< 弐 >
ふ、と意識が泥の中から持ち上がるような感覚に、
起きているわけでもない、けれど意識を完全に手放しているわけでもない。
このふわふわとした眠りと覚醒の合間を揺蕩うことは、最大の贅沢のひとつだと少女は思っている。
明け方、
いまこうして布団をかぶって寝ているあたり、恐らく無意識に潜り込んだのだろうとは思うが、ここまで寝入った時の記憶が定かではないのは、初めて祖父と共に
(いま、何時くらいだろ……。そろそろ起きなきゃいけない気もするけど、駄目だ……布団とお別れしたくない……)
あともうちょっと、と思いつつ、気づいた時には陽が落ちているというお約束の可能性が高そうだが、それでも覚醒に向けて、どうしても手を伸ばせない。
(あと、あともうちょっとだけ……)
少女の意識が、再びぬるま湯にも似た夢へと落ちようとした、その瞬間――。
「
バンッ! と、少女の部屋の格子扉が勢いよく開かれ、はめ込まれている磨り
「あだ……ッ!」
ガバッ、と弾かれるように跳び起きた
「ぎゃあっ! な、なにっ!! 急にっ!!」
「なにもクソもあるかいっ! こんアホが!!」
見遣った先の扉は外から光が差し込んでおり、後光を背に受けた影がズカズカと室内に乱暴な足音を響かせる。少女は目を細めながら、なにやら立腹中のその人物――祖父の姿をようやくその視界に収めた。
つるりと額から頭頂にかけて覆うモノがなにもない頭部は、それでも何故か後頭部から生えた白髪がまるで角のように左右に分かれ逆立っている。
一見健康的に思える赤黒い肌は、日焼けなのか酒焼けなのか判断に迷う微妙なところだ。
そんな彼こそが、この集落の儀礼の一切を取り仕切り、また、近隣の孤児などを保護し育てる道術家であり、
「ってか、
「アホぅ! 儂ぁ酔っとらんわ!」
「じゃなんでそんな怒ってんの。めんどくさい……」
「これが怒らいでか!」
「そこの! そこの
「あァ?」
どうやら投げ込まれたときに、少女の寝具で顔を擦ったらしい。僅かに赤くなっている顎をさすっていた少年が、語尾を持ち上げながら瞳へと不機嫌そうに険を孕ませた。
「
祖父の視線が向かう先へちらり、睫毛の先を流した少女は、「あぁ」となんの感慨もないように呟く。
「迷子。
「なんじゃ。あの森、一本道じゃろが」
「それがさ、聞いてよ
「なに。あの森で? あの道から外れるっちゅーのは、どういうこっちゃ」
「だよねぇ。私もいまだに信じられないんだけどね。道から外れた草むらの中で、野垂れ死んでた」
「死んでねェわ! なにまた勝手に人を殺してやがんだてめェ! っつーか、迷子じゃねェつってんだろ!!」
相変わらず自分の現状を認めようとしない少年ががなり立てるのを「はいはい」と聞き流しながら、
「ほーん。なるほど、大体事情はわかった。んで、この
祖父の当たり前といえば当たり前すぎる質問に、答えたくても答えを持たない寝具の上に座る人物ふたりは思わず押し黙る。少女がちら、と睫毛を目の前の少年へと向けると、彼は相変わらず不機嫌そうなその
彼の故郷が見つかるのが一体いつになるのか不明ないま、しばらく
(あー、でも一角獣の
けれど彼に説明を求めたところで答えそうもないし、どうしたものかと一瞬悩む。
(まぁ……普通に話せばいっか。もしかしたら
よし、と内心頷くと、少女は
「あのね、実は……」
その話が終わりを迎えたときに、ただ「なるほどな」と、顎へ手をやり、呟いただけだった。
「ときに、そこの
「あァ!? さっきから黙って聞いてりゃ誰が
「そりゃお前に決まっとるだろうが。そんな
「ちっげぇわ! オイコラ
「ちょっと! でこっぱちって呼ぶなっつったでしょ! アンタこそなに聞いてたの!!」
「あ? んじゃ鳥の巣頭とでも呼ばれてーのか、オイ」
「……!!」
両手で、さっと頭に触れると、確かにぼわっと広がっている。元々毛が細く絡まりやすいこともあり、髪をきちんと乾かしてから寝るようにしていたが、今日は疲れが勝ってしまったことがすべての敗因だ。
「自分だって髪ハネてるくせに……っ!」
「あァ? だからなんだよ、でこっぱち」
「また!! いった!! 名前、教えた意味ないじゃないっ!!」
「訊いたが、呼ぶかどうかを約束なんぞした覚えはねぇ!」
「ぐぬぬっ!! このクソ悪人ヅラ!!」
「ちゅーかな、その
