< 伍 >

「え? 急に、どうしたの??」


 ユエは予想だにしなかった幼馴染の来訪に、手に持った器を桌子テーブルに置くと、冷気の走る足元を踏みつけるように立ち上がった。隣に座るランの視線が一緒に持ち上がるのを視界の外に感じながら、少女は扉の向こうに佇む少年へと足音を転がしていく。

 ちょうどユエが開かれた格子扉の前まで足を運んだと同時に、履き馴染んでいそうな彼の布鞋シューズが遠慮がちに扉を越え、室内に入ってきた。若草色の長衫ちょうさんの裾が、ふわ、と風を孕み揺れる。

 後ろに控えていたらしいバーが、ファンも室内に入ったのを確認すると、扉へと手を伸ばしゆっくりと閉じていく。ユエは頬の位置を高くし、彼に「ありがとうね」と告げると、目の前で直立不動にしているリーを見上げた。

 幼いころより自分の感情をおもてに出すことなど滅多になく、常に柔らかい表情を纏う彼からしたら珍しいほどに、その視線は不安定に泳いでいる。背丈はユエが見上げるほどに伸びたというのに、まるで出会ったばかりの幼子に戻ってしまったかのようだ。

 なにか、彼の家でよくないことでもあったのだろうか。


礼礼リーリー、どうしたの? 本当なら今日、挨拶に行くはずだったけど、ちょっとバタついてて……」


 なにか、あった?

 幼いころからの愛称アダナで呼びながら、言外にそう訊ねるユエに、彼は軽く首を振った。

 背の中ほどで、編み込まれ結われた髪がさらりと揺れる。


「帰ってきてたのに、挨拶遅れてごめんね。明日には、お店に顔出そうと思ってたんだけど」


 いつも旅から戻ってきた後、そして旅に出かける時は彼の店に顔を出し、挨拶をしているが、今回は色々な事情が重なりすぎたため挨拶と同時にまた出かけることになりそうだ。


「あ、うん……。それは、いいんだ。昼間、ファンさんがお酒、買いに来たときに月月ユエユエ帰ってきたって、チィゥにいってたから……」

「あぁ、やっぱりいま爷爷じっちゃんが飲んでるの、新しいお酒なんだ? もー、道理で勿体ぶってちびちびやってると思った」


 腰に手を当て呆れたようにため息を吐く。ユエは酒の味が全く分からないので、正直どれでも同じだろうと思っているのだが、酒好きな祖父や、同じく桌子テーブルで何度も酒器を煽っているランからすると今日の白酒はかなり味がいいらしい。


「あ、で……どうしたの? なにかあった?」

「あ……いや、なにか、っていうか」


 少女へと落とされていたリーの視線が、ちら、と桌子テーブルを越えた先にいる人相の悪い少年へと向けられた。自身に、少年の意識が向けられていることに気づいたらしいランは、眉間に皺を刻みながら「あ?」と相変わらずのガラの悪さで瞳をリーへと返してくる。


「あー、あれ?」

「あ……、うん。あの、月月ユエユエが、迷子、拾ったって聞いて……」

「あぁ、うん。アイツね」

「あァ!? だっから迷子じゃねェっつってんだろが!」

「拾われた分際で迷子じゃないとかどのツラ下げていってんの、アンタ」

「ぐぬ……っ!」


 ハズレのししとうにでも当たったかのような顔で、ランかめを乱暴に掴むとその口を酒器へと傾ける。とぽとぽと清涼感ある音が鼓膜を擽るが、残念ながらどう見てもやけ酒である。


「えっと……初めまして。皙慶この村で酒屋をやってる杜礼ドゥリーです」

「……おぅ」

「コラ。名乗る!」

「…………チッ。ラン、だ。鄭狼ヂォンラン


 ユエは、睫毛をゆっくりと上下させ、視界の先にいる少年を驚きの表情で見つめる。名が、ランであることは聞いていたが、故郷もわからない天涯孤独であるはずの彼が、自身の姓を認識していたことが意外だった。


(っていうか、それを礼礼リーリーと同時に知らされるって、ほんと私コイツの奥さんなのかな)


