< 参 >
ふわ、と頬を掠める風が、先ほどよりも冷たさを増していた。
落とした視線の先にある自身の影は、昼間よりもその頭身が伸びており、つ、と視線を持ち上げ西の空を見遣れば、端の辺りに橙色が滲んでいる。どうやら気づかぬうちに、大分時間が過ぎていたらしい。
「
「おや。もうそんな時間ですか。はい、
くるりと踵を返しながら、店の中にいる中年の男へ声をかけると、桃包(桃饅頭)のような顔が向けられた。
軽く編まれた髪を背で揺らしながら立ち上がると、陶器の甕の中にある酒がちゃぷん、と波立った。重心が左右に振れるのを御し、少年は慣れた足取りで店内にある棚へとそれらを順に収めていく。
甕にはそれぞれ酒名と価格が書かれた札が貼られており、すべて彼の実家の酒蔵で蒸留された白酒である。
ここ、
(まぁ、当時のことなんてもう誰も知らないし、好きなこといえるだけだと思うけど)
ともあれ、故郷を転々と出来るわけでもなし、
石畳の路を挟んだお向かいもそろそろ店じまいをするようで、店の前に吊っていた乾物を次々に店主がしまう姿が見えた。日々の生活に困るほどの限界集落でもなければ、きらびやかな豪邸が立ち並ぶほどの都会でもないこの村の唯一ともいえる名物は、村のやや外れにある廟に住む道士だろうか。
少なくとも、少年が生まれたころにはすでにこの村での儀礼一切を取り仕切っていた
(
すでに高齢ということもあってか、家業である僵尸隊の引率を譲られた彼の孫娘の名を心で呟きながら、
基本的に人の多い都市には、死んだ人間をすぐに処置するために
(元気にしてるかなぁ……。
この村から一度も足を踏み出したことのない自分にとって、街から街へ、都市から都市へと渡り歩く彼女の生活はなにもかもが未知で出来ている。幼いころは毎日のように同じ時間を過ごしていた彼女が、いまや自分だけの世界を持ち歩き出していることが、どうにも信じられない。
「あ、そういえば……、いい忘れておりましたが。
「んー?」
「いま、
「っ!?」
ちょうど彼女を思い浮かべていたせいか、
胸の前で、カチ、と陶器の重なる音が小さく響いた。
中で酒がたぷんたぷんと揺れているようだが、どうやら大惨事は免れたようだ。
「あぁ、吃驚した。落とすかと思った……」
「良かったですねぇ」
幼いころより自身を見守ってくれていた主管人(番頭)のこの言葉は、甕を落とさなかったことか、それとも
「で、
「えぇ。さっき
「あぁ、今晩の
高齢の割に――というか、むしろ酸いも甘いも知り尽くした高齢だからこそ、か。
「えぇ。それだけでなく……なんでも客人? がいる……とかで……」
「客人?」
「
「いえ、
「……迷子ってことは、まだ幼いのかな。どこで拾ったの? 巡捕には相談したのかな?」
「いや~、どうやら、
「はぁ?」
仮に道に迷っているにしても、流石にその年頃の人間を「迷子」とは称さないだろうし、なにより、恐らく
(よっぽど、家が遠いとか?)
否。
きっと違う。
(なにか……)
ワケありの人物に違いない。
そう。
例えば、どこぞの家出娘を拾って帰ってきただとか。
(あぁ……もう。だとしたら、ほんと、お人よしだなぁ)
でもきっと、彼女がそうしたのならば、放って置けないだけの事情があったのだろう。
「じゃあ僕は、
恐らく明日にもなれば、彼女の方から帰宅したことを伝えるために訪れてくれるとは思うが、もしかするとそのまままた新たな旅に出る可能性もある。
「あ、
(あ、これちょうどいいかも)
よいしょ、と手を伸ばし、
「あぁ、
ぺら、と帳簿を捲りながら
「え」
どこか他人事のように疑問符ばかりが宿った声が、少年の唇から零れ落ちる。
同時に、彼の手にあったはずの甕がすとん、と落下し、鋭い音と共に床の上に芳醇な香りが散らばった。
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