第2話 魔法

 目の前に、天に届かんばかりにそびえ立つ、巨大な白亜の塔があった。


 その巨大な塔を中心として、やや小さい塔が六本、その周りを取り囲んでおり、さらにそれらの塔を守るように、強固な石の壁がぐるりと巡らされている。それぞれの塔の上には、星をかたどった紋章を記した旗が風を受けてひるがえっていた。


 エテルネル法院。

 ここロジアルディア大陸で最大規模を誇る、魔道士たちの組織。


 大陸には魔道研究、魔道士育成を目的とした、魔道士を束ねる組織がいくつか存在するが、このエテルネル法院は政治経済に与える影響も他とは比べものにならない、一大勢力だ。


 師に付いてここへはもう毎日のように足を運んでいるというのに、この塔の持つ威容に、リシェルはいつも怯んでしまう。


 対照的に、シグルトは濃紺のローブをひるがえし、何の躊躇ちゅうちょもなくすたすたと入口へと向かう。リシェルも遅れまいと小走りで師の後を付いて行った。


 どんな巨人も通れるであろう巨大な入口の門は開かれており、門番たちがシグルトを見て丁寧に一礼する。門を通ると中央の塔に向かって石畳が敷かれており、その上をシグルトとリシェルは進んでいく。


 その途中、そして塔の中へと入った後も、道行くローブ姿の魔道士たちが、シグルトとすれ違う度、道を開け、黙って頭を下げる。自分にされているのではないとわかっていても、後ろをついて行くリシェルはなんだか恐縮してしまう。


 シグルトは、このエテルネル法院をべる最高位の魔道士、六導師の一人だ。世界中の魔道士たちの畏怖と敬意の対象たる導師。


 シグルトは中でも、若くしてその地位を得、六導師中最高の実力を持つとされる、国王ですら一目置く存在。


(とてもそうは見えないけど……)


 リシェルの知るシグルトという男は、怠け者で、女性向けの恋愛小説を読みふけり、弟子に何かとちょっかいをかけて困らせる、変人以外の何者でもなかった。


 塔の奥へと進んだ先に、星や魔術文字等の細かい意匠を施された、一際目を引く大きな両開きの扉があった。

 その扉の前でシグルトは足を止め、振り返る。


「じゃあ行ってきますね。いつも通り、一、二時間で終わると思いますから、君は先に部屋に行って、書類仕事を済ませておいて下さい。今日は早めに仕事を終えて、君と行きたい所があるので」


「行きたい所?」


 シグルトはリシェルの疑問に答えることなく、くすりと笑って、扉を押すと、奥へと消えた。目の前で扉がゆっくりと閉まる。


(またはぐらかされた)


 リシェルは面白くなかったが、この扉の先で行われる、六導師の会議までついていくわけにはいかない。


 六導師の会議に出られるのは、六導師と、その弟子の中で最も実力ある、一番弟子のみ。

 しかも十六歳以上であることが条件だ。


 シグルトはリシェル以外弟子を取っていないので、リシェルが一番弟子、ということになるが、年齢的に来月成人を迎えるまで、出席できないことになっている。


 リシェルは扉を離れ、一人で歩き出す。

 一人になった途端、すれ違う魔道士たちはリシェルなど、視界に入らないかのように通り過ぎていく。いや、元々入っていなかったのだ。彼らが敬意を払っていたのはあくまでシグルトのみであり、最初からリシェルなど眼中にない。


 ごくたまに、リシェルに目を向ける者もいたが、送られてくる視線は決して好意的とは言い難い、冷ややかなものばかり。リシェルはうつむくと、そそくさと塔に入ってきた時と真逆に位置する扉から、外へと出た。


 シグルトの執務室は、六つの小塔の中で一番北に位置する、通称“月の塔”の最上階にある。


 リシェルは月の塔へと向かう途中、なんとなく脇へ逸れて、中庭へと向かった。隅々まで手入れの行き届いた庭に、春の日差しが降り注いでいた。研究のため世界各国から集められた、色鮮やかな花々が咲き乱れている。その上を何匹もの蝶々がひらひらと、のんびりと舞っていく。


 実にのどかな光景だったが、リシェルの心は決して晴れやかではなかった。


 リシェルは、先ほど出てきた中心に位置する“天の塔”を見上げる。あの塔の最上階で、今頃シグルトは他の導師たちと会議をしているのだ。


(……先生、来月から私を会議に出席させるつもり、あるのかな?)


 六導師に付き従い、会議に出るその意味は、つまり、その弟子こそがその導師の後継者である、ということを示す。師のすべての術を受け継ぐ後継者―――


 リシェルはため息をついた。

 家に帰ったら、先生ときちんと話し合おう。今度こそはぐらかされてはいけない。大事なことなのだから。


 リシェルが物思いにふけっていると、不意に足元に何かが当たった。視線を下に落とすと全身茶色い子猫がリシェルの足に、体をこすりつけている。


 猫は他の動物に比べ魔力を持つものが多く、使い魔として使う魔道士も多い。魔道士の象徴のような動物だ。そのため、法院内の至る所に猫が放し飼いにされている。この猫はごく普通の猫のようだが。


「お前、どうしたの?」


 猫はリシェルを見上げると、にゃーとか細く鳴いた。リシェルは可愛らしいその様子に表情を緩め、猫を抱き上げる。


 だが、すぐに異変に気付いた。

 猫の後ろ脚から血が滴っているのだ。ざっくりと傷口が開いている。どこかで引っかけたのだろうか。


「やだ、怪我しちゃったの?」


 猫は潤んだ瞳でリシェルを見て、哀れっぽく鳴いている。


「ど、どうしよう? 手当しなきゃ……医務室ってどこだっけ?」


「お前さぁ、魔道士でしょ? 魔法使えばいいじゃないか」


 慌てふためくリシェルの後ろから、声がした。


 振り返ると、黒いローブをまとった少年が、馬鹿にしたような笑みを浮かべて立っていた。さらさらとした、常人にはありえない、青色の髪。色白で、少女かと見間違える程、繊細で整った顔立ち。しかし、長い睫毛の奥にある青い目は冷ややかで、形のよい唇はあざけるように歪んでいた。


 リシェルは思わず身を固くする。彼とは何度か面識があった。

 パリス・ユーメント。

 シグルトと同じ六導師の一人、ブラン・フィオーコの一番弟子。


 リシェルと同い年だが、昨年魔術学院を首席卒業し、ブランの弟子となった秀才であり、若手で最も期待されている魔道士だ。しかも、生まれは王家に連なる上級貴族であり、彼ほど華々しい将来を約束された人間も珍しい。


 そんな彼は、リシェルに事あるごとに辛く当ってくる。実力も家柄も、すべてにおいてリシェルに勝るパリスが、彼女を嫌う理由はただ一つ。


 リシェルがシグルトの弟子だからだ。


「ほら、その猫痛がってるぞ? 可哀想じゃないか。早く治してやれよ?」


 パリスが促してくるが、リシェルは、何も答えられなかった。もちろん治してやりたい。治してやりたいけれど――


 パリスはリシェルが答えない理由をわかっている。わかった上で、ニヤニヤと笑いながら、彼女をいたぶるためにわざと言った。


「まさか、あのシグルト様の弟子が、その程度の治癒魔法も使えない、なんて言わないよな?」


 リシェルは唇を噛んだ。言い返すことはできない。事実そうなのだから。


 シグルトの弟子となって、早六年。リシェルは、未だに一つの魔法も使うことが出来なかった。


どんなにシグルトにせがんでも、教えてもらえなかったのだ。


 まだ早い。

 危ないから。

 大人になってから。

 そんな言葉でずっとはぐらかされてきた。


 唯一、薬草の知識だけは教えてくれたが、それも時たま気が向いた時だけで、ほとんどは独学だ。薬草学も広い意味で魔道の一分野ではあるが、リシェルが学びたいのは、瞬時に傷を治したり、天候を操ったりする魔法だった。それは独学で身に付く程甘くはない。


 シグルトはこの国で最も高名な魔道士だ。その弟子が、魔法が一つも使えない、とはとんだ笑い話だ。


 そして、その笑い話はこのエテルネル法院の魔道士たちの間でも囁かれ、一部の魔道士たちがリシェルに向ける、冷ややかな視線の一因となっているのだ。彼らはまさか、弟子に六年間も何の訓練も施さない魔道士がいるなど、考えもしない。


 導師の弟子であるのに魔法が使えないのは、あの娘にまったく才能がないからだろう――シグルト様もとんだ見込み違いをされたものだ。あるいは弟子というのは表向きのことで、実際には単なる囲い者か何かなのでは――?


 そんな陰口を耳にして泣いたことも、一度や二度ではない。


「なんだ、使えないのか? 呆れたな。お前何年シグルト様の弟子やってるんだよ?」


 リシェルが言い返せないのをいいことに、パリスは責め立ててくる。


「お前ってシグルト様の何? 単なる小間使い? ああ、それとも……」

 

 綺麗な顔に、酷薄こくはくな笑みが浮かんだ。


「物珍しいペットか? お前の黒髪珍しいもんな。カラスみたいで……うらやましいよ。僕もそんな髪の色だったら、シグルト様に弟子にしてもらえたのかな?」


「私はっ……そんなんじゃない! 先生の……弟子……だもの……」


 なんとか言い返したものの、最後のほうは声が小さくなってしまう。自分は本当にシグルトの弟子なのか。何も教えてもらえないのに――自分自身でも自信がなくなっていた。


 言い返したことが気に障ったらしく、パリスは笑みを消し、目を吊り上げた。


「何が弟子だよ。魔法も使えないくせに。お前のことシグルト様の弟子だなんて誰も認めてないぞ」


 そんなことはリシェルにも痛い程わかっていた。導師の一番弟子は、いずれ師の後を継ぎ、次の導師としてエテルネル法院を率いていく立場にある。プライドの高いエテルネル法院の魔道士たちが、魔法も使えない人間を自分たちの未来の指導者として認めるはずがなかった。


「お前も確か来月成人するんだったよな? まさか導師会議にのこのこ出て来るつもりじゃないだろうな?」


「それは……」


 そのことについて、シグルトは何も言って来ない。確認しようとしても、いつもはぐらかされる。


 だが、本当はリシェル自身が聞くことを恐れている部分もあった。君を弟子として会議には出せない――そう言われてしまうのが怖かった。


 来月導師会議に出れないのなら、自分はもう本当にシグルトの弟子ではない、ということだ。


 だとしたら、自分は一体何なのだろう?

 この先どうすればいいのだろう?


「なんだ、シグルト様に何も言われてないのか?」


 リシェルが言い淀んでいると、パリスの表情が明るくなった。


「なるほど、シグルト様もようやくお前を見限る気になられたってとこかな。なら、僕にもまだ弟子にして頂くチャンスはあるってことか」


 その発言にリシェルは驚いた。パリスはずっとシグルトに憧れていて、弟子を志願していたが断られてブランの弟子になった、という噂は聞いていたが、まだ諦めていなかったとは。 


「あなたはもうブラン様の弟子じゃない」


「好きでなったわけじゃない」


 パリスは吐き捨てるように言った。

 

「ブラン様より、シグルト様の方が実力が上だ。このヴァーリス王国一、いや大陸一の魔道士なんだ。僕の師に相応しいのはシグルト様だけだ」


 リシェルはあまりの不遜な物言いに呆気にとられた。師であるブランに対し、敬意の欠片も感じられない。


「ま、魔法の使えないお前には、シグルト様のすごさなんて、わからないだろうけどな」


 パリスはせせら笑い、


「せいぜい、シグルト様に家まで追い出されないように頑張るんだな」


 そう言って、背を向けて歩き出す。  

 

「ま、待って!」


 リシェルはとっさに呼びとめる。パリスが怪訝そうに振り返った。


「なんだよ?」


「この子の傷、治してあげて……」


「……なんで僕に頼むんだよ?」


 散々罵倒してきた相手にそんなことを頼む考えがわからないのか、パリスは少し困惑しているようだった。


「だって……早く治してあげたいし……」


 リシェルの腕の中で、子猫が哀れっぽく鳴く。パリスはしばらく顔をしかめて逡巡していたが、やがてちっと舌打ちすると、再び歩み寄ってくる。


「……傷ついた猫を放置したなんて、猫好きのブラン様に知られたら、大目玉だからな」

 

 お前に頼まれたからじゃない、暗にそう言ってゆっくりと子猫の傷ついた片脚に両手をかざす。パリスの手の平が、淡く緑色に発光し始めた。優しい光が子猫の脚を包み込み、見る間に傷口が塞がっていく。リシェルは息をのんでその様子を見守った。


「すごい……」


 思わず漏れたリシェルの呟きに、パリスがじろりと睨みつけてくる。


「こんなの、基礎中の基礎、初級も初級、下級魔道士でも使える」


 憎しみと軽蔑のこもったその眼差しと言葉に、リシェルの心がずきんと痛む。


「なんで……なんでお前なんかが、シグルト様の弟子なんだよ……」


 苦々しげな表情で吐き捨てるように言って、今度こそ振り返らずに去って行った。


「そんなの……私が聞きたいよ……」


 リシェルの呟きに、子猫が慰めるようにその頬を舐めた。









「はあ~、今日に限ってなんでこんな長引くかな~」


 月の塔、最上階。導師シグルトの執務室。

 部屋の主がうんざりした様子で戻ってきたのは、昼を少し回ったところだった。


「リシェル、お昼まだですよね? 外に食べに行きましょうか?」


「……お昼、食堂で買っておきましたから。テーブルの上にあります」


 部屋の隅に設えられた小さな机で、書類をめくりながら、顔を上げもせず、リシェルが答える。

 その様子に、シグルトは苦笑した。


「おや、どうやらご機嫌斜めみたいですね」


「……そんなことありません」


 リシェルは言葉とは裏腹に、むすっとした表情で立ち上がると、お茶の用意を始める。シグルトはソファに座ると、リシェルの用意した弁当の包みを開け始めた。


「あ、私の嫌いなキノコのスープ……」


 いつもなら気を利かせて絶対に用意しないはずのメニューに、弟子の怒りを感じた。


「好き嫌い、よくないですよ」


 リシェルはお茶を注いだカップを、師の前に幾分乱暴に置いた。そのまま席に戻ろうとするが、シグルトに腕を掴まれる。


「リシェル、どうして怒ってるんです?」


「別に怒ってなんか……」


「言いたいことがあるなら言いなさい。今日は君と喧嘩したくないんです」


 シグルトの紫色の瞳にまっすぐ見上げられ、リシェルは思わず目をそらす。


「リシェル?」


「……先生は、どうして私を弟子にしたんですか?」


「は?」


「答えてください」


 今度はリシェルが薄紅色の瞳で、師をまっすぐに見つめ返した。シグルトは眉をひそめる。


「誰かに何か言われましたか?」


 シグルトはおそらく、リシェルが魔法を使えないことで、法院の魔道士たちに白い目で見られていることを分かっている。リシェルが苦しんでいるのを分かっているはずなのに、それでも術を教えてくれないのだ。リシェルは無性に腹が立ってきた。


「そりゃもうずっと言われっぱなしですよ! 導師の弟子なのになんで魔法が使えないんだって……ありえないって……先生はどうして私に魔法を教えてくれないんですか!?」


「それは……君が思っている以上に、魔法というのは危険なものだから――」


「けど、私だってもう成人するんですよ? いつまでも子供扱いしないで下さい! パリスなんて子供の頃から魔術学院に通って、もうあんな魔法が使えるのに……」


「パリス? ……君に何か言ったのはパリス君なのかな?」


 シグルトの問いも無視し、怒りで頭に血が上ったリシェルは勢いに任せて、師を責め立てる。


「先生言いましたよね? 私が魔術学院に入りたいってお願いした時、術は自分が教えるから必要ない、代わりに仕事を手伝ってくれって……でも、術なんか全然教えてくれなかった。たまに薬草学の本だけ渡して、読ませるだけ……魔法を教えてくれないなら、なんで私を弟子なんかにしたんですか? もしかして記憶も身よりもなくて可哀想だったから? 同情? でもやっぱり才能ないって気づいて、優しい先生はそれを言えないだけですか?」


「リシェル」


「私は先生の何なんですか? 便利な小間使いですか? それともからかって遊ぶ暇つぶしの玩具おもちゃ!?」


「私にとって君は、世界で一番大切な子です」


 静かに、けれどはっきりと、躊躇ためらいなくシグルトは答えた。真摯な眼差しで見つめれて、リシェルの心臓が跳ねる。


 何かの魔法を使われたのではないかと思うほど、沸騰していた怒りが急速に冷えて、代わりに別の熱が胸の内に広がっていく。


(……ずるい)


 そう思っても、もう言葉が出てこなかった。シグルトはリシェルの腕を引いて、隣に座らせるとゆっくりと諭すように語り始めた。

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