第43話 落とし物

「は~い、どうぞ~」


 ラティール騎士団が宿泊する宿の中で、最も広く、居心地の良い部屋。ソファの背に、広げた両腕と頭をもたれ、天井をぼんやり見上げていたクライルは、扉を叩く音に気の抜け切った声で応じた。


「報告があります」


 入って来たのは、エリックだった。変わらず天井を見上げたままの主の傍まで来ると、姿勢を正す。


「あの覆面の男の死体が、墓地から近い路地裏で発見されました」


「ふ~ん。誰がったの?」


 部下の報告にも驚きを見せず、クライルはさして興味もない風に問う。


「わかりません。誰かと争った形跡はありましたが、死亡原因は呪術によるものでした。おそらく命令者の名を口にしようとして、死の呪いが発動したかと思われます」


「なるほど。口封じされちゃったわけだ。可哀想に。こっちは首謀者が誰かなんてわかってるのにねぇ」


 くすりと笑いを零す主を、エリックは険しい顔で諌めた。


「……王子、もう勝手な行動は控えて下さい。今回は間に合ったからよかったものの、そうでなかったら、あなたの命はなかった」


「うん、ごめんごめん」


 反省の欠片も感じさせない、軽い口調で言いながら、クライルは頭を持ち上げ、初めて部下の顔を見た。


「でもまあ、よかったじゃん。おかげで君、リシェルちゃんの前でいいとこ見せれたわけだし。今なら落とせるかもよ?」


「……」


「あれ、自信ないの? 大丈夫だって~、リシェルちゃんも君のこと気にしてるっぽいし。よく君のこと見てるよ。気付いてるでしょ? 絶対いけるって。なんなら口説き方手ほどきしようか?」


「なんで俺が――――」


「君だってまんざらじゃないんでしょ? 気付かれないように、しょっちゅうリシェルちゃんのこと見てるじゃない。僕の目はごまかせないよ~」


「……何を勘違いされていらっしゃるのか知りませんが、彼女もあなたと同じく、我々の“監視”対象だから注意してるだけです」


 うんざりした様子を見せる部下に、なおもクライルは食い下がる。


「そお? でも君、シグルトのことすっごい目で睨んでたよ? あれ、嫉妬じゃないの?」


「……別に」


 シグルトの名前に、エリックは目を逸らした。その名を聞いた瞬間に、自分の瞳に隠しきれない憎悪が浮かぶことを彼は自覚していた。


「本当かなぁ? あ、そういえばリシェルちゃん、王都に戻ったら、シグルトと結婚するみたいだよ?」


「……!」


 はっとして再び主に視線を戻すと、そこにあったのは面白がるようなにやついた笑顔だった。


「あ、動揺した」


「……」


 エリックは必死でいつもの無表情に顔を戻した。

 ……本当に、この王子には苛立たされる。


「まあ、嫉妬なのか何なのか、理由は知らないけど……殺したいんでしょ? シグルトを」


 雑談でもするように、さらりと不穏なことを口にする。こういう妙に鋭い所も、エリックは苦手だった。


「わかるよ。僕にもいるからね、そういう奴」


 薄く笑ってから、クライルはソファの背もたれから身を起こす。


「ねえ、君がシグルトを憎むのは、君がカロンの出身だから?」


 確信した上での問いだったのか、エリックの返答を待たずに、先を続ける。


「リシェルちゃんも、カロンの生き残りらしいね。でもあの子、シグルトがカロンで何したか知らないんでしょ? 記憶喪失って言ってたし。何にも知らないリシェルちゃんに、さも命の恩人みたいに思わせて何年も騙したあげく、善人面して言い寄る……いやあ、悪い奴だねぇ、シグルト。そりゃあ、エリックが嫌うのも納得だよ~」


