第8話 脳筋神は妙に図々しい
何の前触れもなしにこのオニロ神殿を訪ねてきた戦の神アレスは、自分の側近の為に竪琴を演奏して疲労を回復させて欲しいと頼み込んできた。
「私が貴方の側近のために演奏しろというのですね」
にこやかな笑みを向けてくる夢の神に、アレスは真面目な様子で頷いた。ヘルメスは軽く鼻で笑った。人の大事にしていた竪琴をまっぷたつに割っておきながら、よくそんなことが言える。ヘルメスは内心そう思った。
しかし、そんな呟きを心の中だけでとどめておかないのがこの夢の神である。
「人の竪琴を壊しておいて、よくも私に何か命ずる気になれましたね。……あの竪琴には壊したら壊した者を殺さねばならないという掟があるのですよ」
ヘルメスの穏やかだか恨みのこもった物言いを、傍に控えていた
夢の神の物騒な発言を間に受けたらしい戦の神は、覚悟を決めたように言った。
「ならば仕方が無い。戦の神として覚醒した時より死は覚悟の上。さあ、俺を殺せ!」
両腕を広げたアレスに真っ直ぐに見据えられたヘルメスは、ついに声を上げて笑った。
「ふふ、そんな掟、あるわけが無いでしょう」
「何っ、俺を騙したのか!」
アレスの驚愕に満ちた視線は、ヘルメスの笑いをさらに長引かせることになった。
話が脱線し始めている。笑う主を元に戻すべく、声をかけた。
「親方、結局演奏するんですか」
「貴方は私にどうして欲しい?」
笑顔から一変し、うっとりするような甘い表情と声で、ヘルメスは側近に尋ねた。エルノンはまたか、と言わんばかりに大げさに肩をすくめた。
エルノンは齢十九にして、戦の神アレスの側近テンシェイの師である。愛弟子が苦しんでいるのを救いたいと思うのは当然だった。
「そりゃ……テンシェイはあたしの弟子だし、助けて欲しいと思いますよ」
するとヘルメスはエルノンの手を取り、顔を近づけた。アレスは突然何事かと首を傾げた。
ヘルメスは自分の唇が触れるか触れないかのところで近づけるのを止め、上目遣いでエルノンを見た。
「あなたの仰せのままに」
「冗談はよしてくださいよ」
女官たちならばヘルメスの言葉と表情にすぐさま落とされてしまったことだろうが、今はエルノンが相手である。彼女は主に呆れたように言葉を返し、乱暴に手を払った。
「おや残念」
残念そうに、しかしどこか楽しそうなヘルメスを無視して、エルノンはアレスに向き直った。
「そういうわけで、演奏はしてくれるみたいです」
「ありがとう、ヘルメス、エルノン」
戦の神は礼を告げ、夢の主従に深々と頭を下げた。そして、自身の神殿へと駆け出した。その後を、夢の主従はのんびりと歩いて追った。
テンシェイは仕事のことを思うと、眠れなかった。しかし今起きて仕事をしているところを主に見られれば、また心配させるかもしれない。仕方無く、テンシェイは瞼だけを閉じていた。
――音がする。優しく包み込んでくれるような、柔らかい音。油断すればすぐに深い眠りに落ちてしまいそうだ。テンシェイは思わず、脳裏に優しい笑顔をたたえた母親を思い描いた。
テンシェイが微睡みかけたとき、それはぴたりと止んだ。ぱちりと目が覚めてしまい、無意識に起き上がる。起き上がる際、普段よりも身体が軽いように思えた。頭痛もない。
「大丈夫かい?どこか痛いところは?」
そう言って自分の顔を不安そうに覗き込むのは、師である大天使エルノンであった。突然の師の登場に、テンシェイは戸惑った。
「その様子だと、もう大丈夫なようですね」
聞こえた声の方を向けば、夢の神が寝台の傍の椅子に座っていた。おそらくあの音は、彼の手にある竪琴が奏でていたものだろう。
何故彼らがここにいるのかがわからず、テンシェイは首を傾げた。
「……あの、何で師匠とヘルメス様がいるんですか?」
その問いに、ヘルメスは困ったように眉を下げた。
「どこかの脳筋さんに演奏を頼まれたのですよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます