第二章 ラブストーリーは、強制的に

< 壱 >

 磨り雲母ガラスがはめ込まれた観音開きの格子戸を、両手でパタン、と閉じたその瞬間、東の空から光が差し込んできた。

 眩しさに一度睫毛を上下させ、細めた瞳をそちらへ向ければ、どうやら小高い丘から太陽が昇り始めたようで、夜の帳を押し上げるように目覚めたばかりの朝が広くその腕を伸ばし始める。


(は~、ほんと間一髪だった……)


 ユエは、ツ、とこめかみから流れ落ち顎先で玉作る汗を手の甲で抑えながら、「はぁぁあ」と疲労が多分に含まれた長いため息をひとつ零した。

 森での騒動の後、予定外に消費ロスしてしまった時間を回復するべく、最初は足早に歩いていたが、いよいよ空の三ツ星が西の低い位置へと傾き出したころからほぼ全力で走ることになってしまった。

 森からいえのある集落までは細いながらも道が引かれているものの、お世辞にも綺麗に舗装されているとはいい難い。跳躍しながら進む僵尸キョンシーたちにはすでに「こん」はなく、ただユエの命令にしたがって「はく」の宿る身体を動かしているに過ぎないので、障害物があれば当然避けるなどという芸当が出来るわけもなくそのまま転ぶ。

 そして、その転んだ僵尸が障害物となり、後ろに並ぶ僵尸もまた同じように転ぶ。

 まるで並べた麻雀マージャン牌をひとつ倒したときのように、面白いほど連続して転んでいくのだ。


(いや、面白くもなんともないんだけど)


 彼ら自身はもう既に死んでおり、痛みなど感じるわけもないのだが、それでも僵尸とは「確かに生きていたどこかの誰か」であったことは事実であり、彼らの帰りを待っている者のためにも、極力これ以上の治らない傷を作ってはいけない。

 これは、師事している祖父から道術を習う際にいわれた最初の言であり、ユエが僵尸隊を率いるようになってからずっと軸に定めている信条でもある。

 そんなわけで、彼らの転倒に注意しながらも全力で帰路についたのは、いまだ汗が引かないことからもわかるように、つい先ほどのことだ。日頃ならば僵尸を棺に入れるにも、簡易ではあるもののきちんと儀礼に乗っ取って行うが、流石にそんなことをしている暇はなく陽の光から逃がすように木製の黒い棺の中へと押し込んだ。


(ほんと、つっかれた……)


 は、と吐き出した息は、視界を一瞬白く曇らせるほどだというのに、道袍どうほうの中はまるで真夏のように熱気が籠っている。


(まぁなんにせよ、陽の光に僵尸が当たることもなく帰宅出来たし、盗賊も後を追ってくるわけでもなさそうだし、万々歳かなー)


 閉めた戸を背にしながら体重をかけていくと、どっと疲労が肩へ圧し掛かってくるような気がする。とりあえず、このままここにいると寝落ちてしまいそうだ。

 重い瞼を、えいや、と持ち上げると、その視線の先には垂花門すいかもんと呼ばれる内門。先ほど慌てて僵尸隊を引き入れたので、塗装の剥げたところが目立つ朱塗りの扉が口を開いたままにしており、そこに、凭れ掛かるように身体を預けているランの姿があった。

 このいえは、南東に大門(表門)を置き、前庭を経て南の垂花門に至り、院子いんし(中庭)を囲むように四方に棟を頂く典型的な四合院しごういんと呼ばれる家屋である。一般の家庭と違うことがあるとすれば、北の正房が、家長の住まう表座敷はなく僵尸を安置するための殯斂ひんれんであるということだろうか。

 大門から前庭には足を踏み入れたものの、それぞれの棟を臨む院子にわに入ることは遠慮が出たのだろうか。傍若無人が人のツラを被って生きているような性格をしているくせに、人のいえに入るのに躊躇うような慎ましさがあったとは意外である。