「……」


 エリックは、無意識に後ろで組んだ手をきつく握り締めていた。表情こそ変わらないものの、その周囲の空気が冷たく、刃物のような鋭さを持ったものに変化する。


「……エリックとリシェルちゃんてさ~」


 クライルは足を組み、その上に片手で頬杖をつくと、傍に立つ黒髪の美貌の部下を興味深げに見つめた。


「よく見るとちょっと似てるよね。黒髪もそうだけど、目鼻立ちとかの半端ない美形っぷりが……」


「………」


「僕と姉上なんて、腹違いとはいえ実の姉弟なのに、瞳の色以外は全然似てないでしょ?」


 ふっと、珍しくため息を漏らすと、淋しげに小さく呟く。 


「もっと外見が似てればよかったのにな……そしたら、僕だって――――」


 その呟きをかき消すように、突然、がちゃりと音がして、部屋の扉が開いた。


「王子、襲われたらしいが無事か?」


「お~ノーグじゃん! 久しぶり~。君もこっち来てたの?」


 クライルはさっと表情をいつもの明るいものに変えると、現れた男に手を振った。


「さっき着いた」


 ノーグと呼ばれた男はクライルの向かいのソファに、無遠慮にどかっと腰を下ろした。背で一つに束ねられた長い暗緑色の髪が揺れ、薄汚れたローブがソファの上に広がる。


「僕はこの通り、無事だよ~」


 クライルは無傷であることを示すかのように、両手を大げさに広げて見せた。おどけた様子の王子を、男は彼のものよりはるかに濃く、深い緑の瞳で睨みつける。その左目は黒い眼帯で覆われ、睨んでいるのは右目だけだったが、気の弱い者ならば、身が竦んで動けなくなる程の凄まじい眼力だった。


「王子、また勝手な行動を取ったらしいな。命を狙われている自覚はあるのか? エリックから極力離れるなと言ったはずだ。今後もこちらの指示を無視するようなら、あんたとの協力関係は考えさせてもらう」


「ごめんごめん! 怒らないでよ~。だってどうしてもリシェルちゃんと二人きりでデートしたかったんだもん」


「……」


「も~謝ってるじゃん! 許してよ~! ほら、言われた通り、ちゃ~んとリシェルちゃんを今回の任務デートに誘ったしさ~。討伐する盗賊団に魔道士がいるなんて嘘までついてさ、僕はすっごく良心が痛んだんだからね~」


 自らの睨みと脅しに怯んだ様子も見せない王子に、反省を求めても無駄と悟ったのか、ノーグは大きく息を吐くと、話題を変えた。


「まさか、シグルトがあの娘を寄こすとは思わなかったな」


 解せない、という表情で続ける。


「奴が王子の要請を断って、法院内部の奴への不満が噴出、内部で揉めてくれればいい。それくらいに思ってたんだが……」


「でもシグルト、あれは相当キレてたよ~。出立の日、目が全然笑ってなくてさ~、あの場にリシェルちゃんがいなかったら、僕に大怪我させて討伐中止にさせるくらいのことは多分やってたよ、あいつ」


 クライルはにやりと笑った。

 

「で、リシェルちゃんが来たら、任務の混乱で行方不明になったってことにして、攫っちゃうんでしょ? 悪い奴らだよね~君たちも」


 言いながら、目の前に座る男と、横に立つ部下を交互に見やる。エリックは不快そうに僅かに眉を寄せた。


「ああ、シグルトと引き離して、我々に協力するよう説得するつもりだったが………難しいかもしれんな」


 ノーグがゆっくりと立ちあがった。部屋の窓へと歩み寄り、外を見下す。宿の前の通りに、じっと微動だにせず立っている人物に目を止めた。闇の中、目をこらさねば見落としてしまいそうな、黒い服の女。


「シグルトの奴、どえらいモンをあの娘につけて寄こしやがった……」


 呟きに呼応するように、女が顔を上げた。目が合う寸前、男はさっとカーテンを閉めて、その視線を遮断する。


「ねえ、君たちがリシェルちゃんに目をつけてる理由って何? 今日僕を襲った奴も、リシェルちゃんを攫おうとしてたみたいだけど?」


「何? そうなのか?」


 ノーグは、王子の側で直立不動の姿勢を保つエリックに問う。


「……ああ。無事に連れ帰るよう命を受けたと言っていた」


「そうか……おそらくロゼンダあたりが嗅ぎつけたな。あの女狐め」


 舌打ちし、再びクライルの前に座る。


「ロゼンダって導師の? あのすっごい美人のお姉さんでしょ? ふふ、一度でいいから仲良くして欲しいと思ってたんだよね~。叔父上じゃなくて、僕の味方になってくれないかなあ?」


