< 陸 >
ハッ、と荒く吐いた息が、視界を濁らせた。
生まれた直後に消えていく白い靄が、その輪郭を完全に失う前に突如として目の前に現れる
やはり、彼の弟子がいうように身のこなしはそう軽くはない。瞬く間に目の前に現れた
少女は石畳についた右のつま先を弾くように蹴ると、その突進力のままに身体を捻り、薙ぐように【
(いける……っ!)
自身の蹴りは、完全に彼の右頬を捉えていた。
――はずだった。
けれど。
「……ッ!!」
完全に入ったと思ったその間合いの密度が急に増し、ゴッ、という鈍い音と共に少女の蹴りが宙で止まった。つい一瞬前まで、確かになかったはずの符呪が、八卦を作り
「く……ッ!!」
少女は目に見えない障壁を蹴りつけたその反動を利用し、横へと飛び去る。すると、その動きを見越していたかのように、八卦の結界の後ろから新たな符呪が飛んできた。
空中でなんとか回避したくとも、蹴りの反動で流れる身体は急に
(あ)
ヤバい……っ!
自身の周囲に追いつく符呪が、術式の発動を示したその、瞬間――。
爆発に巻き込まれることを覚悟し、思わず目を閉じた少女の鼓膜を突如、ゴゥッ! という暴力的なまでの風が叩く。竦ませていた身体への
そのさらに向こう側でくるくると飛び散っているものは、黄色の呪符。
どうやら風によって、発動しかけた術ごと千々に裂けたらしい。
「……た、助かっ、た……」
ふぃい、と僅かに空を仰ぎながら、思わず安堵の声が漏れた。
見上げた空の高い位置には、既に
蹴りの威力が薄れた頃を見計らって、少女は身体を一瞬硬くする。身体の軸を
(空の端っこが明るいように思えるのは……願望が見せる幻惑じゃないといいんだけど)
はっ、と疲労を多分に含ませた息をを吐き出し、乾いた笑いを吐き出すと、周囲に吹く風がシュル、という音と共に一瞬で凪いだ。ちら、と肩越しに振り返れば、そこには日頃よりも眉間の皺を深くした
「オラでこっぱち。アホかてめェは。油断してんじゃねェっつの」
「別に油断したわけじゃないっつーの!」
「なお悪ィわボケ」
どれだけ時間が経過しただろう。
かといって
「私が攪乱役で、アンタのその
「知るか。まぁ、方天画戟は武具っていやぁ確かに違ェねぇが、俺の
「かといって、アンタのいうモヤシっての信じて
息切れし、荒い息を吐き出す
もう何時間も、瞬時にあれほどの術式を組み立て続けて尚、集中力が切れていないというのは道士として純粋に賞賛に値する人物である。
(人間性と倫理観は比例しないのが残念過ぎるんだけど……)
まぁ、弟子を見る限り、そこに期待するだけ無駄な時間なのかもしれない。
けれど。
「おや……? もう終わりですか?」
石畳の上に足音を転がしながら、闇の中から
「ジョーダンでしょっ!」
「おや。冗談のつもりはなかったんですが……。大分、お疲れのようですし、こちらとしてもそろそろお開きにしたい気持ちがありましてね。こうして、夜も、明けそうなことですし」
確かに東の空は白々とし始めており、藍色の空に橙や黄が滲み始めていた。祖父が村全体に「眠り」の術をかけていなければ、恐らく鶏の声が辺りに響いている頃だろう。
「はっ。いい加減、このクソくだらねェやり取り終いにしてェのはこっちも同じだよクソ
「むしろ、そろそろっていうか、いますぐ、お帰り願いたいくらいだしね」
「おや、それは奇遇です」
にっこり、という以外はどんな言葉も当てはまらないほどの笑顔を浮かべた
「私も、陽が昇る前にその前に、どうしても
「させないっていってんでしょッ!」
「ならば、奪うまでのことです」
流れるような動きで長く細い指が印を刻んでいく。形の良い唇が、なにやら詠唱を紡ぎ始めた。同時に張り巡らされるのは、巨大な攻撃の術式。
「な、なんか急にキレたけどっ!?」
いままでの彼の術は、
憎らしいほどに緩慢かつ優雅な動きで、常にどこかに余裕を持つ彼の態度が腹立たしくもあったが、けれど、ここへきて急に攻撃的な術を展開してくるとは、どういう心境の変化だろう。
「そりゃま、時間がねェっつってたかんなァ」
ヒュ、と自身の足元へ飛んできた符呪を
「急変しすぎじゃないっ!? さっきまでの余裕どこ行っちゃったわけっ!?」
――ボンッ!!
少女のその声に、ハッ、となにかに気づいたかのように
――が、それを、竜巻にも似た風の壁が表れ爆風を弾く。
「まぁ頃合いってやつか」
「なにがっ!? 死ぬ準備っ!? 流石にこんな騒ぎの中でアンタ
「誰が死ぬ頃合いだっつった!!」
「え、じゃあなに??」
「……
にやり、と口角を凶悪な角度に持ち上げ、八重歯を見せる彼の人相は、お世辞にも「いい人」とは思えない悪人ヅラである。一見しただけなら、確実にアチラの
けれど。
「……なんか、策あんの?」
「あるから、いっとんだろうが」
その
「いいか? いまからこの風の防壁を解除する。一瞬で凪ぐから、その瞬間、てめェは全力で空に跳び上がれ。その後、
「そ、れは……いいけど、どうすんの? その後、アイツに突っ込んだって、もう私の
「そりゃ、いままでわざとそれを、見せてきたかんな。何度も何度も」
何時間にも渡り、
――そう、
「え。ちょっと待って。つまりそれって、私で実験してたようなもんじゃない!?」
「ようなもん、じゃねェ。しとったわ」
「しとったわ。じゃないッ! 開き直るなってーのッ!」
「ってェなッ! 人の脛、蹴んなっつーのッ!!」
思い返せば、彼は自身の
足を狙って何度か
けれど――。
「いつまでその中で
「莫迦か、これのどこが
「そもそも夫婦なんでっ!! とやかくいわれる筋合いありまっせんっ!」
「おや。それは失礼」
くく、と笑う彼の声には、再び当初の余裕のようなものを感じられたが、けれどいまこの風を解除したならばえげつない符呪が展開しているのだろう。
「オイでこっぱち」
「でこっぱちっていうなっつってんでしょ、悪人ヅラ」
「わかってんな? 奴が完全にてめェをナメてる、いま、一回限りの
少年の手の甲の【
「――行け……ッ!!」
轟轟と鼓膜を叩くその音が、ぴたりと止まった。
はっ、と見上げた空は、先ほど見たその時よりも藍の色を薄くしている。東の空が白々と朝が直に来ることを告げていた。
黄色の
(って、あれ……こっから、どうするんだっけ??)
けれど。
(え、どうやってその
思えば、話の途中で彼とそのまま喧嘩となり、そして
(え、えぇぇえ、ちょ……これ、ほんとどう……、すんのっ!?)
上昇の速度を穏やかにしつつある痩躯が、ふわり、宙へと浮かぶ。
(とりあえず、こっから一発逆転狙えばいい、の??)
このまま浮かび続けているわけにもいかず、少女が宙を蹴り落下をしようとした、その、瞬間――。
「……ッ!?」
グン、と背を、見えない何かに蹴り飛ばされたかのような感覚に襲われた。バサ!! と、道袍の裾が音を立てるその様に、自身の後方から襲い掛かるのは巨大な
――……なんか、策あんの?
――あるから、いっとんだろうが。
先ほどの、
(なるほどね……)
それならそうだと、先にいえっての!
