第23話 腕輪は遠く
エウニケの祖母は非常におしゃべりだった。
自分がどれだけオリュンポスの神々と天使を信仰しているか、神や天使の魅力などを延々と語られ、フェアトが眠りにつくことを許されたのは明け方だった。
あくびをかみ殺しながら扉を開けると、朝の澄んだ空気が身体を包んだ。
フェアトは再び腕輪探しに出ることにした。エウニケの家に留まるのは一晩限りと決めていた。
「昨日はありがとう。楽しかった」
「こちらこそ。ごめんね、おばあちゃんの話、長かったでしょ」
エウニケは笑っていたが、寂しさが表情の端々から見て取れる。
家の入口まで彼女と見送りに来てくれた祖母は、暖かい笑みを浮かべてフェアトを見ている。
「じゃあ、そろそろ行きます」
「またいつでもいらしてくださいねえ」
二人に笑いかけると、フェアトは街へ出た。
このギリシャの街は規模が大きく、装飾品を売る店など腐る程ある。しかしエウニケに店の特徴を教えて貰ったので、迷うことは無いだろう。
しばらく大通りを行けば、エウニケの言った通り、簡易な屋台風の装飾品の店が見えた。
足を組んで椅子に座っている中年の男性が、どうやらこの店の主人らしい。
フェアトは主人に駆け寄り、声を掛けた。
「すみません。少しお聞きしたいことがあって」
「お、
わはははっ、と豪快に笑う主人に、フェアトは事情を説明した。
事情を聞いた主人は、うんうんと深く頷いた。
「ああ、その腕輪なら確かにあったよ。でも、ついさっき、売れちまったんです」
フェアトは唇を噛んだ。この事態は十分予測できた筈である。やはり、エウニケの家で休まずにここに来れば、腕輪は無事だったのかもしれない。
動揺する心を押し隠し、フェアトは主人に尋ねた。
「その、買った人の特徴は」
「特徴も何も、アステリ家のセメレ様ですよ。お母様に差し上げる装飾品を探しておいででした」
アステリ家といえば、この辺りの商売を取り仕切る豪商である。そこの一人娘であるセメレは美しいと噂だ。
そんなところへ腕輪が行ってしまっては、
主人への礼もそこそこに、フェアトは目的地のアステリ家へ急いだ。
バレシウス神殿の回廊を歩くヘラの足取りは軽やかだった。表情も、普段のどこか不機嫌なしかめ面ではなく、満面の笑みである。彼女が何故、夫である絶対神ゼウスの神殿へ足を運んだのか……それは特別な事情があった。
広く、美しい道を進んで行くと、前方からヘラの目当ての人物が歩いてきた。少し足を急がせる。
一方、速足で迫ってくる妻に、相手は足を止め前ではなく後ろへ下がり始めた。
ヘラは相手を逃がさぬとばかりに走って追いかける。相手もそれに比例するように、後退の速度を速くした。
「ゼウス様!何故逃げるの」
「お前が怖い顔をして追ってくるからだろう!」
「私の笑顔が怖いっていうの」
「ほら見ろ、その目を吊り上げた顔!まるで悪鬼のようだ!」
相手――ゼウスは、オリュンポスの神々の頂点に君臨する絶対神であるにも関わらず、妻のヘラには弱かった。
二人のかけっこは暫く続いた。バレシウスの神官は皆、キトンの裾を踏んづけながら走る母性の女神と、全速力で回廊を後退し続ける絶対神の姿に口元をひきつらせた。
ゼウスの背が、急に開いた扉にぶつかったことでかけっこは終わりを告げた。
「あ…………申し訳ありません、ゼウス様」
痛……と背中をさするゼウスの背後、もっと詳しく言えば彼のぶつかった扉の後ろから、
しかし振り返れば扉は既に閉まっていて、押しても引いてもびくともしない。おそらく、ティレイアが内側から鍵をかけたのだろう。
側近に見放されたゼウスの前に迫ったのは、ヘラの怒りに満ちた顔だった。
「明日は私の誕生会を催すから来てくださるように!それと、あの座天使は連れて来ないこと!」
それだけ怒鳴ると、ヘラは踵を返して元来た道を戻って行った。その足音は、顔を合わせたときよりも数倍荒々しい。
ゼウスは、溜め息を吐いた。それは、妻の誕生日を忘れていた自分に対してでなく、いかにして誕生会をやり過ごすか悩んだためである。
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