「遠慮してんの? 別に取って食いやしないし、入ってきたら?」

「アホ。んなこと気にしてねェわ」

「そう? 私の夜食、奪って食った仕返しでも怖がってんのかと思ったよ」

「怖がっとらんわ! つか、しつけェ! もういい加減、時効だろうが!」

「あのね、半日で時効を迎える犯罪があるなら、世の中に巡捕じゅんほ(警察)は必要ないっての」


 ユエは各棟へと十字に走る道へと歩を落としながら、視界の端を流れる左右へと睫毛の先をちらり、向ける。この家を出たときにはまだ葉が落ち切っていなかったはずの棗やすもも、杏、桃の木は、すっかり裸になっていた。


(うぅ……夜食奪われたこと思い出したら、実がもう収穫されたあとなのが殊更悲しく思えてくる……)


 少女の足音が垂花門の二、三歩前まで近づくと、ようやくランの背が、ギ、という木が軋む音と共に朱色の門扉から離れる。そしてユエのものよりも一回り以上大きな雲履うんりが、石畳を踏んだ。

 こういった家が珍しいのか、少年の目が、周囲を巡る棟をきょろきょろと泳いでいる。


「結構、でけェな」

「そう? 生きてる人間はそんないないけど、僵尸はその時々で相当数入れなきゃいけないし、近隣住民の儀礼なんかもここでやるからそれなりの広さは必要だし……ま、こんなもんじゃない?」


 道士の住まいというものは、風水を大切にするという職業柄どこも似たような造りかと思っていたが、どうやら彼の物珍しそうな視線を見るに、違うらしい。もっとも、すでに人が去った集落しか近場になく、盗賊と変わらない生活をしていた道士の元での生活ではこれほどの家の広さは必要ないのかもしれない。


「で、生きてる人間とやらは何人いんだ? 爷爷じっちゃんとやらの他にもいんのか?」

「うん。爷爷じっちゃんのほかには――」


「あら? ユエちゃん??」


 突然、ランの背後から声がかけられた。

 ふ、と見遣れば、彼の背後からひょっこり顔を出すひとりの――女性・・。左右から編み込み、後ろで結い上げている髪から後れ毛が零れ落ちたのを、さ、と耳にかけながら、驚いたように睫毛を何度か羽ばたかせている。


ファンさん」

「あぁやっぱユエちゃんだ。どしたの? 帰ってきたの?」


 誰だ、と肩越しに振り返ったランがビクッと肩を大きく揺らし止まったのは、恐らく彼女・・の姿を見止めたからだろう。彼女・・――ファンはその視線に気づき、ぽってりとした厚い唇で、ちゅぱっ、と一度濡れた音を立てた。

 ビクッ、と再びランの肩が大きく揺れ、彼の眉はどこか不安そうな感情を表したまま、けれど不機嫌そうに顰められる。しかし、それをいちいち気にするような繊細さはファンにはない。


「ちょっと手持ちが心許ないってのと……、あと、これ。拾ったから、一旦帰ってきた」

「あ?」


 ユエ道袍どうほう姿の少年へと指先を向けながら、ファンに告げると、「ふぅん?」と彼女の視線が再びランへと這った。同時に、彼の眉の皺が濃くなっていく。


「へぇ。こりゃまたユエちゃんには珍しい……随分オトコマエ拾ってきたじゃなァい?」

「あァ!? んだ、てめェはさっきから!」

「コラ。これから世話になる分際で偉そうにすんなっつったでしょ! 彼女・・ファンさんだよ」

「……彼女・・……?」


 ランの語尾が疑問に持ち上がる。

 それもそうだろう。

 ファンの年齢は三十代半ばであり、ユエとは二十ほども違うが、一見二十代かと思うほどに若々しい。特に鍛えているわけでもないのに、引き締まっている様子が実用性を重視した地味な旗装きそうの上からもよくわかるほどだ。

 いまもランの後方から現れたということは、恐らく南の倒座房とうざぼうにある厨房で朝食の準備をしていたのだろう。このいえで家事の一切を担ってくれ、その腕前も確かな彼女・・を欲しがる者は、きっと多いだろう。


ファンさんが、筋骨たくましい男じゃなければ)


 ははっ、とユエの唇が渇いた声を零した。


(まぁコイツがどれだけ滞在することになるかわからないけど……、まぁ隠しておくほどの大層な理由があるわけでもないし、いいか)


