第44話 知らなかった事実
目の前で立ち上る、甘い匂い。優しく、心が満たされるような。遠い昔に母が作ってくれた焼き菓子の匂いを思い出した。
だが、口から出てきたのは、気持ちとは反対の言葉。
「げ~! なんでアップルパイ? 俺、甘いもの嫌いなんだよ!」
口を尖らせ言った途端、ぱちん、と額を指で弾かれた。
「いてぇっ!」
「子供は好き嫌いしないの! 人がせっかく作ってあげたんだから、つべこべ言わずに食べなさい」
「子供扱いすんな!」
「もっと背が伸びて、私を追い抜いたら大人扱いしてあげる」
人が一番気にしていることをずけずけと言ってくる、意地の悪い年上の女をきっと睨みつけた。だが、相手は勝ち誇ったようにふふんと鼻先で笑う。肩口で灰色の髪が揺れる。本当に嫌な女だ。
アーシェ。それが彼女の名前。
「ほら、エレナは食べてるわよ」
言われて隣に座る少女を見やれば、フォークを使って黙々とアップルパイを口に運んでいる。顔に纏わりつく長い黒髪が邪魔そうだったので、そっと耳にかけてやった。
「エレナ、うまいか?」
尋ねると少女はこくりと頷く。
「そう、よかった。今度エレナにも作り方教えてあげるね」
アーシェがそんなエレナを見て、微笑んだ。
その笑顔にどきりとする。
ずけずけと遠慮なく物を言い、村を襲った魔物を一瞬でなぎ倒せるくらい強くて、すぐに手が出る凶暴な女。
なのに、どうしてこんなにも優しく笑えるんだろう。
なんとなく気恥ずかしくなって、隣の少女へと視線を逸らした。
無言でもごもごと口を動かす彼女の顔に表情はない。だが、昔に比べれば、ほんの僅かに感情が滲んでいるように見えるのは、ただの自分の願望か。
いつか、エレナも笑えるようになるんじゃないだろうか。
そんな期待を抱くようになったのは、アーシェと暮らし始めてからだ。
アーシェが来てから、エレナは変わった。相変わらず感情に乏しいものの、自分から進んで外へ出たり、何かに興味を示すことが多くなった。表情がないだけで、子供らしい行動が目立つようになったのだ。以前は何事にも無感動で、自ら行動を起こすことはなく、家に引きこもり、まるでお人形のようにただそこにいるだけだったのに。
アーシェがいれば、きっと何もかも上手くいく。
エレナの病気も治って、いつの日か、3人で笑いあえる日がきっと来る。
そんな確信めいたものが芽生えつつあった。
フォークで自分の皿に取り分けられたアップルパイを一口取ると、口に運んだ。
口の中で広がる、絶妙な甘酸っぱさと、咀嚼の度、胸の中でじわじわと広がる、温かさ。
「おいしいでしょ? エリック?」
「まずくはない」
「生意気っ」
アーシェがまた、ぱちんと自分の額を弾いた。でも、その顔は笑っていた。自分も笑い返す。
ああ、これが幸せなんだ。
母が死んで以来、忘れてしまっていたその味を、しっかりと噛み締めた。
……多分、この時知った幸せの甘さが、その後に味わうことになった絶望を、余計に辛く、耐えがたいものへと変えてしまったのだ。
もう、あの頃のように何の屈託もなく笑う方法が、自分にはわからなくなってしまった。
エレナがそうだったように。
(エレナ――――)
笑みを形作る色づいた唇。柔らかそうな白い頬。
細められた黒いまつげの中で煌く、薄紅色の瞳。
いつか見れると信じていた、彼女の笑顔。
その笑顔が、アーシェのものと重なり――――
炎に包まれた。
がんっ!
