第11話 女神回収

「どうか、お戻りください。ペペも心配していますよ」

「やだ!もっと遊んでたいもん!」

 何度神殿へ戻るよう言っても、首を横に振って拒否する目の前の炉の女神に、テンシェイは小さくため息を吐いた。神官たちにはヘスティアは自分がどうにかするからと仕事に戻ってもらった。正直、テンシェイ自身も誰かにこの幼子の説得を丸投げして、残っている仕事を片付けてしまいたかった。

「やーだっ!やだったらやだー!」

 ヘスティアは、ついに床に寝転んで駄々を捏ね始めた。清潔に保っているとはいえ、人間が土足で出入りする厨房の床を女神が転げ回っているため、テンシェイは慌てて彼女を抱き上げた。すると今度はテンシェイの腕から逃れようともがいた。

「ヘスティア様!」

 そのとき、厨房内に子供の高い声が響いた。


 ペペは恨めしそうにヘスティアを見た。

「もう、僕がどれだけ心配したと思ってるんですか」

「だってえ」

 腰に手を当て目を吊り上げ、ペペは怒鳴らん勢いで言葉を吐いた。ヘスティアの方はというと、むくれてそっぽを向いている。

 ペペは「失礼します」と主の腕を掴んだ。

「やーだ!帰りたくない!」

 ヘスティアは、悲鳴を上げてばたついた。

 ペペは外見は幼くとも、これまでのおよそ三百年を修行に費やしてきた身である。厳しい修行と全く無縁で過ごしてきた主に、彼の手が振りほどける筈がなかった。

 我が主がご迷惑をおかけしました、とペペは頭を垂れる。

 こうして、マケーの厨房を騒がせた炉の女神は去って行った。


 食卓にて肉を頬張っていたアレスは、まさに疲労困憊といった表情で現れた側近を見て首を傾げた。

「テンシェイ?随分疲れているみたいだが、どうした」

「……いえ、何でもないです」

 覚束無い足取りで廊下へ消えて行くテンシェイの姿は、まるで幽霊のようだった。


 明日から忙しくなる。何故なら、近々ギリシャの民たちの武術大会があるからだ。武術大会は、戦の神の御前で行うと決まっている。だからアレスは参加しなければならなかった。

 儀式の準備に会場の飾り付け、参加者の登録手続きなど、やることは山ほどある。自分だけが休んでいる場合ではない。

 執務室へ向かう途中、すれ違った神官に酷く心配されたが、上手く笑えていただろうか。


 執務室の扉を開けると、既に神官たちの手によってここに運ばれてきていた大会の資料の山たちが出迎えてくれた。大会の資料はいつも、他の神殿で確認したものが最後にこのマケー神殿に運ばれてくるので、こんなふうに資料の処理が大会の開催数日前になるということが多い。もっと余裕をもって渡してくれと毎回言っているのだが、早い時期に資料を提出してくれるのは海の神ポセイドンと美の女神アプロディテ、豊穣の女神デメテルと鍛冶の神ヘパイストス、そして狩猟の女神アルテミスくらいなもので、他の半分の神々は自分の趣味に夢中になったり資料の処理を面倒がったりと、資料を後回しにしてしまうことが多い。彼らの側近天使たち……つまり自分の同僚や先輩が慌てている様子が目に浮かぶ。


 資料に目を通してサインをする。複雑なこともない、ただそれだけの作業だが、量がこうも山のようにあれば気も狂ってくる。

「うわあああああああっ!」

 資料の山脈の中腹に到達したところで、テンシェイは声を上げ、頭を抱えてしまった。椅子の背もたれに体重をかける。

 疲れた、眠い、もう嫌だ……。喚いていたテンシェイは、執務室の扉が開いたことに気が付かなかった。

「……テンシェイ?」

 突如聞こえた少女の声に我に返ったが、そのまま椅子ごと後ろに倒れてしまう。

 倒れたテンシェイに慌てて駆け寄り、大丈夫なの、と覗き込んだ少女は、その長く淡い栗色の髪を揺らした。

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