 ユエが再び少年へと視線を戻すと、「んだよ?」と彼の目が続きを促してくる。


ファンさんは、私の奶奶ばあちゃんだよ」


 少女が紛れもない真実を紡いだその瞬間、ランの日頃険を含んだその双眸が、間が抜けたように見開かれた。暴言以外を発することが出来ないのではないかと思われた唇が、ぽかんと軽く開いている。


「………………は?」


 ようやく落ちたその声は、それでも疑問符で染まりきったものだった。ユエは、「だよねぇ」と口の中で苦笑を転がしながら、彼のそんな表情にしてやったりと内心密かにほくそ笑む。


「…………奶奶ばあちゃんって、あの、あれか」

「どのあれなのかわからないけど、あの奶奶ばあちゃんだよ」

「ば、……って、あ??」


 彼の脳内で、「奶奶ばあちゃん」という単語の意味と、目の前の逞しい女性・・が一致しないのだろう。どうやらユエに揶揄われていると察したらしく、ぽかんとしていたそのおもてが、徐々に不機嫌な色に染まり始めた。


「んっふっふ。ユエちゃん、ユエちゃん。師哥にいさん反応に困ってるから、ネタバラし早めにしてあげたら~?」

「えー。でもファンさん、コイツのせいでホント散々な目に合わされたんだから! もうちょい引っ張って、そのアホヅラ拝んでいたいんだけどなぁ〜」

「……おい誰がアホヅラだ、コラ。つーか、全部てめェの自業自得だろうが!」

「私の夜食全部食べたことを忘れたとはいわせないから!」

「またそこかよ! どんだけ食い意地張っとんだ、てめェは!」


 話す相手もいない孤独な真夜中の行軍において、食べ物がどれほど慰みになるのか彼は知らないからそういえるのだ。ユエは意識の片隅に追いやっていた空腹を思い出し、いますぐ鳴りそうなぺったんこの腹へ手を押し当てる。


「話してたらお腹すいてたの、思い出しちゃったじゃない。まぁとっととファンさんのご飯食べたいから教えてあげる」

「なんで偉そうなんだてめェは」

「アンタにいわれたかないっての! ファンさんは、私の奶奶ばあちゃん。ただし、血は繋がってない義理の、だけど」

「んっふ。まぁ流石に実の祖母なら、どんだけ若作りなんだって話よねぇ」

「……いや、っつーか……そこか? 問題は……」


 ランがそういうのも無理はないだろう。

 彼のそんな姿に、「んふふふふ」と袖で口元を押さえながらファンが笑いを零した。実にたおやかで愛らしい姿だが、しかし残念ながら漏れ聞こえる声は、ひたすらに野太い。

 いまでこそすっかり慣れ親しみ、祖母として懐いているものの、ユエとてこの筋骨たくましい女性・・を数年前に祖父が妓楼から落籍ひかしてきたときは驚いたものだ。

 祖父がどこからともなく幼い孤児などを保護して養子として育てるのは、珍しい話でもなくユエの出生前からあったことらしい。けれど、流石に酔っぱらった勢いで妓楼から妓女を落籍ひかしてきたのは初めての案件ケースで、さらにその性別が男――少なくとも、生物学上は、男であると知った時は、祖父を知るすべての者が目を見張り驚いた。


(なんせ爷爷じっちゃん、女好きで有名だったからな……)


 ユエが生まれたころには既に本当の祖母は他界していたそうだが、そんな実祖母は生前、祖父の女遊びに散々苦労していたのだと人の話に聞いたことが何度もあった。だからこそ、よりによって男娼を、しかも外見はどうお世辞を重ねても誤魔化しようのない男を落籍ひかしたのかと、人の話題にしばらく上ったらしい。

 もっとも、こうして致命的な方向音痴かつ性格も口も人相も悪い、素性も知れない少年を拾ってきた自分は、間違いなく祖父の血を引いているといえるのかもしれない。


(まぁ、ファンさんは性格は表面上、天女だけど)


 怒らせると怖いことは、いまはとりあえず黙っていよう。


「そういえばファンさん、爷爷じっちゃんは? 寝落ちた?」

「あぁ、フーちゃんなら、寝ちゃったみたいよぉ。ユエちゃん帰ってくる、ほんのちょっと前だけどねぇ」


 ファンは、自身の伴侶である祖父のことを、「フーちゃん」と呼ぶ。基本的に好々爺であり、誰であってもにこやかに応対する祖父ではあるが、一応周辺では名の知れた道術家である。そんな彼をして「ちゃん」付け出来るのは世界広しといえど、ファンくらいなものだろう。