頭の中に浮かんだ映像を掻き消そうとするかのように、エリックは目の前のテーブルを拳で思いきり叩いた。
大きなため息と共に力を抜き、椅子の背にもたれかかる。懐に手を突っ込み、細い鎖の付いたガラス玉を取り出した。苛立ったり不安になったりすると、つい手が伸びてしまう、大切なお守り。だが、心を落ち着けようと手にしたそれを見て、エリックは表情を険しくした。
ガラス玉の中でふわふわと浮かぶ三角形の指針は、先刻と違う向きを指し示していた。その方向は、明らかに彼女の部屋ではなく、宿の外。
「こんな時間に外に出たのか……?」
舌打ちすると、エリックはテーブルの上に置かれた、鞘に収まった剣を手に取り、部屋を飛び出した。
ロビンと共に、宿の裏手にある空き地へと戻ったリシェルは、落とした
真夜中とはいえ、幸い月が明るく、ランタンの灯りがあれば十分に視界を確保できた。魔法でランタン以上の明るい光を生み出すこともできたが、
今日パリスと魔法の練習をしていたあたりで、身を屈めて丁寧に地面を確認していく。手のひら程の大きさの徽章には、小さな宝石がいくつも埋め込まれているから、光を当てれば輝きですぐにわかるはずだ。
「あ! ありましたよ! これじゃないですか?」
ほどなくして、空き地の隅にぽつんと立つ納屋の近くでロビンが上げた声に、リシェルは急いで彼に駆け寄った。
ロビンが差し出した手のひらには、装飾を施された星型の徽章があった。
「これです!」
リシェルは徽章を受け取ると、ほっと息をついた。
「見つかってよかったですね」
「はい、ロビンさん。本当にありがとうございました」
安堵と感謝から、リシェルは徽章を懐にしまうと、笑顔で礼を言った。彼がいなかったら、あのままエリックに頼みに行く決心がつかず、一人で探す勇気も持てないまま、結局探しに来れなかったかもしれない。
「付き合わせてしまってごめんなさい。これから見回りなんですよね?」
ロビンは答えず、じっとリシェルを見つめてくる。
「あの……?」
「やっぱり可愛いな……」
「え?」
リシェルが首を傾げると、
「そりゃあ、あの男も夢中になるよなぁ」
ロビンが口の端を吊り上げた。さっきまでの人のよさそうな笑顔とは真逆の表情に、リシェルの胸の中でじわりと不安が生まれる。
「あの男って……?」
「あんたの師匠」
ロビンが一歩踏み出し、手を伸ばしてきた。その手が頬に触れそうになり、反射的にリシェルは後退した。だが、すぐ後ろにあった納屋の壁にどんっとぶつかる。
ロビンは手を降ろしたものの、不安げなリシェルの様子に、笑みを深くした。
「俺、法院で働いている魔道士に知り合いがいてさ。聞いたんだ。あんた、大魔道士様の愛人なんだって?」
「ち、違います!」
リシェルは必死に首を振って否定する。怖い。さっきまでの彼とは表情も声の調子も、まるで別人だ。
「違うってことないだろう? 出立の時だって、これ見よがしに抱き合ってたじゃないか。聞けば、子供の頃から可愛がられてるっていうし……顔も可愛いけど、さぞいい体してるんだろうな?」
ロビンがリシェルの全身に、舐めるように視線を這わせた。ねっとりとした、絡みつくようなそれに、リシェルは身を強張らせる。
「あんただって、大魔道士様の相手ばっかりじゃ飽きるだろ? ちょっと俺の相手もしてくれないか? いいだろ?」
ロビンはがしりとリシェルの腕を掴むと、納屋の入り口へと向かう。その有無を言わさぬ力強さに、リシェルはランタンを落とした。地面に当たって火が消える。
「は、離して下さい!」
リシェルは必死で振りほどこうと暴れたが、相手は男で、しかも日頃訓練を重ねている屈強な兵士だ。その場に踏みとどまることすらできずに、ずるずると引きずられていく。
そんなリシェルを、ロビンは嘲笑いながら言った。
「魔道士なら魔法でなんとかしたらどうだい? まあ、できないんだろうけど」
「……!」
「知り合いの魔道士が酔った時にぽろっと零したんだ。シグルト様があんな才能のない奴を弟子にするなんて……って。で、王子が襲われた時に気付いた。あんた、魔法が使えないんだろう?」
(ばれてる……!)
