第三章 金鏡が目覚める夜

< 壱 >

 見慣れた広い部屋に、ガヤガヤとした喧噪が広がっていた。

 鼻を衝くものは、強い酒のにおい。

 鼓膜をザラリと舐めるのは、酒に焼けた野太い声と乱暴に食器を扱う耳障りな音。ときおり、戯れに女の嬌声が上がり、下卑た笑い声が響き渡る。

 そのどれもが、まるで母親の胎の中にいたころから聞いていた子守歌かのように肌に馴染み、けれど、その音全てを叩き潰していきたくなるほど、いまは胸の奥で感情が沸騰している。


大哥あにき。俺ぁさっきからハラワタ煮えくり返ってしょうがねェ」


 その声に、ふ、と傍らを見遣れば、抱えた酒のかめを酒器に注ぐことなくそのまま煽りながら、酒気に血走った目に苛立ちを滲ませている義弟の姿。思いの外小声だったのは、恐らく頭頂部のタンコブに響くからだろう。

 けれど、行きようのない鬱憤を溜め込んでいるのは、どうやら彼もユンと同じらしい。

 根拠地ホームグランドである晧莱こうらいの街で、どうにもいままで見かけたことのない人間を見つけたのは、昨日の夕刻のことだ。しばらく様子を見ていたが、特に誰かを訪ねて来ているようでもなく、彼の足取りからはく土地勘は一切感じられなかった。

 子供でもなく、かといって大人でもない――十代中盤過ぎとおぼしき豎子ガキではあったが、人相だけは一丁前に悪人ヅラで、けれど、身に着けている黒い道袍どうほうは長年の盗賊家業で身についた目利きを以てしてかなりの上等に思えた。


  ――よぉ、師哥アンちゃん、なにかお困りかい?


 そう声をかけると、どうやら荒事には慣れっこらしく、特に人見知りすることもないまま自分たちの縄張りのひとつである賭場へのこのこ着いてきた。思っていたよりも銭を持っていたことは意外だったが、金品根こそぎ奪って店を追い出した。


(チッ!! いまにしてみりゃ、身ぐるみ全部剥いでやりゃあ良かったんだ……!!)


 そうすれば、その後まさか後を追ってきていた彼に、根城を突き止められた挙句、根こそぎ金目のものを奪われ質に流されることもなかっただろう。お蔭で長年ため込んでいた根城の備蓄は底をつき、いまこうして飲み食い出来ているのも先ほど新たに近隣の農村を襲い、金品を奪ってきたからに他ならない。

 それでも失った財とは比べようもなく、なにより自分たちは盗賊団を名乗っているものの、基本的に危険の伴う掠奪行為よりも晧莱などの都市でイカサマ賭博によって金を稼ぐことの方が多い。仲間は全員腕っぷしにはそれなりに自信がある面々だが、それでも掠奪を選べば危険も多い。

 巡補じゅんほ(警察)と真っ向からやりあう手間を考えれば、より安全な道があるのならそれを選びたいと思うのが人のサガである。


(それなのに、よぉ……!!)


 慣れない犯罪ことをさせられたという意味でも、苛立ちは募る一方だ。いや、犯罪自体は常日頃からしているのだが、掠奪行為は実益に対して危険リスクが大きすぎるのだ。

 ユンは髭の中からギリ、と歯を噛み締める音を立てながら、傍らのイー同様に甕の口をそのまま煽り喉を鳴らした。


「なぁ、大哥あにき。聞いてんのかよぉ!? 大哥あにき!」

「あぁ? 聞いちゃいるし、さっきから俺も苛立ちは収まらん」

「じゃあ……!」


 あのやたら細っこく小さな豎子ガキ――女だったらしいが、彼女からの一撃で脳震盪を起こした義弟は、この根城で意識を取り戻してからはずっと彼らへの報復を口にしていた。


「お前の気持ちはわかる。だが、どうやって探すかって問題が出てくるんだ。あのクソ豎子ガキもこの近隣のヤツじゃねェようだし、僵尸キョンシー隊に至っては大陸全土を歩く回るからな……足取りなんてそう簡単には掴めねぇ」

「でも大哥あにき。あの森にいたってことは、向かう先は南で決まりだろ?」

「南つったって、じゃあ南のどこに向かうかっつー話だろ。そもそもあそこはまだ西白省せいはくしょうで、南のルートもあるが、西に行くのだって考えられる」

「でもよぉ……! 大哥あにきはこのまま黙ってやられっぱなしにする気かよ!」


 ユン自身、あの人相の悪い豎子ガキにしてやられたので、当然やり返したい気持ちはある。イーに至っては、道士とはいえ女相手にやられたということが、相当堪えているようだ。

 日頃ならば大哥あにと慕うユンの意見に逆らうことはないが、どうにも今回ばかりは腹の虫が収まらないらしい。


「とはいえな……、相手は僵尸隊ってことで夜間移動のみとなればそこまで進んでいるとも思えんし、なにより目立つから目撃証言は得やすいが……。だが、後を追うにしろ、南と西に野郎ども二手に分けなきゃならんな……」

「それがどうしたんだ?」

イーよ、目立つ連中を追いかける俺たちもまた人目に付きやすい存在になるってことだ。つまるところ、巡補の警戒に引っかかりやすくなる」


 略奪行為はなるべく・・・・慎んでいるユンたちだが、今回のように背に腹は代えられないし、やるときはやる。また、晧莱でコソコソと小銭稼ぎをしているため、基本的に後ろ暗いところしかない集団に変わりはないのだ。


