神サマの日常

淡井将宗

第1話 憧れはその通りとは限らない

 覚えている。飛んできた巨大な岩を拳一つで粉々に打ち砕いたあの男を。泥と汗にまみれた古い訓練着を纏った、あの男の背を。岩に拳を叩き込む時の鋭い気合を。

 あの時は、あんな化け物のような人間が存在するものかとただただ驚くことしかできなかった。

 今になってようやくわかった。

 やはりあの男は人間などではなかったのだ。


 これは、まだ人間の傍らに神々が存在していた、遠い過去の物語。

 ギリシャの中心部にオリュンポス十二神が住まう神殿が建ち、そこに君臨する神を人々は崇め、畏れ敬った。

 当時、オリュンポスの神々は自身の側近として、天使エンジェルを一人従えていた。天使とは厳しい訓練に耐え抜いた人間が天空神ウラノスの加護を受けることでなることができる種族だ。天空神の加護を受けた者は、人間よりも遥かに長い命と永遠の若々しい肉体を約束される。故に、純粋に神に仕えたいと願う者、寿命の延長と若い肉体に目がくらんだ者の両方が、天使となるべく厳しい修行に打ち込んでいた。


 テンシェイ少年もまた、天使訓練生から昇格したばかりの新米天使である。

 ギリシャ辺境の村で育った彼は、幼い頃から寝物語に聞かせられていたオリュンポス十二神の物語の影響で、神々に憧れを抱いていた。天使になり神に仕えたいと思うのは自然の成り行きといえた。

 十歳の誕生日を迎えたテンシェイは、天使となるべく大天使エンジェリアエルノンに師事し、修行に励んだ。そして六年の後、やっと天使に昇格することができたのだ。

 あの勇ましい神々に仕えることができると思うと、胸が弾み、なかなか寝付けなかったのを覚えている。


 しかし、現実はそこまで輝いたものではなかった。


 自分の隣で頭を抱えている男を殴り飛ばしたいと思った。

 このギリシャの温暖な空気に包まれながら始末書を書かされるのは非常に気分が悪い。それも自分の始末書ではない、この隣の男の始末書である。あまりにもその枚数が多いので、側近である自分も巻き込まれたのだ。

 石造りの神殿の執務室は、静寂な空気が流れる。

 獅子のたてがみを思わせる暗い茶の髪に、机に広げた始末書を射抜かんばかりに見つめる深緑の双眸。低い唸り声を上げる訓練着姿の彼は、さながら獲物を捉えた猛獣のようであった。

「テンシェイ。どのくらい進んだ」

「五枚終わりました。……早く書いてくださいね」

 修行に熱が入りすぎて、絶対神ゼウスの像の右腕を砕いてしまったこと。

 炉の女神ヘスティアの火遊びに付き合っていて、豊穣の女神デメテルの所有する植物園の一部を焼いてしまったこと。

 夢の神ヘルメスの竪琴を真っ二つに割ってしまったこと。

 知恵の神アテナの神殿の柱を二本粉砕してしまったこと。

 鍛冶の神ヘパイストスの工房の壁に穴を開けてしまったこと。

 今テンシェイが書いたのはこれらの始末書だ。側近が五枚も書き終えたというのに、主の方はまだ一枚も進んでいないようだった。書類関係が苦手な主らしいが、今はそうも言っていられない。自分だって、まだ神殿の掃除が途中だったのだ。早くこれを終わらせて掃除を再開したい。

「いくら戦の神だからって、書類作業を疎かにしないでください」

「む……わかっている」

 テンシェイが仕えるのは、戦の神アレス。底知れぬ破壊の力を秘めた拳を繰り出す、獅子のような男。若い男の容姿をしているが、これで五百二十年も生きているのだから神というのは恐ろしい。三百年前、オリュンポス十二神と異国の神々が争ったときは、鬼神の如く荒れ狂い、十二神を勝利に導く大きな役割を果たしたそうだ。物理的な力では十二神の頂点に立つのではないか、とテンシェイは思っている。

 しかし今は、主がどれだけ強い力を持っていようと、今目の前にある始末書を片付けられないのならば意味がない。

「……まあ、アレス様が始末書を書いたところでまた物を壊すのは目に見えてるんですけどね」

 何回目かもわからぬテンシェイのため息が、石の壁に冷たく跳ね返った。

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