかるか? 特に冬真、身体冷やしてんじゃねぇ。そんなに私に看護されたいか。そうかそうか」

 私を置いて一目散に扉へ走った冬真先輩の頭が、一瞬で涼華さんの手に収まる。私より少し小さいはずの涼華さんが、完全に先輩を押さえつけていた。

「今日は何回か針刺し違えちまうかもな。でも私研修中だし、仕方ないよな」

「そ、そうだ涼華! 今日の晩飯のリンゴをやろう! 編集にもらった外国の菓子もやる! ついでに俺のサイン入りの本も……」

 冬真先輩の奮闘虚しく、涼華さんは全てを受け流していた。ごめん先輩。でも、私は助かったからよしとしよう。

「奏、お前は後からナースステーションに来い。逃げるなよ?」

 屋上の扉を半分開いて、涼華さんは思い出したように振り返って言った。冬の海から吹く空っ風よりも、鬼ナースの視線は背筋を凍らせた。

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