第7話 奇妙な空気

 いつまでたっても、エリザはやって来なかった。

 僕は独りで船窓から地球を見下ろしていた。

 かつての故郷が地平線の向こうから現れ、目の前を通過し、反対側の地平線に流れて行く様をじっと眺めていた。

 でも、そんなことをしていても、すぐに飽きてしまう。

 艦長の言うように、もう慣れてきてしまったのかもしれない。

 月見の展望台での一件から、エリザは時々思い悩むような顔を見せるようになった。

 始めの内は体調が良くないのかと思って気を遣っていたけれど、彼女は次第に部屋に籠るような事が増えてきた。

 僕は何度かエリザの部屋まで様子を窺いに行ったのだが、

「なんでもないから」

 と追い返されてしまう。

 ひどい時にはドアを開けてくれる事すらしない。

 彼女と同じ部屋の女の子に様子を訊ねてみても「よくわからない」と言う答えしか返ってこなかった。元々あまり話をしないのだという事を聞かされ、逆に僕の方が彼女に何かしたんじゃないかと揶揄される始末だった。

 急に彼女との距離が遠ざかってしまった気がした。

 話もさせてくれないのでは、こうなった理由が解らない。

 そんな訳で訳の分からなくなった僕は、慣れ親しんだ慣習に活路を求めていつもの場所で地球を眺めていた訳だけれども、どうやら効果無しだ。

 今日も、彼女が現れる気配はない。


 一方で、ステーションの中には奇妙な空気が流れていた。

 ステーションの職員たちが、通路の隅で声を潜めて話をしていたり、何人かが固まってバタバタとした雰囲気で移動している姿をよく見かけるようになった。

 月の基地とステーションを往復する連絡艇が何度も目撃され、月見の展望台の利用者が増えた。

 僕らは、あれこれと噂した。

 何かが起きるんじゃないかと、誰もが思っていた。

 管理業務を手伝っている僕の所には、何か知っている事は無いのか、と毎日のように話を聞きに来る奴が訊ねてきた。

 しかし僕の所には、彼らが聞いて喜びそうな情報は何も伝わって来てはいなかった。

 こっちが聞きたいくらいだ。

 と言っても、僕は事態の推移にはさほど関心を払っていた訳では無い。

 冷静に考えればだいたい想像はつくし、みんなが噂している内容も、ほとんどがひとつの結論に辿りつくような話ばかりで、ただみんな、その話をネタに楽しみたいだけなのだ。

 どっちにしたって、僕には関係のない話になる。

 それにしても教官たちの口の堅さは流石と言う他は無い。

 中には色仕掛けで一部の教官から情報を引きだそうとした強者の女の子がいたらしいが、軽くあしらわれてしまって逆にヘコんだ、なんて噂もあった。

 きっと艦長の監督が行き届いているのだろう。

 艦長と言えば、僕はよく話しかけられるようになった。

 簡単な挨拶を交わすと言うぐらいのものがほとんどなんだけど、とにかく僕の顔を見ると何かと声を掛けてくる。

「よう、元気か?」

「サボるなよ」

「やる気があるなら、仕事増やしてやるぞ」

「もっと楽しめよ!」

 エトセトラ、エトセトラ……

 しばらくは鬱陶しい気もしたけど、やはりこれも慣れた。

 人間は何にでも慣れていける。


 独りで暇を持て余す時間ができてくるようになって、ふらりとサーキットに足を運ぶ事が増えた。

 回転するリングの内壁を地面にして、とにかく走って汗を流す。

 足を前に進め、腕を振る事に意識を集中していくと、頭の中でもやもやとわだかまっていたものが、少しずつ消えていく。

 自分自身の意識すら感じられなくなる。

 ただ、肉体の機能を、前に進む事だけに集中する。

 そうやって考えを頭の中から押し出していくと、あれこれと振り回されていた場所から、自分自身に戻っていくような気がしてくるから不思議だ。

 考えないのが自分なのか?

「よう、ユータ」

 声を掛けてきたのはサカガミだった。

 サカガミは僕に二日遅れて管理業務を手伝うようになり、最近になって仕事についても含めて、話をする機会が増えていた。

 実を言えば僕がサーキットを走り始めたのは、彼の誘いに乗ったのがきっかけだった。

「やっと追いついたよ。お前、なんか急に足が速くなってない?」

 言いながら僕と並走する。

「何か用か?」

「いや、小耳に挟んだ事があってな。ちょっと、休憩しないか?」

 サカガミはもう息が切れていた。

「わかった。もう一周してくるから、待ってて」

 僕はそう言い捨て、間の抜けたサカガミの返事を後に、更に加速した。

 もう一度だけ頭を空っぽにして、それから戻ろうと思っていた。

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