「え、だって……探さないとさ、こんな人様の恨みを糧に生きてるようなやつ、いつ死んでもおかしくないし……。故郷がわからないと、埋葬も出来ないじゃない」
「てめ……っ」
「アホーぅ。んなこたァわかっとるっちゅーんじゃ、こんアホ娘。そうじゃなく、その
「!」
目を一度、ぱちくりと瞬いたふたりへと、老人の声が続けられる。
「
「それは……、そう、だけど。でも、死んだあとに僵尸に」
「故郷を探したいんだったら、探しゃえぇ。だが、物心ついたときには、盗賊の真似事させられて生きとったわけじゃろ。だとしたら、儂にゃその
確かに、死んだあとのことが最重要事項だったせいもあるが、故郷を探すといったのは
「……まぁ、俺ァ、その
「……まぁ、私の目の前で死んでくれたら、ちゃんと立派な僵尸にしてあげるから、そこは心配しなくてもいいよ」
「だっから、てめェは人が死ぬことを前提に話を進めんじゃねェ」
「でも、人はいつか必ず死ぬから……」
「んな哲学的な話してるわけでもねェよ! 決めた。俺ぁ、てめェより一日、一秒でも長く生きてやるわ」
再び始まりそうな口論が、
「ま、
「あ? 故郷を……?」
「道術に、そういうのがあるの。儀式でアンタの血をこの土地に捧げることによって、故郷を生まれた場所からここに定め直すってのが」
過去、大きな河のすぐ傍にあったひとつの集落からこの国――
人口が増え、村が増え、街になり、都市が作られ――大陸全土に人々が散らばるようになったが、元は小さな集落から始まったわけで、血の
僵尸になるからといって、そこから人々が離れられないのならば、きっとこの国はここまで大きくはなっていないだろう。
「んだ? じゃあ、いちいち故郷に還って埋葬しなくても、僵尸にならねェ
「そう。まぁ自分の故郷に思い入れがないって人間はそうはいないし、大抵の人が故郷を変えようとはしないけどね」
祖父が身元不明の孤児を引き取るときも、ときおり故郷を探さずにこの集落を故郷に定め直すことがあった。幼いころは、それをする者としない者の差はなにかと思っていたが、大抵の孤児の場合、故郷が見つかったとしても、そこにロクな思い出がないことが多い。
だったらわざわざ嫌な記憶のある場所に死んだ後に還らずともよいだろうという判断から、そうされていたと長じてから聞いたことがあった。
「まぁ俺はどっちでも構わねぇけどな。故郷に思い入れとやらもねェし、わからねぇままでも一向に気にしねぇ。でもそれじゃてめェらが都合悪ィっつーなら、好きなようにすりゃいいだろうが」
「でも、本当にいいわけ? 血を媒介とする道術って、気づかないだけで人の心の情報を司る「
「…………はっ、家族ねェ……」
鼻先で笑う
「んじゃ、故郷の書き換えをしてしまってもえぇんじゃな?」
傍らの
「ってか、忘れてたけど。なんで
「アホぅ。んなことで怒っとるわけないじゃろが」
「じゃあなんでよ?」
「お前、この
少女はぱちくりと睫毛を一度上下すると、祖父から自身の寝台で胡坐をかく悪人ヅラへと視線を流す。
暗い森の中で見たときは、表情に影が濃く落ちていたせいで稀に見る悪人ヅラだと思ったものだが、こうして明るい場所でじっくりと見ればそれなりに年相応ともいえる顔立ちだ。
(まぁ目つきが悪いのは確かだし、すぐにガン垂れるから人相的に最悪なのは変わんないけど……)
元よりさほどお行儀良かったわけでもない彼の黒髪は、先ほどまでの仮眠で癖がついたらしく、あちらこちらにハネている。この髪型で、よくもまぁ人を鳥の巣扱いしてくれたものだ。
「どこって……ここの、隣の部屋でしょ。
少女は当たり前のように答えると、祖父の目がくわっ! と見開かれ、すでに白くなっている眉毛がその尻をぐぐ、と怒りに持ち上がる。
「え、だっていままでだって養子の子たち、こっちの西廂房の部屋で寝泊まりさせてたじゃないっ!」
「こんアホっ! いままで養子にして
「だって、爆睡こいてる
「オイてめェ……人聞き悪ィこというんじゃねェよっ!」
「ふぬぁぁああ!! なんでわからんのかのぉぉお!!」
つるりとした頭部へと手を当てながら、ぶんぶんと首を振る
「じゃあ
「ぐぬっ!!」
「そもそも同じ棟に寝泊まりしてるっていったって、部屋はちゃんと分けてたし、同じ部屋で同じ寝所に上がっていたわけでもないのに、いちいち目くじら立てすぎなの!
