大魔法使いの愛しい弟子〜記憶喪失の弟子は師匠の嘘と溺愛の理由を知らない〜

真白紗希

第一章

第1話 リシェル

 なぜだかはわからないけれど。

 あたたかい涙が、冷たく冷え切った頬を伝う。


 その涙をぬぐうように、冷たい誰かの指が頬を撫でた。


 ゆっくりとまぶたを開くと、ぼんやりした視界に、若い男の心配そうな表情と、その背後に灰色の空があった。


「よかった。気がついたんですね」


 男はほっとした様子で微笑む。男の腕に背を支えられる形で横になっていることに気づき、自力で起きようとするが、力が入らない。なんだか頭がぼんやりする。


「急に動いちゃだめですよ。ずっと気を失ってたんですから」


 気を失って……?


 男の言葉に首だけを回してあたりを確認すると、一面の雪景色だった。ただひたすら広がる白い地面と、枝に雪を積もらせた木々があるだけの物寂しい風景。

 まったく見覚えのない場所だ。


 顔を下に向けると、小さな手が、雪の上で投げ出されていた。力を入れると微かに動いたので、それが自分の手だとわかる。感覚がない程冷え切っているようだ。

 自分を抱える男に視線を戻して尋ねる。


「ここは……?」


 戸惑う自分を、男はじっと見つめてくる。綺麗な、紫水晶アメジストのような紫色の瞳だった。


「ここはカロンの村のはずれです。君の名前は?」


 問われて考える。名前……


「……わからない。おもいだせない……なにも……」


 目覚める前のことが、何も思い出せなかった。

 なぜ私はこんなところに倒れているの?


「何も? そうか……」


 男は一瞬目を見張ったが、すぐに目を細め、微笑んだ。満足げにすら見える。


「大丈夫。何も心配いりませんから」


 男に横抱きに抱え上げられる。おそるおそる、男の首に手を回すと、男はにっこり笑った。

 人の良さそうな、優しい笑顔。

 息がかかるほど近くに。

 どきんと心臓が跳ねた。思わず目をそらす。


 男はゆっくりと歩き始めた。さくっ、さくっと雪を踏みしめる音が響く。目の前で、男の白銀の髪が揺れていた。鼻筋の通った、綺麗な横顔。


 白いローブをまとったこの人は、もしかして雪の精なのだろうか?


「あなたはだれ?」


「シグルト様!」


 答えを得る前に、遠くから叫ぶ声が聞こえた。向こうから、黒いローブをまとった男が走り寄ってくる。


「シグルト様、その子供は……?」


 現れた男にいぶかしげな視線を向けられ、思わず身を固くする。


「村の子供だと思いますが、ここで倒れていました。連れて帰ります」


 シグルトと呼ばれた、自分を抱え上げている男はよどみなく答える。


「は、はあ……」


 尋ねた男は、どう反応してよいかわからないといった様子だったが、さらに問いを重ねてくる。


「それで、あの、任務は……?」


「終わりました。灰くらいは残っているかもしれませんね。後は頼みます」


 淡々とした、事務的で感情のこもらない答え。だが、それを聞いた瞬間、黒ローブの男の目に怯えの色が浮かぶ。男は一礼すると、そそくさと走り去っていく。


「しぐると……?」


「そう、それが私の名前です」


「なまえ……」


「君にも名前が必要だね」


 男はしばらく思案するように黙っていたが、やがて、


「まあ、帰ってからゆっくりと考えましょうか。時間はたくさんあるのだから……」


 微笑みながらそう言って、再び歩き始める。

 男の肩越しに、後ろを振り返ってみた。


 真っ白な景色の中で、灰色が舞った気がした。







***






 「先生! 起きてください! 朝です!」


 少女の声が、薄暗い部屋に響き渡る。

 同時に、部屋のカーテンがさっと全開になり、まぶしい朝の日差しが一気に差し込んだ。カーテンの前にいるのは、薄灰色のローブを着た少女だ。長く、癖のない真っ直ぐな黒髪が、日の光を受けて艶やかに輝いている。


