第3話 美しい知恵の神の恐怖

 夜空を一人で飛ぶのは気持ちがいい。夜の闇の中を飛び進んで行くテンシェイの姿は、一筋の光のようであった。

 ソフィア神殿は、マケー神殿からそう遠くない場所に建っている。いつ見ても手入れが行き届いて、静寂で神聖、侵し難い雰囲気を纏うそこと、自分の主の埃っぽく亀裂だらけの神殿を比べた。そして落胆した。


 知恵の神アテナは、微かに人の気配を感じ閉じていた目を開いた。瞼の下から、薄くほのかに輝きを放つような翠の双眸が現れた。瞑想を中断した主を不思議に思った力天使デュナミスフェアトは、静かに問うた。

「どうかされたのですか?」

「戦神の天使エンジェルが訪ねてきたようです。迎えに行きましょうか」

 アテナは側近を見て優しく微笑んだ。

 男性とも、女性ともつかぬ中性的な貌をもつ彼は、美の女神アプロディテに劣らず多くの者を魅了してきた。それに加え慈悲深いと噂である。三百十三年の時を生きてきた彼は、十代半ばの少年の姿をしているが故に少女たちの憧れとなっていた。

 フェアトは同性であるのを忘れ、主の表情に見とれそうになるのをこらえて頷いた。


 ソフィア神殿の前に二つの影を見つけたテンシェイは、彼らのもとへゆっくりと降りた。勿論影というのは、一つは知恵の神アテナ、そしてその傍らに立つ二つ目は側近の力天使フェアトである。

「こんな夜にどうしたのです?」

 首を傾げる知恵の神に、テンシェイは淡々と始末書がほとんど進んでいないことを告げた。

 アテナは中性的な美少年で慈悲深い、と民の間では噂されているが、実際はそうではない。彼は基本的に穏やかな物腰だが、その言動には荒っぽいところがある。側近であるフェアトに無茶な任務を押し付けることも多く、彼は毎日この美しい主に振り回されていた。

 聡明な知恵の神は、戦の神の始末書を前にして頭を抱えるだけという行動が予測できる範囲のものであったらしく、くすりと笑みを漏らした。

「ええ、わかっていました。あのアレスが一気に一年分の報告書を終えられるわけがありませんから」

 次はどのような無茶振りを言い渡されるのか。テンシェイは恐怖のあまり息をするのも忘れ、アテナの答えを待った。

 アテナは少女たちが見惚れるような微笑みをテンシェイに向けた。

「アレスに伝えてください。一日三枚始末書を作成し、それを私に届けるように、と」

 告げられた条件は、まだ達成できるものだ。一日三枚ならば、アレスも少しはやる気を起こすかもしれない。主が一人で始末書を片付けるようになれば、自分の仕事が思い切りできる。やはり慈悲深いという噂は真なのかと思った。

 知恵の神はまだ続ける。

「ただし、これもできないようならば覚悟しておけ……と念を押してくださいね」

 そのときの微笑みが脅しているように見えたのは、テンシェイの気のせいではないだろう。返事をした声が震えた。

 用件は始末書の状況をアテナに報告するだけで、これ以上の長居は無用。知恵の神に何かまた無茶なことを言われぬうちに早々に立ち去ることにした。

 では、と翼を広げて飛び立とうとしたとき、フェアトがテンシェイに素早く駆け寄り耳打ちした。

「……君も、大変だね」

 先輩の言葉に何度も頷きたい気持ちだった。フェアトの方も主に苦労している仲間なのだ。


 夜空へ飛び去っていくテンシェイの姿を見上げながら、後ろに控える側近の方を振り向いた。

「先程はテンシェイに何を言っていたのです?」

「い、いえ、アテナ様のお気になさることではありません」

 少し慌てた側近の返答も気にかからなかったらしいアテナは、瞑想を再開すべく、神殿の中へと入っていった。

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