「んなこたぁあったりまえじゃろがい!! 同じ部屋で寝所に上がった時点で、そりゃお前……もう結婚っちゅー話になるじゃろうが!!」
ときおり、外の風を浴びたのか、カタカタと扉にはめ込まれた磨り
そういえば、扉が開きっ放しになっているため、室内の空気が大分冷えている気がする。寝具に包まり座っているせいで寒さは感じないが、いい加減閉めてほしいというような場違いな思考が一瞬脳裏を掠めていく。
もぞ、と寝具を引き寄せれば、僅かに動いたばかりのそれらは突っ張るようにしゅるりという衣擦れの音を途中で止めた。ふ、と自身の手から、寝具のその先を辿っていくと、そこにあったのは、黒の道袍。
「………………」
「………………」
はた、とかち合った少年との視線は、互いの沈黙によって繋がれたままだ。
――同じ部屋で寝所に上がった時点で、そりゃお前……もう結婚っちゅー話になるじゃろうが!!
不意に鼓膜で蘇るのは先ほどの、祖父の声。
同じ部屋である。
勿論、
同じ寝所である。
同じ部屋の同じ寝所に、ふたりで上がっている。
この状況を説明すると、そうなる。
なんの因果か、そういう状況になってしまっている。
(これは、)
同じ思考に至ったのか、
が、その瞬間――。
「………………、結婚か……」
自身のいった言の葉その通りの状況かに孫娘があったことに気づいたらしい
けれど、その口が紡ぐのは、残酷なまでに自身が先ほど結論を出した一言――。
「ち、違う!! っていうか、コイツをここに乗せたの、そもそも
「あぁ……あー、アレじゃな。この
「あァ!? なにがいいんだ、クソ
「まだ早いかと思っとったが、
しみじみと昔を懐かしむような表情になった
けれど。
「……でこっぱち。お前、十六だったんか……」
この驚き方から察するに、もっと下だと思っていたということだろう。
(あの盗賊どもも……っ! コイツも、ほんと人を一体なんだと……っ)
そりゃいくら食べても縦にも横にも伸びず、体格だけでいうのならいくつか下の子供たちと同じか、むしろそれより低いくらいだが。
「ちょっと!! どさくさに紛れてでこっぱちっていうなっつってんでしょうが!!」
「あァ!? んじゃ、今後、鳥の巣って呼ぶぞコラ。いいんだな!?」
「いいわけあっかーッ!!」
何度目かわからない口論に突入しかけたふたりの身体が、先ほど引っぺがしたはずの寝具に縺れる。
「あ」
声を出したのは、果たしてどちらか。
自分が風呂から上がったあと、どうやら義祖母が彼にも湯を使わせたらしい。清潔なにおいが、頬へ触れる。
いままで彼の養子となった面々も、いまは家庭を持っていたり、子がない家へ貰われていったりしているが、それでもいまも
(そう、思っていたけど)
まさか、こんな形で彼と「家族」になるとは誰が想像するだろう。
「…………結婚、決定じゃな」
どさ、と背に受けた衝撃は、それよりも破壊力の強い祖父の声によって、掻き消された。
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