納屋の中は、いくつか壊れた家具と木箱があるだけで、ほとんど使われていないようだった。ガラスの割れたままになっている窓から差し込む月明かりで、舞い上がる埃がきらきらと浮かび上がる。ロビンはリシェルを、床の上へ乱暴に放り投げた。古びた木の床が衝撃に軋む。倒れたリシェルが起き上がろうとする前に、ロビンが上から覆いかぶさってくる。
「い、や……」
月明かりを背に、真っ黒な影となって圧し掛かってくるその身体は、昼間見ていた時よりはるかに大きく、強靭に見えた。
「大魔道士様とはふかふかの寝台でやってるんだろうけど、たまにはこういうとこで違う男と……ってのも刺激的でいいだろ?」
彼が自分に何をしようとしているのか。同世代の娘たちと比べればそうした知識に乏しいリシェルにも、はっきりとわかった。
「助っ――――!」
助けを求めて上げようとした声は、ロビンの大きな手によって封じ込められた。
「おっと、声は出すなよ。見つかるとやばいからな」
じたばたと滅茶苦茶に手足を動かし、なんとかロビンを押しのけようとする。だが、彼の身体はびくともしない。
「暴れるな。死にたいのか?」
低く抑えられた、苛立ったような声に、リシェルは思わず動きを止めた。
「別に俺はどっちだっていい。あんたの師匠から大切なものを何か一つでも奪えるなら、なんだっていいんだ。ただ、あんたに恨みはないからな。殺すよりかはこっちの方がまだ良心が痛まないってだけの話だからさ」
淡々とした口調は彼が本気であることを感じさせた。彼の腰に帯びた剣が視界の隅に入り、恐怖がリシェルの身体から抵抗する意志を奪っていく。
「そうそう、大人しくしてれば優しくしてやるし、すぐに済む」
ロビンは満足気に言うと、空いている方の手でリシェルの胸から足に向かって、身体の線を確かめるように手を這わせた。足まで降りた手が、ローブの裾からするりと入り込んでくる。大きな男の手の感触が素肌に触れ、リシェルは思わずびくりと身を震わせた。
「へぇ……結構楽しめそうだな」
ロビンは楽しげに言うと、その滑らかさを堪能するように、リシェルの足を撫でまわした。
(先生! 助けて!)
無駄だと知りながらも心の中で必死で助けを求める。シグルトはリシェルがこういう目に合うのではないかと、心配してくれていた。なのに、自分はたいして警戒もせず、よく知りもしない人間を信じてしまった。どうして師の言うことを聞かなかったのだろう。初めて任務へ来たことを後悔した。
震えながら目を閉じ、涙を零すと、上から非情な声が降ってくる。
「恨むんなら師匠を恨むんだな」
ロビンの手が無遠慮にローブの裾をたくし上げて、さらに上へと滑り――――
「……何をしている?」
突然の背後からの声に、ロビンは慌てて振り返った。
「エ、エリックさん……」
月灯りに浮かび上がった、戸口に立つ騎士の姿に、顔を引きつらせる。
「何をしている、と聞いているんだが?」
「えっと、あの……これは……その……」
ロビンは口を押さえつけたまま組み敷いたリシェルを見やり、動揺したように視線を泳がせた後、エリックに向かって、ぎこちなくへらっと笑って見せた。
「ど、どうです? エリックさんも一緒に……」
ゾクリ、と――――思わず背筋が冷える程の、剣先のような鋭さがエリックの瞳に宿ったのを見て、ロビンは答えを間違ったことを知った。
「そいつを離せ」
命令にロビンの手が離れ、リシェルは身を起こし、ずるずると後退して、ロビンから距離を取った。
「お前はこの場で除名する。今すぐ消えろ」
「ゆる……して下さい……」
ロビンは床に跪いたまま、縋るようにエリックを見上げた。
「エリックさんも知ってますよね? 俺、もともとバームの出身で……シグルトに先の戦争で故郷を焼き払われたんです。家族も、友達も、恋人も……みんな、死にました……全部、あいつのせいだ……憎いんです、あいつが……だから、大切なものを奪われる気持ちを、あいつに少しでも味あわせてやりたくて、だから……」
「復讐がしたいなら、本人に直接やれ」
「それ、は……」
言い淀む部下に、エリックは冷たく告げた。
「……もう一度だけ言う。消えろ」
取りつく島もない上官の言葉に、ロビンの顔が怒りで歪んだ。
「なんだよっ! 噂で聞いた。あんた、カロンの出身なんだろう? カロンも俺の故郷と同じ……シグルトが焼き払った。あんただって俺の気持ち、わかるだろ? シグルトが憎くないのか?」
(え――――?)