 美貌の導師の姿を思い浮かべ、クライルは鼻の下を伸ばした。


「味方になるかどうかはわからんが、あの色狂い婆さんなら頼めばすぐにやらせてくれるさ」


「婆さん?」


「あの女、ああ見えてガームの爺さんと年変わらんぞ」


「ええ!? 嘘でしょ!?」


 クライルは目を丸くして、仰け反った。驚愕の後、すぐに納得顔で頷く。


「ああでも、あのルゼルって子供の導師も実は結構年いってるんだよね? 魔力の影響だっけ? ほんと魔道士って怖いな~」


「まあ、ロゼンダはルゼルの不老現象とは事情が違うがな」


「そういえば、あのお姉さん、最近あの人……ほら、ついこの間導師になった美形なお兄さん……え~と、名前何だっけ?」


「……ヴァイスです」


 エリックが主の疑問に答え、代わってノーグに尋ねた。


「あの男とよく二人で一緒にいるのを城で見かけるが……どういう関係だ?」


「あれはただならぬ関係と僕は見たね。若いツバメってやつ?」


 クライルの軽口を無視して、ノーグは考え込むように腕を組む。


「ヴァイスか……そいつのことは俺もよく知らんな。数ヶ月前に突然リトー導師の弟子になって、その急死で導師に就任したらしいが……俺が法院にいた頃も、名前も聞いたことがない。リトーの死にも不審な点が多いし、ロゼンダとつるんでるあたり、どうにも胡散臭い。要注意だな」


「あのお兄さんも叔父上の味方みたいだよねぇ……導師で僕の味方だって言ってくれてるのはブランだけかぁ」


「ミルレイユ姫にはガームの爺さんがついてるし、魔道士の味方がいないのは王子、あんただけだったからな。ほっといたらあっという間に呪殺されちまう。それでブランは同情してあんたに付いたんだろう。あの男は損得勘定って言葉を知らない、底なしのお人好しだからな。まあ、あいつは実力的には大したことない。あまり役には立たんだろう」


 ノーグは馬鹿にしたように鼻先で笑う。仮にも国家最高位の魔道士の一人を、“大したことない”と言い切る男を、クライルはまじまじと見つめる。


「やたら法院の事情に詳しいなぁとは思ってたけど……ブランとも知り合いなの?」


「……法院の連中なら、大体知ってるさ」


 ノーグは深く追求されるのを避けるかのように、話を元へ戻す。


「なんにしても……向こうもあの娘を狙ってるとなると、厄介だな……」


「それって君たちと同じ理由?」


「さあな」


 好奇心をむき出しにする王子に、ノーグは素っ気なかった。


「教えてよ~。あの子を人質にシグルトに言うこと聞かせようとか?」


「確かに、あの娘にはそういう使い道もある」


「じゃあ、違う使い道を考えてるんだ?」


「……王子、あんたは余計な詮索はするな。黙って我々に従っていればいい」


「ちぇっ、僕だけ仲間はずれか~」


 クライルは唇を尖らせた。子供のように拗ねる王子の様子に、男は冷ややかな視線を送る。


「あんたは知らなくていいことだ。我々の指示に従ってさえいれば、王位は約束しよう。なりたいのだろう? 王に」


「まっさか~」


 クライルは冗談でも言われたかのように、噴き出した。


「なりたいわけじゃないよ~。ならなきゃいけないんだ」


 大切なものを守るために――――声には出したことのない理由が、ふざけた口調の中に、わずかに本気の決意を滲ませる。それに気付いたのは、四六時中彼の傍に付き従う、黒髪の騎士だけだった。









 王子の部屋を出たノーグは、エリックに険しい表情で向き直った。


「エリック、あの王子には気をつけろよ。腹の内で何考えてるかわからない。監視を怠るな」


「……ああ」


 エリックは強く同感の意を込めて頷いた。最初はクライルのことを、ただの何も考えていない、暗愚な王子なのだと思っていた。その認識が覆ったのは、前回のラティール騎士団の初任務、ムラド地方の山賊団討伐の時だった。

 ヴァ―リスに敗れた敗戦国出身という理由で仕官の叶わない元騎士、平民であるがゆえに騎士を目指すことすらできずに地方の関所勤務に甘んじている下級兵、素行不良のせいでどこの警備隊や騎士団にも雇ってもらえない傭兵……そんな行き場のないあぶれ者の寄せ集め集団であるはずのラティール騎士団は、残虐非道で知られ、地方の騎士団が手を焼いていた山賊団を、あっさりと下した。

 それは偶然ではない。クライル自らが街へ出、声を掛け、集めた団員たちの実力が、予想をはるかに上回るものだったからだ。こうして世間の予想――そしておそらくは国王の期待――を裏切って、ラティール騎士団は初めての実戦を勝利で収めた。


