第5話 智天使ジュンは笑わない
ジュンさん、と呼びかければ、感情の浮かばぬ顔が振り向いた。背の中ほどまで伸びた白髪は、毛先が茶色い。若葉色の瞳に表情はなく、ただ鏡のように水面を映していた。初めて顔を合わせたときはその無表情が何となく怖かったが、今はもう慣れた。
「はい、これ。僕の方に流れてきたんです」
テンシェイは、持ってきた花を差し出す。ジュンはそれを無言で受け取り、籠に戻した。何も知らぬ者ならば、わざわざ物を届けに来てくれた相手に礼も言わず無表情で応対する彼女を訝しがるか、嫌悪感を抱くかもしれない。しかし、彼女の場合はどれだけ無表情でも、言葉を発せなくても仕方が無いのだ。
ただ、智天使はその強大な力と引き換えに主である熾天使に従順となるよう、一切の感情を抜き取られる。ジュンもまた、その一人だった。
ジュンは数百年前に人間の身体を捨てた身だ。長い年月を経ても身体は智天使となった少女のときのままだが、元々茶色かった髪は、感情を奪われたショックで毛先を残して真っ白に染まってしまった。彼女を気味悪がる連中が、「年寄り」だの「化け物」だのと後ろ指をさしていたのを見たことがある。別にテンシェイは、ジュンのことを気味悪いと思っていない。
何故熾天使の僕である筈の智天使が神に仕えているのかは疑問だったが、二か月前に天使に昇格したばかりのテンシェイはその理由を知らなかった。
「花、綺麗ですね」
返答を期待せず、独り言のように言った。
「………………デメテル様が育てているのだから」
しばらくして返ってきた声には、相変わらず感情はなかった。
神殿へ戻り、主の眠る寝室へ向かう。
「天使様、今日もアレス様の始末書を書くんですか?」
「ええ……まあ。でも三枚だけだから、すぐ終わると思います。ほんとは全部自分で書いてもらいたいけど……結果は見えてますから」
果物の入った籠を抱えた神官は、買い出しにでも行ってきたのだろう。
仕事が多いときに率先して補佐に回ってくれたり、天使様とは呼ぶが、変な敬い方をせず今のように他愛の無い話をしてくれる神官たちが、テンシェイは好きだった。
寝室では、寝ぼけ眼の主アレスが寝台に座っていた。
おはようございます朝ですよと声をかけ、壷から寝台の隣に置いてある桶に水を流し入れる。アレスはぼんやりとした手つきで桶の水を掬い、顔にかけた。水の冷たさが効き、彼はすぐに目を覚ました。
「いつもすまない。……さ、修行だ」
素早く着替え、外に出ようとする主の背に、慌てて声をかけた。
「アレス様!始末書はどうなったのです?」
「……む、忘れていた」
「たかだか三枚です。僕も手伝いますから早くやってしまいましょう」
始末書と聞いた途端に難しい顔になる主を、テンシェイは執務室に連行した。
海の神ポセイドンの住まう神殿の執務室を破壊してしまったこと。
太陽の女神アポロンの靴をどこかへ飛ばしてしまったこと。
狩りの女神アルテミスの仕留めた獣を、空腹のあまり焼いて食べてしまったこと。
これらが今回作成する始末書の内容だ。
アポロンは靴がなくなったことをあまり気にしていないようだが、アルテミスは獣の毛皮や牙で装飾品を作ろうとしていたらしく、アレスの食い散らかした獣を見た時はひどく怒っていた。それも想い人である狩人オリオンのための装飾品にする予定だったのだから、怒りも倍となろう。アルテミスの機嫌が直るまで、主が狩りの神の象徴である黄金の矢に追いかけ回されていたのをテンシェイは覚えている。
ポセイドンは当然のことながら執務室を破壊されたことを残念に思っているようだったが、この件に関してはアレスに称賛の声が上がった。
ポセイドンは過去に起こした事件のせいで自らを大罪人と称し、この大地の為に力を尽くすことが償いだと感じている。そこまではいいのだが、朝から晩まで書類に儀式、果ては側近や神官が行うような雑用までにも積極的に手を出し、仕事の虫のような状態をここ数百年続けているという。飲まず食わずでいることもあるようで、これには彼の側近である天使サフィーダも胸を痛め、神官たちも頭を悩ませていた。
他の神々にも心配され、休むように言われているが全く耳を貸さず机にかじりついているのが現状である。そんな彼の執務室を破壊し、仕事を中断させたアレスは皆の思いを成し遂げた英雄のように祭り上げられた。
しかし失敗は失敗である。
テンシェイは主が椅子に座ったのを確認すると、始末書三枚を机に置いた。
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