少女の唇に宿るのは、それでも三日月の形。
刹那、キン、という甲高い音を背に置き去りにしながら、少女の身体が落下する。
永遠にも思えるような一瞬の間に、視界の横を駆けていく景色の中で、ギラリと光ったものは、朝の日の出。
その光に、一瞬顔を顰めた
「
その声と共に、少女の振りかぶった左足が、美しい男の顔を蹴り飛ばした。
**********
静けさとは無縁な夜がすっかり明け、東の空に上がった太陽がその光を地上に柔らかく落としている。
村全体を包んでいた
それは長年、村の冠婚葬祭に始まり儀式の全てを取り仕切り、人々との
――なんか僕、迷惑だけかけちゃって、何の役にも立てなかったから……これくらい、当然だよ。
(っていっても、私もなにかを為したといえる程のことはしてないんだけどなー)
あのとき、少女の渾身の蹴りは確かに
けれど、その後、男の身体は朝焼けの空の下、どこにも見当たらなかった。あれほどの一撃を顎に食らったのだから、当分は頭の中が揺れ、まともに起き上がるなんて芸当が出来るとも思えなかったが、その姿は夜の帳と共にきれいさっぱり村から消えていた。
蹴り飛ばした際、水路に落ちたような音は聞こえなかったが、もしかしたら咄嗟に術で顎への一撃を避け、水路へと身を隠し退散したのではないか、というのが祖父の判断である。
ともあれ、なんの因果かさえも不明だったあの謎の襲撃は無事退けることが出来、とりたて大きな被害というものもなかった為、一件落着したといっていいだろう。
(まぁ……簡単に一件落着っていうには、この大穴……ちょーっと笑えないけど……)
自身が開けたものとはいえ、どう考えても自分に非はない――はずだ。
ちらりと大穴を朝日いしきの下で覗いてみれば、排水用に地下水路が通っていたようで、見事に石畳のなれの果てが覆いかぶさっている。水が
「おい、
そもそも直すにしても、誰がこの費用を出すのだろうかと思っているところへ、
少女の予想通り、夜が明けるまでがあの術の
「あ、
「おぉ。まだちーっとばっかし、ボーっとしとるがの」
「まぁ術酔いしてるのもあるんじゃない?」
「じゃろうな」
基本的に、道士でもない一般人には術への耐性というものがない。
だからこそ術をかけやすいともいえるが、同時に術が解けた後の
「
「あんとき、森で会った……
「……前半、いらなかったよね」
「へっ、嘘吐けねぇもんでよぉ。悪ィな」
「いやその言い訳もいらなかった」
何故だろう。
覚えていてくれた方が会話は
「くくっ、よかったなァ。今度ァ女って認識されたみてェだぜ」
声を震わせながら背後から現れた大きな影に、
「で、いまてめェらがいる経緯に関しちゃ、覚えてんのか?」
「……まぁな」
その後、彼が語ったところによると、どうやら突然彼らの根城にやってきた
「まぁ操られてるっつっても、意識っつーのは途切れねぇでずっとあった。つっても、身体の中じゃなくってよ、なんか、俺自身を外から見てる感じだったけどな」
「ふーん……アイツが持ってた
「
意識が戻った盗賊たちの解呪がきちんとなされているかを確認していた
「で、こいつらどうすんだ。
「バ……ッ! や、やるわけがねェ!」
「おうさ! あんときゃ色々むしゃくしゃしてたけどよ、結局こうして助かったのは、てめ……アンタらのおかげ、っつーのも理解してんだ!」
どう考えても言いがかりとしか思えなかった恨みは、少女の知らない内に勝手に昇華されていたらしい。
「……うーん……とはいえ、どうしようか……」
昨日の襲撃を公にするつもりがない以上、日頃、
「ってか、コイツらのこともそうだけど、とっととこの水路、直した方がいいんじゃないの? 完全に埋まっちゃってるけど、これ、うちの排水路じゃないの、
「んぁ? まぁ十中八九、うちのじゃろ」
「えぇ……っ、じゃあ
「
「えっ、そうなの!?」
この村・
「またどっかの工事に呼ばれたの?」
「さぁの。詳しいことは知らんが、都でお呼びがかかっただかなんだかで……もうありゃあ、一月前にもなるか。ちょうど、お前と入れ違いで出ていったはずじゃ」
「えぇ……じゃあ、この水路どうすんの??」
逆流はいまのところ防げているものの、今後の生活用水が流せないのは不便この上ない。
「……俺らが、やる」
どうしたものかと頭を悩ませている
「やるって……え……?」
「お前らが、これ直すっちゅーんか?」
「あぁ。俺ぁこう見えても生まれは土木やってた家でな……十年前、親父の後妻に家乗っ取られるまで、従弟の
生粋の
測量から施工まで、この
「……人は見かけによらねェな……」
思い起こせば、
ぽつりと呟いた
そして、少女が睫毛を持ち上げそちらを見遣れば、「なんだよ?」と視線を落とす少年の姿。
「残念ながら、アンタは見た目通りだけどね」
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