第2話 手のかかる主は困りもの

 こうして始末書を書かされるのは今に始まったことではない。修行をすれば己の破壊力のせいで何かしら物を壊す主には、常にこういった始末書が付き物だった。もはや始末書を書くことが日課になってしまっている主に呆れを通り越して感心したくなる。しかし流石は陰で【脳筋】と称される戦の神アレス。頭で考えるよりも身体が動き出すのが先になる主は一日かけても一枚も始末書が書けないことは珍しくなく、溜まりに溜まった紙の束がこの執務室の隅に山積みになっていた。テンシェイがアレスの側近となる前の始末書もある。

 知恵の神アテナには穏やかな物言いで過去一年分の始末書を明日までに全て仕上げるように言われ、鍛冶の神ヘパイストスに怒りと呆れに満ちた視線を向けられては、流石のアレスもこの執務室から出て修行をする気にはなれなかった。

 もとより、アレスは己に課せられた役目を放棄するような者ではない。義務は忠実に果たす(始末書の作成は時間がかかり過ぎているために期限を過ぎてしまうのである)、人当たりの良い好青年である。テンシェイも主のその誠実さ、強さは尊敬している。

 ただ、修行で物を毎回破壊するのは勘弁してほしい。

 いまだに始末書を書き終えられずにいる主を、横目で見た。

「これ、僕の始末書じゃないんですけど」

「わかっている……俺は机に向かうのにどうも向いていない」

「言い訳は結構です」

 主は早く身体を動かしたくて仕方ないといった体だった。だが、今回ばかりは逃がさない。自分だって仕事が山積みなのだ、きっちりやってもらわねば困る。主とはいえ他人の尻拭いをしてやるつもりはない。

 朝のきらきらとした眩しい日差しが、次第に低く、穏やかなそれへと変わっていく。テンシェイは激痛を堪えるような顔でペンを走らせ続けた。


 朝から紙束と向き合っていた二人を照らす太陽は、いつの間にか沈んでいた。


 テンシェイは不満げに眉を寄せた。

 自分の前には、サイン済みの五十枚の始末書。隣の主の前には、白紙が一枚。主は頭を抱えるばかりで、一向に進んでいなかった。自分の方は一日中ペンを握っていたせいで指が痛いというのに。紙一枚に弱りきった戦神の姿が視界の端に映る。

 この様子では、到底今日中に仕上げることは不可能である。脳筋に無理難題を押し付けた張本人……知恵の神アテナに一度報告した方が良さそうだ。

 テンシェイが立ち上がったのを、アレスは不安に揺れた瞳で見上げた。なんとも頼りない。この方は本当に神なのだろうかと時々不安になる。

「ご安心ください、アテナ様のもとへ報告しに行くだけです。この状況を伝えなきゃいけないですし」

「ま、待て。俺がアテナに謝って期間を延ばしてもらうよう頼むから……」

「結構です」

 自分に続いて立ち上がろうとした主を一蹴すると、テンシェイは知恵の神アテナの住まうソフィア神殿へと向かうべく、執務室を後にした。


 戦神の神殿――マケー神殿の外は、夜の冷たい空気が漂っていた。数多の星々が月と共に優しくテンシェイを照らす。

 意識を背に生える翼に集中させる。自分の意識を全て翼に行かせると、ふっと身体の力を抜いた。

 神殿を背にして、畳まれていた純白の翼が大きく広がる。これは、テンシェイが人間を捨てた証。

 翼をはためかせ、夜空へ一人の天使エンジェルが舞い上がった。

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