ロビンの言葉に、リシェルは目を見開いた。
「……最後だ。今すぐ消えろ。さもなければ……」
エリックの手が腰に下げられた剣の柄を握る。それを見て、ロビンは顔色を変えた。慌てて立ちあがると彼の横をすり抜けて、逃げるように外へと駆け出て行った。
やがて、ロビンの足音が消え去ると、リシェルとエリックだけがその場に残された。
「……今の、ほんと、ですか……?」
リシェルは床に座り込んだまま、擦れた声でエリック問う。恐怖が去り、今リシェルを支配しているのは、激しい混乱だった。
「先生が……カロンを焼き払ったって……だから、エリックさんは先生のことを……?」
「……6年前、カロンに潜んでいた反乱軍を討伐するという名目で、国王軍が派遣された時、法院からも魔道士部隊が同行した。反乱軍側にも魔道士がいたからな。奴らは魔法で村に火の雨を降らせ、奇襲攻撃を仕掛けた。反乱軍と、無関係だった大勢の村人を区別することなく、奴らはすべてを焼き尽くした……」
エリックの感情の籠もらない声が、過去に起こった事実の悲惨さと、彼の憎しみの深さを想像させた。
「それを指揮していたのが、当時オルアン導師の弟子だったシグルト……あいつだ」
「そんな……! 嘘……!」
突きつけられた事実を、リシェルは激しく首を振って否定した。
シグルトがカロンを焼き払った。リシェルの家族がいたかもしれない、カロンの村を。
その意味することは……
(先生が、殺した……? 私の、家族を……?)
信じたくなかった。認めたくなかった。何かの間違いだ。
リシェルの様子に、エリックの目が冷ややかになった。声にも苛立たしさが滲む。
「お前、今まで自分の頭でものを考えたことがあるのか? あいつが国王軍側の魔道士として、あの戦いに参戦してたことくらいは知ってたんだろ? なら、あいつがカロンで何をしたかくらい、大体想像がつくだろうに。まさかあの大魔道士様が、裏方で怪我した兵士に治癒魔法をかけるだけの役目だったとでも思ってたのか?」
……そうだ。シグルトはカロンの戦いに関わっていたからこそ、あの雪山で自分を拾ってくれた。でも、どういう関わり方をしていたかなんて、深く考えもしなかった。
「お前が慕ってるあの男はな、戦場に立つ者なら知らない者はいない。表情ひとつ変えずに、情け容赦なく人の命を奪う、“紫眼の悪魔”なんだよ……!」
エリックの言葉が、リシェルの心を突き刺す。自分の二つ名のことを話していた時のシグルトの悲しそうな顔が浮かぶ。あの時、師は一体どんな気持ちで自分にその話をしていたのだろう。
カロンでシグルトがしたことが事実なら……リシェルが孤児になってしまったこと、記憶を失ってしまったことは、シグルトに責任があると言える。
もし、事実なら……否定したい、と思いながらも、リシェルはそれは事実なのだと感じていた。
リシェル、君は私のために何かしようなんて、そんなことは考えなくていい――――
任務への出立の前、シグルトに言われた言葉が蘇る。あれは、リシェルへの罪悪感から来た言葉だったのではないか。
「……お前、記憶を取り戻したいって言ってたな? なら、自分で事実を確かめろ。それから……何を信じるのか、自分で決めろ」
エリックが俯き、床にへたり込んだままのリシェルの傍まで歩み寄ると、手を差し出してきた。
「……戻るぞ。もうこんな夜更けにふらふら出歩いたりするな。少しは学習しろ」
リシェルは放心状態のまま、その手に縋り、よろよろと立ちあがる。
(先生……先生が昔の話をしたがらなかったのは……カロンでしたことを私に隠しておきたかったから……? ずっと私を騙してた……?)