 討伐の際、クライルは何もしていない。総大将として、指揮を取るでもなく、ただわーわーとうるさく叫んで、逃げ回っていただけだ。だが、彼が敵から狙われると、皆身を呈して彼を守ろうと戦った。命じられたからではなく、自発的に。生まれ育った環境も、身分も、出身国も、当然考え方も、まるで違う団員によって構成される騎士団が勝利を掴んだ理由は、間違いなくそこにあった。

 あの王子にそこまで人を惹きつける人徳があるとは思っていない。彼がやったのは、階級の別なく団員一人ひとりの名前を覚え、毎日一緒に酒を飲んだことだけだ。だが、たったそれだけのことで、人は人を“好き”になれる。それが本来自分とは話すことすら叶わぬ、遠い立場にいる人間であれば、なおさらに。

 クライルはおそらく、それをわかっていた。人の心を掴む術と知っての、計算づくの行動。


 あの王子のことだ。今日リシェルを連れ出したのも、何か裏があるのではないか。そう思えて仕方ない。一体二人で何を話したというのか。

 ――――リシェルちゃん、王都に戻ったら、シグルトと結婚するみたいだよ?

 先程の王子の言葉が蘇り、エリックは思わず歯をぎりっと噛みしめていた。


「ところで、あの娘の様子はどうだ?」


「……」


 ノーグに問われ、エリックは不意に力が抜けたように近くの壁にもたれると、俯く。


「どうした?」


「……笑ってた」


 ゆっくりと片手を持ち上げ、自らの黒髪に差し入れる。手と、立ちあがった髪が作る影が、ノーグの視線から、悲壮な表情を隠す。


「初めて王都で遠くから見た日も、あの夜会の日も……見間違いかと思った。信じられなかったんだ。エレナが笑うなんて……」


 悲しみと同時に湧き上がってきた苛立ちに、ぎりっと頭皮に爪を立てる。

 何よりも見たいと願っていた彼女の笑顔。でも、見たくはなかった。


「何もかも変えられちまったわけだ。お前の運命も、あの娘の運命も。……シグルトの手によってな」


 エリックが手を降ろし、わずかに顔を上げた。

 黒い瞳の中で揺らめいていたのは、たった一人に向けられる激しい憎悪。

 ――――力が欲しいんだ! 俺を強くしてくれよ! 俺は絶対にあいつを許さない!

 そう叫んだ少年の日と変わらない、いや、むしろその強さを増した昏い輝きを見て、ノーグは内心ほくそ笑む。

 そうだ。もっと、もっと憎め。それが力になる。


(お前も大事な道具……“武器”だからな)


 だが、まだ不十分だ。これだけでは足りない。

 勝つには、もっと強い力が必要になる。

 あの娘をシグルトから奪い、その記憶を暴けば、必ず辿りつく。

 この戦いの“切り札”となりうる、天才魔道士に。


(アーシェ……嫌でも目覚めてもらうぞ)


 自分を睨みつける少女の姿を想像して、ノーグは静かに笑った。


 








 翌日、ラティール騎士団は予定通り、アンテスタへ向け、ミレーレの街を出立した。刺客騒動があったため、出立を遅らせしばらく警戒すべきだという意見もあったが、刺客の遺体が見つかったこと、そして何より総大将であるクライルの「僕は大丈夫だから、さっさと任務を終わらせて王都へ帰りたい」という強い要望――パリスは我がままと言っていた――で、予定通りの出発となった。


「そういえばさ、リシェルちゃん、刺客に襲われた時、なんで魔法使わなかったの?」


 道中、いつも通り、馬に乗ったリシェルとパリスの横を歩いていたザックスが、不意に思い出したように質問してきて、リシェルは息が止まりそうになった。

 動揺するリシェルの代わりに、パリスが冷静に答えた。


「こいつは実戦経験があんまりないんだ。初めて殺意を持った敵と向かい合って、どうしていいかわからなくなったんだろ。ああいう状況でも、いつも通り魔法が使えるようになるには、もっと経験積まないとな」


「なるほど~。大魔道士の弟子って言っても、やっぱり女の子なんだな~。まあ、俺も初めて戦場に出た時はそんな感じだったけど。大丈夫、そのうち慣れるよ。まあ、戦いの場で平然としてるリシェルちゃんってのもちょっと嫌だけどさぁ」


 リシェルの沈黙を、落ち込んでいると勘違いしたのか、ザックスは励ますように明るく冗談を言った。嘘が得意でない自分は下手なことを言わない方がいい。そう判断して、リシェルは曖昧に笑って返した。

 ふと、視線を感じた。

 まただ。また、刺客に襲われた時、エリックたちと駆け付けた、ロビンという一般兵がこちらをじっと見ている。あの事件以来、頻繁に目が合うようになった。だが、リシェルが彼の方を見ると、いつも目を逸らされる。


(私、何かしたかな?)


 思い当たるふしは全くない。そもそも、彼とは言葉すら交わしたことがないのだ。


「今日も宿に着いたら、攻撃魔法の特訓。いいな?」


 パリスに背後から小声で囁かれ、リシェルは頷いた。

 ロビンのことはすぐに意識から消えた。










「はぁ~疲れたぁ~」


 リシェルは言いながら、外套も脱がずに寝台に倒れ込んだ。

 ラティール騎士団は、心配された新たな刺客の襲撃もなく、無事にアンテスタに入った。今日はこの小さな村の宿に宿泊し、明日アンテスタ領主のいる街に移動、そこで作戦を練ってから、いよいよ任務となる予定だった。

 宿に着き、夕食を終えるなり、パリスはリシェルを宿の裏手、少し離れたところにある、小さな納屋だけがぽつんと立つ空き地に連れて行き、そこでさっそく魔法の特訓を始めた。

 強力な風を巻き起こす魔法。それがパリスが新たに課題とした魔法だった。リシェルの今の魔力では殺傷力を持つ風を起こすまでには至らないが、うまくやれば敵を転倒させることができるし、目くらましにもなる。


 だが、人々が寝静まる夜まで続いた特訓も空しく、リシェルはそよ風すら起こすことができなかった。王都を出発してから練習を始めた治癒魔法も、6回に1回成功するかしないかという程度で、完璧に身に付いたとは言い難い。任務を2,3日後に控え、やっぱり自分は何の役にも立てなさそうだと、リシェルはしょんぼりと肩を落とした。


「お前が魔法使う時って、なんか変なんだよな。魔力が一瞬ぶれるっていうか、乱れるっていうか……まるで何かに遮られているみたいに……」


 眉間にしわを寄せ、考え込みながら呟いたパリスの言葉を、リシェルは“才能がない”という意味なのだと受け取った。


 次第に温まって来た布団に埋もれながら、リシェルは寝台の脇に置かれたチェストの上にある、シグルトから借りた本を眺める。もう最後まで読み終わっていた。

 身分違いの恋物語の最後は、王子と主人公の娘が手に手を取り合って、誰も二人のことを知らない土地へと駆け落ちし、二人は結ばれる、というものだった。二人だけのささやかな結婚式で、永遠の愛を誓い合う――――それが物語の最後の場面。


(もし……魔道士になるのを諦めて、先生と結婚するって言ったら……)


 シグルトはきっと大喜びしてくれるだろう。もう随分会っていないような気がするが、嬉しそうに笑う顔がすぐに目に浮かんできた。

 パリスには悪いが、王都に戻ったら、やはりシグルトの求婚を受けるつもりでいた。

 今日リシェルがこうして生きて、人並み以上の暮らしが出来ているのも、全部シグルトのおかげ。クライルの言った通り、シグルトが自分を望んでくれるなら、それに応えるべきなのだ。それだけの恩があるのだから。

 小説を読んでも結局わからなかった恋や愛という感情も、きっとシグルトに対してなら、いつか持つことができるだろう。彼をこれ以上好きになることはあっても、嫌いになることなど絶対にあり得ない。

 けれど、魔道士になることに対する未練がないわけではなかった。記憶を取り戻すという目的を抜きにしても、いくら上達が芳しくなくても、リシェルは魔法が好きだった。頭が痛くなるような勉強も、きつい練習も、純粋に楽しいのだ。


(もし、王都に戻るまでに今習っている魔法を習得できたら……)


 結婚しても、魔法の勉強を続けさせてもらえるよう、シグルトに頼むつもりだった。

 あっさりとは許してくれそうにはないが。


(法院を追われて……殺されてしまったアーシェ……)


 師が自分が魔道士になることを望まない一番の理由は、おそらく彼女にある。

 一体過去に何があったのだろう。


(戻ったら、先生にちゃんと聞こう)


 逃げないで、シグルトときちんと向き合うことを誓うと、リシェルは疲れた体をどうにか起こして、着たままになっていた外套を脱ごうとした。懐に手が当たり、はたと気づく。


(ない……)


