第13話 寵愛の座天使

 武術大会も明日に迫った。アレスと共に始末書の作成、資料の処理をようやく終えたテンシェイは、疲れ切っていた。背中の翼も、どこか元気が無さそうに垂れ下がっている。

 書類嫌いのアレスは一日中紙と向き合っていた為、それが片付いた今は嬉々として修行に飛び出して行ってしまった。疲れた筈の身体で修行に臨む主の思考が、テンシェイには理解できなかった。

 神官らと共に、大会の開催場所となる中央の広場の飾り付けをする。アレスらオリュンポス十二神の座る玉座、そして、観客たちの客席、料理の手配……これらの準備を早朝から開始し、各神殿の神官と協力してなんとか昼過ぎには準備を終えることができた。

 それから執務室の机で呻くアレスを見て仕方無く手伝ったのだが、資料の処理はほとんどテンシェイが行ったと言っても過言ではない。アレスも頑張って一枚ずつ書き進めてはくれたが、テンシェイが主の書類をさばく速度には敵わなかったのだ。

 後はいつものようにアレスの世話をする以外には仕事は無い。テンシェイは、主の夕食の時間まで湖で休もうと思った。


 湖のほとりに降下し、翼を畳んだ。そして、思い切り伸びをする。澄んでいて、どこか神聖な空気が身体の隅々まで行き渡る。

 毎朝水を汲みに来るときはそんなことを感じている余裕が無いので、こうしてゆっくりと湖に留まっていることはあまり無かった。

 いざ、湖の水に足を浸けようとしたときだった。

 テンシェイの視界の左端に、二人の人物が映っている。一人は暗い金の髪の見覚えのある若い男、そしてもう一人は、黒髪を後ろで一つに束ねた見た事の無い華奢な青年だった。彼の背には三対の翼がある。相当位の高い天使エンジェルなのだろう。

 知っている方の男が青年の頬を撫でたり、抱き寄せたり、まるで恋人にするような仕草をしている。青年の方は少しだけ身を固くしながらも、男の手に自分を委ねていた。

 何となく傍に寄ってはいけない雰囲気を察したテンシェイは足音を立てぬよう、その場から速やかに立ち去ろうとした。

「おお、テンシェイじゃないか!」

 声が掛かる。

 恐る恐る振り向けば、青年の肩を抱いた男が陽気に片手を上げていた。

「……ゼウス様」

 そう、この男、オリュンポス十二神の頂点に君臨する絶対神ゼウスなのだ。

 ゼウスは天空神ウラノスの息子で、強大な力をもっている。しかし女癖が悪く、妻である母性の女神ヘラを差し置いてあちらこちらの女性に手を出していた。女癖とは言ったが、彼は男にも手を出す。テンシェイもかつて、彼に目を付けられて追いかけ回されたことがあった。彼の隣の青年も、奔放な絶対神に目を付けられたのだろう。

 過去に自分に愛を囁き、追いかけてきた男である。すぐさまその場から逃げ出したかった。

「ゼウス様……」

 青年が、こわごわといった感じでゼウスを見上げる。

 青年の声に、ゼウスは一人で納得したようにああ、と言った。

「こいつはテンシェイ。アレスのとこの天使だ」

 ゼウスがテンシェイを指差し、青年に紹介した。

 青年に怯えたような瞳で見つめられ、テンシェイの方もびくびくしながら一礼した。

「俺の側近の座天使ソロネのティレイアだ。可愛いだろ?」

「え、座天使……!?」

 テンシェイは驚き、目を見開いた。

 座天使とは、天使の中でも三番目に位の高い上級天使である。死んだ者の魂を神の国へ送るか地獄へ送るか……つまり裁判官の役目を果たす。情に動かされては善悪の判断が鈍るため、極力他人と交流することを避けると聞いている。そんな座天使にこんな場所で出会えるとは思わなかった。しかもそれが、ゼウスの側近だったとは。

「お前、明日から忙しくなるな。頑張れよ」

「は、はあ……」

 ひらひらとゼウスが手を振る。青年――座天使ティレイアはやはり怯えたようにこちらを見ている。

 とりあえずこの場から立ち去りたい一心だったテンシェイは、軽く頭を下げると湖から飛び立った。休みに来たはずなのに、さらに疲れた気がした。

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