 いや、そもそも妻なんて完全に祖父の悪ふざけの産物としか思えない名ばかりの話なのだが。


「でも迷子って……、えと、月月ユエユエが、保護したってこと、でいいの?」

「うん。ほら、朱南省しゅなんしょうへの道に繋がってる森、あるじゃない? あそこで帰りに拾ったんだけどね」

「へぇ……あの、森、で……??」


 生来の性格もあるだろうし、商売人という職業に就いていることも大きな理由だろうが、リーが、他人に対してなにか含みを持たせるような言動をするところというのを、決して短くはない付き合いの中でユエは一度も見たことがない。どんな客に対しても、にこやかに接し、酒の如く相手を酔わせてしまうと評判の彼が、それでもいま、こうして言の葉に宿ってしまった感情を隠しきれないのは、勿論「あの綺麗な一本道しか走っていない森で迷子?」というごくごく当たり前の疑問が頭を過っているからだろう。


「ちゅーか、ユエ。さっきから儂の話がぜぇんぶ人に持ってかれて進んどらんのじゃがの」

「あ、そうだった! ごめん、爷爷じっちゃん」


 幾度となく流れてしまった話題に痺れを切らしたのか、フーが七宝焼きの酒器を手に、ぷぅと頬を膨らまし、唇を尖らせる。年齢の割に屈強過ぎる体躯を持つ強面の祖父がしたところで、全く可愛げなど感じないどころか、逆にちょっと気味が悪い。

 彼の横で「あら~、もうっ、むくれちゃって~」とにこやかに笑いながら祖父の頬をつんつんと太い指で突くファンの気持ちが全く理解できないままに、とりあえずユエは空いている椅子をリーへと示すと、自身も元の席へと腰を下ろした。

 一瞬、席につくことを躊躇おうとした幼馴染の姿に、出会った直後に他人の夜食を強奪したり、訪ねたばかりの他人の家で酒を豪快に煽ることの出来るこの悪人ヅラの図々しさを少し分けてあげたい気分になる。


(こう……、小っちゃいころから、私が守ってあげないと危なっかしいところあったからなぁ……礼礼リーリーは)


 既に店を親から任されるほどになった彼に対し、それでも幼いころの愛称アダナで呼んでしまうのは、そんな放っておけなさがいまだ自分の中にあるからだろう。


「で、ユエ。お前、明日からまた外に行くんか?」

「え!? そうなの!? 月月ユエユエ帰ってきたばっかりじゃないか」


 ファンリーへと茶を入れたところで、祖父が口を開くと、祖母へと礼を述べていた少年が弾かれたように少女を振り返った。


「あぁ、うん。本当なら、今夜にでも旅立とうかと思ってたけど……まぁ、なんやかんやあったし、じゃあ明日かなぁと」

「そう、なんだ……。今度は、どこまで……?」

朱南省しゅなんしょうにある、確か……丹完たんかんってとこ……かな? 紅洛こうらくって大きい街あるじゃない? あそこに近いみたい」

「ちゅーか、その前に結局リンの話はどうなったんじゃい」

「あー、ごめんごめん」


 えっと。どこまで話したっけ。

 手に食べかけの豆花ドウホワの器を持ちながら、少女の瞳が宙を彷徨う。


「そのリンって巡捕じゅんほにどっかに連れてかれたんだろ」

「あぁうん。そうそう」


 既に空腹は満たされたのか、酒の肴に泡菜パオツァイ(漬物)をつまんでいるランに視線を送りながら頷くと、ユエは器の中の豆花を散蓮華スプーンで掬いながら続けた。


「えっと、それでね。なんか慌ててリン巡捕長に引きずられるみたいに連れていかれたのが、宮殿だったんだよね」

「宮殿って……あー、あの、アレか」

「アレだよ。いや、爷爷じっちゃんがいってんのどれかわかんないけど、陽安ようあんにある宮殿っていったら、ひとつしかないでしょ」

「宮殿って……月月ユエユエ、それって皇帝陛下の……?」

「そう! その、まさかの、皇帝陛下の!」


 とはいっても、いま冷静に考えてみれば、恐らく皇帝一族が住まうような建物はもっと奥まった場所にあるのだろうし、宮殿内のほんの入り口付近に入っただけという話なのかもしれない。それでもユエのように片田舎に住む一般庶民――しかも、僵尸キョンシー隊という家業を営む人間には一生縁のない場所だったはずだ。

 けれど、リン巡捕長に連れられて入ったその空間には、すでにその他の巡捕や武官たちの姿が多数あり、許されているとはいえ皇帝の色といわれる黄色を纏う自身がひどく場違いなものに思えた。


