第4話 智天使と花

 マケー神殿の前で翼を畳み、主のいる執務室へと歩く。廊下の壁についている燭台には火が灯されていた。そして、やらねばと思っていた掃除もいつの間にかされた後で、柱や壁には埃一つもついていなかった。これもこの神殿に仕える神官らが主の仕事に付き合っている自分を気遣ってやってくれたのだろう。

 神が直接従えるのは側近である天使エンジェルだけだが、側近一人だけではそれなりに広い神殿を管理するのは難しい。そのため、天空神殿より派遣された神官たちが各神の神殿へ十数名ずつ常駐していた。

 神官も天使と同じように訓練生から始める。天使と違い物理的な力はさほど重要ではなく、厳しい修行はない。しかしそれと引き換えに膨大な知識が必要となる。神官を志す者たちは、毎日勉学に励むのだ。

 まだ十六の若造である自分を天使様と呼び慕ってくれる彼らに、テンシェイは好感を抱いている。


 執務室にはやはり、テンシェイが出て行くときと同じ姿勢で唸っているアレスがいた。多分、そこから一歩も動いていないのだろう。

 アレスは、扉が開く音と側近の気配で顔を上げた。彼は椅子に座ったままでろくに動いてもいない癖に、修行の後よりも疲弊しきった生気のない顔をしていた。身体を動かすことが好きな主は、何もしないで椅子に座らせられている方が苦痛なのだろう。

 どうだった、と視線で訴えてくる主に、アテナからの伝言を伝えた。一日三枚の始末書を作成するところまでは落ち着いた様子で聞いていたアレスだったが、最後の脅しともいえる言葉に、一度小さく震えた。

 知恵の神アテナは、オリュンポス十二神の頂点に君臨する絶対神ゼウスの息子である。知恵を司る上に絶対神の絶大な力をも受け継ぐアテナは、神々の中でも力の強い部類に入る。約束を破ればどんな仕打ちに遭うかわからない。

「一日三枚ならばできるでしょう。僕もお手伝いしますから」

「何と礼を言ってよいのか……」

 本気で涙を流しそうな主を、テンシェイはやや呆れたような目で見つめた。


 その日は始末書が十枚できたことを収穫とし(それも全てテンシェイが処理したものだが)、二人は早々に眠りについた。


 翌朝、テンシェイは普段通りの時刻に起床した。自分にあてがわれた部屋の小窓からのぞく空は、昇りかけの朝日によって赤く染まっている。朝靄の中にそびえる神殿郡の荘厳さも相まって、神秘的な空間を作り出していた。

 部屋を出て廊下を歩いていると、数人の神官とすれ違った。彼らも朝は早い。互いに挨拶を交わす。

 主が顔を洗うための水を汲むため、神殿の入口に置いてある白い壷を抱え、飛び立った。


 十二神の神殿が建っているギリシャ中心部からさほど遠くない場所に、大きな湖がある。そこは水の精霊ウィグニスが住まうといわれていて、水を絶やすことのない神秘の湖とされている。

 調理、洗濯など生活に必要な水はギリシャのあちこちに巡らされている水路の水を使えばよいのだが、神々の身を清める水は、昔からこの精霊の加護のついた湖の水だと決まっている。故に毎朝、テンシェイたち側近天使は水を汲みに行かねばならなかった。

 湖の傍にはウィグニスを崇める村があり、そこの村人らが日々湖を見張っていた。

 今日も真面目に警備をしている村の番人に挨拶をすると、水を汲みにかかる。

 濁りのない、澄んだ水が壷に音も無く入っていく。ただ揺れる水面を見ているだけなのに、心が洗われるような気がした。

 ふいに視界に、名も知らぬ白い花が映った。急に現れた花に首を傾げている間にも、一輪、もう一輪と色とりどりの花が流れてくる。

「誰だろ……」

 花の流れてくる方向を辿って行くと、果たしてそこには、三対の翼をもつ智天使ケルブの女性が座っていた。彼女は豊穣の女神デメテルの側近、ジュンである。

 ジュンは普段通りの無表情で花の入った籠を水に浸けていた。どうやらテンシェイのもとへ流れてきた花は、あの籠からこぼれたものらしい。

 ジュンへと返すべく、テンシェイは花を拾って立ち上がった。

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