「まぁ腹が立ってるのはなにもお前だけじゃねぇ。俺だって腸煮えくり返ってるし、野郎どもにしてもそうだろう。だが、その為に危険リスク承知で報復するかってぇと……それは収支に見合わねぇ気がしてならん」

「はぁ……まぁたそれかよ! 大哥あにきは二言目には、金、金、金だ!」

「あったりめぇだろうが。何事にしても、収支が見合ってないようなことをやるもんじゃねぇ。損することがわかってたら、手ぇ出さねぇのが俺の規則ルールだ」

「でも最初は、あのクソ豎子ガキを追いかけんの、いいっていったじゃねぇか!」

「そりゃイー。あんときゃまだアイツの足取り、掴めてたかんな」

「へっへ。大哥あにきは盗賊ってか商売人みてぇな人ですからね」


 突然空から声が落ちてきて、見上げればそこにはこの盗賊団を作った当初からいた古参の仲間が甕を持って立っていた。彼の頬にはオトギリソウの葉を揉んだ汁が塗りつけられており、時間経過とともにいまは茶色に染まっている。

 この傷も、くだんの少年からつけられたものだ。


「商売人みてぇな、っつーか、商売人そのものだよ。大哥あにきの損得勘定で考えるクセってのはよ!」

「あぁ? どう生きたところで、損得勘定生まれるもんだろ。そう考えりゃ人間だれしも、商売人だろうが」

ユン大哥あにきみてぇに、割り切って生きられねぇ人間の方が多いんじゃねぇですか。特に俺らみたいな連中はよ」

「そうだぜ、大哥あにき。俺ぁその収支とやらがどうでも、あのクソアマに一発お見舞いしてやらなきゃ気が済まねぇ!」


 どうやら彼は、イーとの会話を聞きつけ、彼の援護をするためにここにやってきたらしい。きっと彼だけでなく、いまこの場で多数決を取れば、イーの意見への賛同者の方が多いだろう。


「つってもな……、せめてあいつらの向かった先でもわかりゃ……」


 ユンがガシガシと硬い髪の中へと太い指を突っ込みながらため息混じりに言葉を落とした、その、瞬間――。


  ――場所ならば、わかりますよ。


 突然、閉められた格子扉の奥から声がかけられた。

 これほどまでに広い部屋の、さらには辺りでは仲間が飲めや食えやの騒ぎをしている中で、何故部屋の最奥にいる自身へのその声が届いたのかはわからない。――否。声が届いたというよりも、脳裏に直接響いた。そんな、感覚だった。


「……誰だっ!」


 野太い声が、部屋の中央を一閃に駆けていく。

 すると、一瞬で喧噪が止み、キィ、という甲高い音と共に扉が開いた。

 酒を浴び、すでに思考が散漫となった面々の動揺が部屋を支配する中、視線の先にいたのは、ひとりの男。

 両手を前へ出し組み、おもてを下げ頭身を低くしているのにも関わらずそれでもなお大きいと思わせる体躯。けれど、武官のように筋骨隆々としているわけでもなく、むしろ優男のようにほっそりとしていた。

 さらりと背へと流れている髪は、自分がいま触れている自身のそれとは明らかに質が違う。お世辞にも手入れされているとはいえないこの根城において、遠目にも豪奢な長衫ちょうさんがひどく場違いに映った。


「……誰だ。官吏か」


 補褂ほかいこそ身に纏ってはいないものの、雰囲気だけならば都の文官といってもいいほどだ。ユンが短くそう問えば、男は拱手を解き、ゆっくりとそのおもてを持ち上げた。


「いえ、まさか。わたくしは、鄭羅ヂォンラオと申す、一介の道士にございます」


 道士、という言葉に、ユンの常ならば意外と丸いといわれるその双眸が目尻をきつく持ち上げた。傍らにいる義弟の眉も、その間に深い深い皺を刻んでいる。

 道士ならば、何故道袍ではなく一般市民の着るような長衫ふだんぎを身に纏っているのか、という疑問がふと過りはしたが、いまはそのようなことはどうでもいい。


「オイ。師哥にいさんよ。ここが、泣く子も黙る天下の大盗賊の根城と知って、踏み入れてきたのか」

「えぇ。勿論、存じておりますよ」


 いっそ親しげにも思える笑みをそのおもてに宿しながら、鄭羅ヂォンラオと名乗った男は部屋へ入ろうと、一歩、踏み出してくる。


「おっと。いま俺たちゃ道士に対しての鬱憤が溜まってる状態でなァ。不用意に入り込んだら、命の保証はねぇぜ」

「そうですか」


 その牽制にさえ怯えることなく、ラオはついに足裏を部屋の石畳へと落とした。さら、と男の広い肩から、長い髪が一房零れ落ちる。


「オイッ!! てめェ……!!」


 傍らでイーが片膝を立てながら、唸るような声を飛ばした。彼の虎髭が、僅かに逆立ち、太い眉の下の双眸には、怒気と殺気が入り混じっている。


「申し訳ございません。なにも、貴方たちを軽んじているつもりはないのです」


 部屋へ一歩、踏み込んだ男は、それ以上歩を進めることなくその場で再び拱手し、ゆっくりとこうべを下げた。


「ただ――、その先ほどのお話……、わたくしが彼らの行方を存じていると申し上げましたら、如何なさいますか?」

「な……っ」


 驚きに目を丸くしたユンイー兄弟に、僅かに男の双眸が持ち上げられる。

 そこにあった光は、ただ狂気にも似たものだった。

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