「なんか知らない内に悪いことでもしちゃって皇帝陛下に叱られるんじゃないかって、めちゃくちゃビビったよね……僵尸も宿に置いたままにしてたし、どうしよーって……」

「はっ、常識的に考えて、てめェみたいなでこっぱちが悪事働いたとこで、皇帝に呼ばれるわけがねェだろ」

「うっさいな! 常識についてアンタにゃいわれたくないっての!」


 掬った豆花に入っていた赤い実を口に含みながら、ユエは隣でくく、と笑っている少年を一度めつける。クコの実の甘さは控えめ過ぎて、どうやらこの苛立ちを緩和するだけの効果はないらしい。


「でも、周りの人とか全然私に興味示さないし、なんだろ? って思ってたらね、結果的に人が死んだから僵尸にして運び出せっていう話だったんだけど」


 どうやら宮殿内でなにか事故があったようで、文官や武官が二十名ほど息を引き取っていた。

 あまり見慣れぬ鎧を着た武官に、見慣れた・・・・補褂ほかいを身に纏う文官たち。常ならば、僵尸となり、死んで初めて袖を通すことが出来る官僚の衣服である補褂を、生前から身に纏う人間をこの目で拝むのは、実はユエは初めてだった。

 なにもかもが経験したことのない領域に足を踏み込んだわけだが、当然部外者であるユエには、なんの事故があったかも伝えられてはおらず、基本的に僵尸隊の道士というものは死者の死因にかついて根掘り葉掘り訊くことは御法度タブーである。

 生前の功績などは、勿論冥府に送る際に事細かに書き記すので詳しく訊く必要があるが、それでもヤン家の家業はあくまでも「僵尸の運び屋」であり、死因には詳しく触れてはいけないという規則があった。

 数世代前に皇族からも僵尸が生まれたという話もあるせいか、宮殿ではとにかく故郷が不明な者が死ぬことを拒絶する傾向にある。もっとも、この国で一番尊いといわれる皇帝の住まいなのだから、そこに被害を出すわけにはいかないので当たり前の話なのかもしれないが。

 ともあれ、二十名ほどの文官、武官の死者に手早く適切な処置を施し、故郷へ送り届けろということだった。


「ってか、ぶっちゃけ、死体がそんな早く僵尸化するわけでもないんだから、引きずるみたいに連れていかなくても良かったじゃんっていう話なんだけどね」

「ま、一般人は僵尸化にかかる時間なんぞ知っとるわけないからの」


 くぴ、と酒器を傾けたフーが、ユエの不満を宥めるように受け止める。きっとこの辺りの小さな不満は、実際に僵尸隊の道士となった者にしかわからないものなのかもしれない。


「でもまぁ、事情は聞かされてないけど、辺りで話してる情報拾っていくとね、どうやら建物が崩れちゃって、そこにいた人が全員死んじゃったみたい」

「崩れた……? 地震でもあったんかい」

「ううん。特には。でも私が見た建物は確かに崩れてたんだけどね。その建物だけ」

「あらま。じゃあ杜撰な工事で建てられたものだったの?」

「えぇ……っ、皇帝陛下の宮殿が、ですか?」

「ははっ、流石にそりゃないかー」

「そうですよ……。そこだけ、建物がもう古かったとかじゃない? 月月ユエユエ

「あー、うん。まぁ、確かに他の建物に比べたら、そうだったのかも。周りの人もそんなこといってたし」


 確かに建物自体は古かった。

 けれど妙だったのは、建物が崩れ圧死したのならば、死体は酷いありさまになっているだろうと思われたが、実際対面してみれば二十人すべてが欠損どころか、怪我ひとつ負っていなかったというあたりだろうか。

 ユエが現場を見たときには、すでに遺体は倒壊した建物の外に出されていたが、そもそもあれほど派手に崩れ落ちた建物から、どうやって外に運び出したのだろう。いまだ、倒壊の恐れがありそうなほど、その建物は放置されていたというのに。


リン巡捕長の話では、崩れたときにたまたま宮殿にいた御用達商人が叫び声を上げて大事になったってことだけど……)


 宮殿内の事件、事故は醜聞にも繋がりかねないので、出来ることなら秘密裡に片しておきたいものだったらしい。しかし、その商人が外に助けを求めたために、本来ならば都市の治安維持のみに従事するはずの巡捕局が、宮殿内に呼ばれるほどの騒ぎとなってしまったとのことだ。


(ま、その辺のことは下々の僵尸隊道士には関係ない話だし、無視スルーするに限るわけだけど……)