頭の中を、シグルトへの問いかけだけがぐるぐると廻る。
混乱した想いのまま、エリックについて行き、宿の前まで戻った。
「部屋まで一人で戻れるか?」
「はい……あの、ありがとうございました……」
リシェルは頷き、どうにか礼だけは忘れずに言うが、声は小さく擦れていた。じっと自分を見つめるエリックから逃れるように、リシェルは足早に宿の扉をくぐった。
エリックはリシェルの姿が宿の中へと消えると、背後を振り返る。
「……何の用だ?」
そこに立っていたのは、薄汚れたローブを纏った、ノーグだった。
「エリック、随分優しいんだな」
「……見てたのか」
不快げなエリックに、ノーグは口の端を吊り上げた。
「だが、助けるのがちょっと早かったな。もうちょっと待ってからの方がよかった。あのままあの男の好きにさせて、その後で傷ついたあの娘に優しくしてやれば、ころっとお前に
「ふざけるなっ!」
怒気と共にエリックがノーグの胸倉を掴み上げた。間近で睨みつけてくる黒い瞳を、ノーグは冷静に見返す。
「……冗談だ。お前が来るのが後少し遅かったら、あの男、命はなかっただろうな」
エリックが現れる寸前、放たれた強烈な殺気。あと一秒でもエリックが現れるのが遅れていたら、あのロビンとかいう男は死体になっていたはずだ。そっと気配を探れば、宿のすぐ近くに、今は殺気を消し、ただ静かに佇み対象を見守るだけの、人ならざるものの存在を感じた。
「エリック、迷うな。お前がすべきことは何だ? シグルトへの復讐だろう?」
ノーグは聞き分けのない子供を宥めるように、エリックに言い聞かす。
「辛いだろうが認めるんだ。あれはもうお前の知ってるエレナじゃない。シグルトが僅かばかりの良心だか罪悪感だかで作った、慰み者の身代り人形――――」
「やめろっ!」
エリックは突き放すようにノーグの胸倉を離した。
「まだ……わからないだろ……」
続いて肩を落とし、力なく発した声は、ひどく頼りないものだった。
「そうだな。アーシェならなんとかしてくれるかもな」
エリックはきっとノーグを睨みつけた。そのまま何も言わず、もう顔も見たくないと言わんばかりに、宿の中へと身を翻した。
残されたノーグはそれを引き止めるでもなく見送った後、空が翳ったのを感じて、ふと顔を上げた。頭上で、銀色に輝く明るい月に、雲が差しかかっていた。
優しい風に、ふわふわと揺れる花。
その薄紅色の花びらに、そっと指先で触れてみる。
「可愛い花でしょう? 気に入りました?」
声に振り返れば、白いローブが目に入った。しゃがみ込んだまま視線を上げれば、優しく細められた紫の瞳と目が合う。
頷くと、ますますその目が細くなった。
「そうですか。私もこの花、とても好きですよ」
シグルト。それがこの男の人の名前。
何も思い出せない自分を、この家へ連れて来てくれて、とても優しくしてくれる。
綺麗な服を着せてくれて、勉強を教えてくれて、怖い夢を見て震えていると、そっと抱きしめて「大丈夫ですよ」と言ってくれる……優しい人。
使用人のロナさんが言うには、とっても偉い魔道士様なんだそうだ。
どうしてそんな偉い人が、自分にこんなにも親切にしてくれるのか。
わからなかった。この人を信じてもいいのだろうか。
不安な気持ちから、目を逸らす。
「リシェル」
声に、再び振り返る。
「この花の名前なんですが……君の名前、リシェルにしましょうか」
「私の、名前……」
目をぱちくりしていると、目の前の魔道士様も自分の隣に腰を落としてしゃがんだ。一気に目線の高さが近くなり、紫の瞳がじっと覗き込んできた。
「リシェル……」
口に出してみる。可愛らしくて、なぜかとても懐かしい感じがする響き。
「嫌ですか?」
問われて首を振る。
「リシェル……うん、君にぴったりです」
顔前で微笑まれ、思わず微笑み返していた。
ただそれだけのことなのに、目の前の優しいその人は目を見張ると、
「ああ、よかった……初めて笑ってくれましたね」
心から嬉しそうに笑った。
それから、髪を撫でてくれた。
まるで触れれば散る儚い花を撫でるかのように、そっと。
それが、とても心地よかった。
優しい、大好きな、先生。
誰よりも信じて、感謝してきた、先生。
愛してる、と真剣に言ってくれた先生。
先生、あの日、本当にあなたが私から何もかも奪ったの――――?
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