「……お酒、かなり飲んでたでしょ」

「ここんとこ、ユエちゃんいなかったからねぇ。怒る人もいないってんで、毎晩楽しんでたみたいよぉ」

ファンさんも、いい加減爷爷じっちゃんのこと怒ってよ……」

「んー、でもぉ。アタシ、フーちゃんに嫌われたくないしぃ」


 つん、とつき出した厚い唇の横に、力強そうな指を添えながら片眼を閉じるファンに、ユエは「はいはい」とその言を流した。


(しっかし……寝落ちたばっかってことは、半日は起きてこないだろうなぁ)


 ユエ本人としても、そろそろ瞼に滲み始めている眠気が主張を強くしている。夜通し移動していたので、そろそろ眠りにつきたいのが本音だった。


「あ、なんか急用でもあった? だったら、叩き起こしてくるけど?」


 ファンが祖父の寝ているはずの東廂房へ窺うような視線を流しながら、指をボォキと鳴らすのへ、少女は手を振って否定する。フーちゃんに嫌われたくないといっていた口は、一体どの口だっただろうか。


「あ、ううん。急用ってほどじゃなくて、ただコイツ……、迷子拾ってきたって報告しようと思っただけだから。まぁ寝てるなら、起きてからでいいよ。私も朝ご飯食べて、お風呂入ってちょっと寝たいし」

「あぁ、そうね~。ユエちゃんっ、今回もお勤め、お疲れ様よっ! ……で、そっちの師哥にいさんもそれでい~い?」

「あ?」


 少女とその義祖母で進む会話についていけないようで、物珍しそうに周囲へと視線を流していたランが、瞼を一度上下させる。


「ご飯。アンタも食べるでしょ? 厨房こっち。その後、お風呂入って爷爷じっちゃん起きてくるまでちょっと仮眠。その後の身の振り方は、爷爷じっちゃんと相談しつつって感じでいい?」

「……おぅ」


 先に厨房へと入っていったファンの逞しい背を追うように、ユエはそちらを指差しながら雲履シューズの先をそちらへと向け歩き出した。夜中の戦闘で結われていた輪がほどけた髪が、さら、と朝焼けの宙に舞う。


「つか、どういう心境の変化だよ」

「え、なにが?」

「あんだけピン奪っただの文句いってたくせに、随分好待遇じゃねェかよ」

「森で会ったときのアンタは他人だもん。でも、うちに足を踏み入れたからには、客人だし、そりゃ空腹のアンタの目の前で私だけご飯食べるなんてこと……、いや待って。ちょっとした仕返しにそんくらいしても、バチは当たんないんじゃないかな……」

「アホか! 天が当てねぇなら俺が当てるっつーの!」

「あだ……っ!」


 すとん、と頭上から手刀が落とされ、痛みというほどではない衝撃が少女を襲った。キッ、と振り返った先には、相変わらず人相の悪いおもてユエを見下ろしている。


「ちょっと! 身長これ以上縮んだらどうすんの!」

「あ? 身長? そりゃいまさら一寸(約三センチ)も二寸も関係ねェだろ、でこっぱち」

「関係あるっての!! 一寸変わったら、大分世界は変わるわっ!!」

「……そうか? あんま変わんなくねェか?」

「ぐぬ……この独活の大木め……」

「あァ!? 誰が独活の大木だ、コラ!」

「自分がどこから来たのかも、どこへ向かっているのかもわからず、森の一本道からも逸れるくらい方向感覚が死んでるアンタに決まってんでしょ!!」

「あんだとコラ!!」


 腹いせとばかりに軽く体当たりをしつつ、彼の足を踏みつけてやると、少年の眉間の皺がますます濃く、深くなっていく。

 ファンの「ご飯出来たけど~?」という呼び声が厨房の扉の向こうで響くそのときまで続いた少年と少女の口喧嘩は、ふわりと肉がパオの中で蒸されるにおいと共に終わりを告げた。

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