 こういう人の死に関わる生活をしていると、どうにも不審な死というものはいくらでも遭遇する。確かに理不尽な殺され方をしている遺体に出くわすれば、その無念さが表れているものもたくさんある。

 けれど、その全てに心を砕いていてはこの仕事はやっていけないだろう。

 自分に出来ることは、ただひたすらに故郷に戻りたいと願うはくを眠りにつかせてやることだけだ。


「まぁ、そんなこんなで、私は新たな僵尸を三体ほど請け負うことになってね……。うち、二体はまぁ陽安の近くに故郷があったから、そのまま送り届けて。で、最後の一体が、フォンさんっていう元文官」

「それが、丹完に行くっちゅー理由かい」

「そうそう。丹完に家族がいるみたい」


 彼の身元が記されたものによれば、フォンの年齢は二十四歳。丹完という村を故郷に持ち、二年ほど前に科挙に合格し、官僚として宮殿へ仕えることになったという。

 その難易度が実際どの程度のものなのかは知らないが、難関と噂の科挙に合格し、家族総出で祝い、その前途を祝福しただろうに、たった二年で物いわぬ身体で帰ってくるとは、残された家族はどれほど気落ちしているだろう。

 幾度となく経験し、もう既に慣れているといってもいいほどだが、それでも泣き叫ぶ家族に僵尸を引き渡す瞬間はそれなりに心がズン、と沈み込む。


「とりあえず、明日の夜に丹完に向けて行ってくるよ」

「はやく故郷にっていう気持ちは勿論わかるけど……。月月ユエユエは大丈夫? 疲れてない?」

「あー、うん。今夜、もう出ようって思ってたくらいだから、全然大丈夫」


 皙慶せきけい村から丹完までは都までの往復ほど時間はかからないはずだ。直線距離にして百五十里ひゃくごじゅうり(約六十キロ)ほど――街道を歩くとなれば、もう少しあるだろうか。

 恐らく十日もあれば帰ってこられる距離である。


「あ、そうだ。ごめん、結局、礼礼リーリーなんの用だった? なんかあったんじゃないの?」


 彼がこのいえにいること自体、当たり前の日常なのですっかり忘れていたが、そういえばなにか用があったような素振りを見せていた気がする。既に空になった豆花の器を桌子テーブルへ置き、桃包タオバオ(桃饅頭)を手にとり、かぷっと口吻けながら、リーへと視線を向けた。

 幼馴染の少年は、一度、びく、と肩を揺らし唇の端をぎゅ、と閉めたあと、俯きがちなおもてはそのままに、視線だけちらりと少女へと流してくる。その瞳は、やはりなにかに怯えているようにも思えた。


(まぁ、こんな悪人ヅラに凄まれたら、礼礼リーリーみたいな子はそうなるのもわからなくはないけど)


 ユエがちら、と隣を見遣ると、「んだよ?」と相変わらず人相の悪い顔が険を孕んだ視線をこちらへ寄越している。


「つーか、お前まだ食っとるんか」

「アンタだってまだ飲んでるじゃない」

「酒はあればそりゃ飲むだろ」

点心デザートだってあれば食べるでしょ。さっき棒棒鶏バンバンジーも茄子も誰かさんに取られちゃったしー!」

「あァ? てめェまだ根に持ってんのかよ! どんだけだよ、しつけーな!」

「食べ物の恨みは末代までっていうでしょ!!」

「聞いたこともねェし、そもそもいわねェ!!」


「あの、月月ユエユエ……」


 あれ。でも、そもそもこいつの末代に繋がる人間を産むのは誰だ、という疑問が不意に頭に過っている中、再び舌戦が繰り広げられようとしていた食卓に、震える声が響いた。


「ん? あ、ごめん。礼礼リーリー、どうしたの?」

「あ……うん……ごめん。ただ、あの……」


 リーの視線が、一瞬隣のランへと向けられ、そして再び少女へと戻される。


「その。ランくんが……、ここに来た理由はわかったけど……。あの、ふたり知り合ったばかりにしたら、ちょっと打ち解けすぎてるっていうか、気遣いとかないなって思ってね……!」


 確かに、思えば昨晩知り合ったばかりにしては、既にお互い繕うような外面など取っ払っている気もする。しかし、出会った直後にお互いの印象は地面に叩き落とされていたも同然なので、気づかいというものは最初から存在していないともいえる。


「まぁ、打ち解けすぎてるっていうか……」

「気遣いなんぞ最初ハナっから存在してねェっつーか……」

「……えっと? ふたり、は……、どう、いう……?」


 リーの疑問に、ユエが視線を隣に走らせると、黒い瞳と自身のそれが、重なり合う。

 出会った瞬間は、死体だと思った。

 起き上がってからは、夜食を奪われたという恨みが生まれた。

 その後、彼の因果が巡りに巡り何故か盗賊に囲まれ、それを蹴散らし――。

 家へ戻り、そして。


「んー。とりあえず、一応夫婦?」

「…………クソほども自覚はねェけどな」


 つい先ほど作られた関係性の名を紡いだ後。

 一呼吸置いてから、ヤン家に新妻の幼馴染の絶叫が響き渡った。





**********




 闇夜に金鏡つきが光る。

 月明りに照らされた夜道を、ヒュゥ、と乾いた風が走り抜ける。

 リーが頬を掠める冷たい空気に、は、と深いため息を吐くと、まるで自身の心の中を現したような白い靄が視界に生まれあっという間に霧散した。


  ――……えっと? ふたり、は……、どう、いう……?

  ――んー。とりあえず、一応夫婦?

  ――…………クソほども自覚はねェけどな。


 先ほどの幼馴染の少女の声が、いまも鼓膜に貼り付き脳裏に響く。


月月ユエユエが、結婚……してた、なんて……)


 確かに十六ともなれば、一応適齢期と呼ばれる年齢にはなっている。

 昨今では結婚が徐々に遅くなっている傾向にあるようだが、それでもこの村でも確かにユエの友人たち色めいた話をし始めているし、彼女もまたいつそうなってもおかしくはなかった。

 けれど。


月月ユエユエは、まだ……そういうのに興味があるようには見えなかったし!)


 なにより、一度仕事が入れば数十日から数か月、彼女は旅に出てしまう。

 ならば自分もその間仕事に精を出し、彼女に意識してもらえるような男になろうと商売に打ち込み、今度こそ、今度こそと、機会チャンスを伺いながら過ごしていたこの数年間が、先ほど全て水の泡となり消えてしまった。


(は~~~~、もうヤン老師にだけでも、打ち明けてればよかったかな!!)


 そんな回りくどい方法を取るのは卑怯者のような気がしたからこそ、まず想いを告げるならば彼女にと思っていたのが完全にアダとなった。

 夜風が走る道を進む布鞋シューズが、今夜は鉄のように重かった。


「あの……、もし」


 突如、背後から声がかかり、リーはゆったりとした仕草で振り返る。常ならば、こんな夜分に声をかけてくる人物なんて良からぬ人間の可能性が高いため、きっと警戒をしただろうが、いまはなにもかもがどうでもいいという虚無で心を埋め尽くされている。

 肩越しに振り返った先にいたのは、長身の男。

 袖口には細かな刺繍が施されている暗い色の長衫を身に纏い、よく手入れされてそうな長い髪が夜風にさらりと舞っていた。年の頃は二十代後半くらいだろうか。目元は涼しげであり、鼻筋もス、と通っている。

 年頃の娘ならば、一度視線を奪われるのではないかと思えるほどの色男だった。身体の前面にす、と出され重ねられている拱手もどこか品がよく、一見した限りでは国に仕える官吏のようにも見える。


「なに、か……?」

「突然のお声がけ、大変失礼いたしました。お伺いしたいのですが、貴方がいま出てこられた廟に、フォンという名の僵尸が来ているかと思うのですが……、間違いないでしょうか?」

フォン……?」


 彼女の家業について特に詳しいわけでも、その時の仕事を把握しているわけでもないので、一瞬リーの眉が顰められる。

 けれど。


  ――で、最後の一体が、フォンさんっていう元文官。


 不意に、先ほどのでのユエの声を思い出し、「あぁ」と瞬きをしながら少年は頷く。

 フォン

 確か、先ほどユエがその名を口にしていた。


(でも)


 それが、なんなのだろう。

 駄目だ。今日は思考がまとまらない。


「そう、いえば……フォンさんという方を、明日、送ると……」


 散漫としている思考を手繰り寄せることさえ億劫で、ぼんやりと、ただ、彼女が答えたままを口にすると、拱手の向こうで伏せられていくおもてが三日月の唇で笑った。


「それはそれは……。教えていただき、恐縮です」


 金鏡つきが妖しくきらめく。

 そんな、気がした。

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