 いつもローブの懐に入れている、準宮廷魔道士の証である徽章きしょうの、固い感触がない。慌てて確かめるが、やはり星を模った徽章はそこになかった。どこかで落としてしまったのだ。おそらくは、今日パリスと裏手の空き地で魔法の練習をしていた時。

 空き地までは宿からたいした距離ではないが……こんな夜更けに一人で外へ探しに出るのは、自分が誰かに狙われているらしいということもあって、正直怖かった。だが、夜が明けるのを待つわけにもいかない。

 王都を出て、初めて知ったのだが、準宮廷魔道士の徽章は、それを見せるだけで実に様々な恩恵を受けられるのだ。王城への出入りも自由にでき、各地の関所は検問も通行料もなしで通過可能、乗合馬車でも船でも、あらゆる交通手段を無料で使用できる。普段は会うこともできない高い地位にいる人間にも、面会を求めたり、任務中であれば、その遂行に必要な協力を求めることができるという。

 万が一悪い人間に拾われ、悪用でもされれば、大変なことになる。

 外套を着たまま、部屋を出て、隣のパリスの部屋の扉を叩いた。


「パリス? 起きてる?」


 反応はない。


「入るね?」


 一言断ってから、そっと扉を開けると、パリスは部屋に設えられた机に突っ伏していた。肩が規則正しく上下し、静かな寝息が聞こえる。机の上には、リシェルとの授業で使用している魔道書より、はるかに難しそうな書物が重ねられていた。それを見て、リシェルは申し訳ない気持ちになる。

 パリスはおそらく、自分の勉強をしていたのだろう。日中はずっと移動、宿泊場所に着いてからは、リシェルの勉強や練習に付き合ってくれているパリスが、部屋に戻ってからもなかなか明かりを消さないのは知っていた。寝る時間を多少削ることでしか、自分の勉強に時間を割けなかったのだろう。

 それに、またあるかもしれない刺客の襲撃からクライルを守るため、彼は宿全体に結界を張っている。こうして眠っていても、魔力をそちらに取られているはずだ。日頃疲れた様子など見せないパリスだが、実際にはかなり消耗しているに違いない。

 起こすのは躊躇われた。諦めて、そっとドアを閉める。


(どうしよう……?)


 徽章は一刻も早く探さなければならない。

 ザックスかダートンに頼んでついて来てもらう……のは駄目だ。二人ともリシェルが強い魔道士なのだと疑っていないが、怖いからついて来てくれなどと言ったら、多少は不審がるかもしれない。


(エリックさん……)


 彼ならリシェルの本当の実力を知っているから問題ない。また迷惑を掛けてしまうことになるが、頼めるのは彼だけだ。だが、こんな夜更けに彼の部屋に行って、落とし物を拾いについて来てくれと頼むのは……もしかしたら寝ているところを起こしてしまうかもしれないし、非常識だと思われるかもしれない。そう思うと、なかなか足が動かなかった。


「どうかされましたか?」


 リシェルがパリスの部屋の前で、エリックの部屋に行く勇気が出ずにもじもじしていると、突然、横手から声を掛けられた。


(あ……この人は……)


 そこにいたのは、ロビンだった。なぜこんなところにいるのだろう。この階は、王子や騎士たちの泊まる部屋があるだけで、一般兵用の部屋はない。


「あの、ちょっと外で落とし物をしてしまったみたいで、探しに行こうかと……」


「外はもう暗いですし、女性が一人で出歩くのは危ないですよ? ……って、大魔道士のお弟子さん相手に、余計な心配ですね。すみません」


 失礼なことを言ってしまったと思ったのか、ごまかすように笑ってから、ふと思いついたように言った。


「でも、落とし物を探すなら、二人の方が早く見つけられるでしょうし、俺もついて行きましょうか? どうせこれから周辺の見回りなんで、ついでですよ」


「本当ですか!? 助かります!」


 ロビンの親切な提案に、リシェルは喜んで飛び付いた。

 よかった。誰かがついて来てくれるなら怖くない。万が一、また魔道士に襲われたらどうしようもないが、魔力の発生があればパリスが気付くはずだし、すぐ近くだから、きっと大丈夫だ。


「じゃあ、行きましょうか」


 人のよさそうな笑顔で言いながら、ロビンは先に立って歩き出す。後を付いて行くリシェルは気付かなかった。前を歩く彼の口元にうっすらと浮かんだ、酷薄な笑みに――――

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