「ほら、すっごくいいお天気! 仕事日和ですよ!」


 少女がその淡い薄紅色の瞳を向ける先――大きな天蓋付きのベッドの上で、布団が生き物のように身じろぎした。実際その中に生き物がいるのだが。


「先生!」


 少女の怒鳴り声に、観念したように布団の端から、のっそりと人間の頭が現れる。


「おはようございます。シグルト先生」


「おはよう……リシェル……今日も元気だね」


 布団から突き出た頭は若い男のものだった。柔らかそうな白い髪には寝ぐせがつき、紫色の瞳は、重いまぶたで今にも塞がれそうだ。


「先生、また夜更かしされてたんですね」


 リシェルと呼ばれた少女は、呆れたように床に乱雑に散らかった何冊もの本を見やる。


「しかも魔道書かと思えば、相変わらず恋愛小説ばっかり……」


 散らばる本のほとんどが、王都の年頃の女性達に流行っている恋愛小説だった。

 布団にくるまる男――シグルトは、ふぁと眠たげに欠伸あくびをしながら言う。


「読みたければ貸してあげますよ。ほら、それなんか、すごくお勧めです。貴族学院の教師と女生徒の禁断の愛を描いてて……」


「結構です。それより、仕事に遅れますよ」


「……つれないねぇ……私の可愛い弟子は……」


 シグルトは苦笑すると、のそのそと気だるげに布団からい出る。


「今日は定例会議なんですから、遅れないようにしないと」


 リシェルは部屋に備え付けられたクローゼットから、手早く白いシャツと黒のスラックス、それに一着のローブを取り出すと、シグルトに手渡す。


「私一人いなくても、会議なんかできますよ。他にも導師はいるんですから」


 シグルトは朝だというのに、覇気の欠片もない、げんなりした様子で、弟子からそれらを受け取る。


「これがわが国が誇る最高位の魔道士かと思うと、この国の将来が不安になりますね」


 リシェルは遠慮なく言って、ため息をつく。


「早く着替えてくださいね」


「はいはい」


 やる気のない返事のわりに、シグルトはすぐに寝巻きのボタンに手をかけ、さっさと脱ぎ始めた。寝巻きの隙間から覗いた胸板に、リシェルの頬が赤く染まる。


「ちょっ……! 何脱いでるんですか!」


「え? 着替えるためですけど?」


「わ、私が出て行ってからにして下さい!」


「君が早く着替えろって言ったんでしょう?」


 紅潮した顔で動揺する弟子に、シグルトはからかうような笑いを浮かべる。


(絶対わざとだ……!)


 この怠惰な師匠は、仕事にはやる気がないくせに、年頃の弟子をからかうことには熱心なのだ。


「先行ってますから、早く来てください!」


 リシェルは師の方を見ないようにして、逃げるように部屋を出た。


 毎朝繰り返される、師との他愛ないやり取り。六年前、十歳の時に師に拾われてから、これがリシェルの日常となった。


 六年前、カロンの雪山で倒れていた自分を、シグルトは助けてくれた。そればかりか、記憶を失くし、出自もよくわからない自分を、弟子として引き取ってくれさえした。それ以来、ヴァーリス王国の王都ルガルトにあるこの家が、リシェルの家になった。


 記憶は未だに戻っていない。シグルトによると、六年前に起こった、辺境の村カロンに潜んでいた反乱軍と国王軍の争いに巻き込まれて、頭を打ったか、精神的なショックを受けたかで、記憶を失ったのだろう、との話だった。国王軍側の魔道士として参戦していたシグルトが偶然見つけてくれなかったら、あのまま雪山で死んでいたに違いない。


 リシェルは階段を下り、廊下の窓から庭先を見た。小さな花が、花壇一面に咲いている。少女の瞳の色と同じ、薄紅色の小さな花びらを持つ、かわいらしい花。シグルトが好きな、リシェルという花だ。名前すら失くした自分に、師はこの花の名を与えてくれた。


「花、満開ですねぇ」


 なんとなく花を眺めている間に、いつのまにかシグルトがローブに着替えて、後ろに立っていた。見るからに上質な、光沢を帯びた濃紺の生地に、銀糸の上品な刺繍と、銀の宝飾が美しいローブ。まとう者の権威を示すそれは、リシェルが着ているシンプルなものより、ずっと凝った、豪奢な作りになっている。


 寝癖もきれいに直し、厳かなローブに身を包んだシグルトは、先程のだらけた様子とは一転、それなりの貫禄を出していた。

 だが、その発言は変わらず、気の抜けたもの。


「日差しもぽかぽか、こんな日はのんびり二人で、花を愛でながらお茶でもしたいところですね」


「駄目です」


 リシェルは先程からかわれた怒りもあって、シグルトの腕を強引に掴むと、有無を言わせず引っ張って行き、玄関先で待機している馬車へと押し込む。


「え? 朝食もなし?」


「遅れますから。あ、出して下さい! エテルネル法院まで急いで!!」


 リシェルの声に、馬車が走り出した。







「朝食を食べないと頭が働かないんですよね~」


 揺れる馬車の中。恨めし気にぶつぶつ文句を言う師匠に、リシェルは鞄の中から持ってきた包みを差し出す。


「サンドウィッチ、作ってきました。着くまでに食べてください」


「おお~、さすが、用意がいいですね~」


 弟子の気遣いに感嘆の声をあげ、シグルトは包みを広げ、中身を取り出すと、早速頬張る。


「うん、おいしい! 君はほんといいお嫁さんになれますよ」


 卵や野菜を挟んだだけの、ごく簡単なものだったが、シグルトは大げさに賞賛してくる。誉められて悪い気はしないものの、リシェルはあえて不機嫌な顔を作った。


「私はお嫁さんじゃなくて、魔道士になりたいんですけど」


 リシェルは精一杯嫌味に見える様、シグルトの目をじっとりと睨む。


「先生、私、来月で十六になります」


 記憶のないリシェルは、当然自分の誕生日も覚えていない。だが、シグルトはリシェルを拾ってくれた日を、毎年誕生日として祝ってくれていた。その六回目の日が、来月なのだ。


「ええ、成人のお祝いならちゃんと考えてますよ」


「そうです、成人です。大人です」


 成人と大人、という単語に力を込め、強調する。

 シグルトはそんなリシェルを眩しげに目を細めて見た。サンドウィッチを手にしたまま、うっとりした様子で呟く。


「あんなに小さかった君ももう十六……なんかドキドキしちゃいますね。十六歳の可愛い弟子と一つ屋根の下って……何かが起こりそうな予感……あんなこととか、こんなこととか………」


「何も起こりませんから! つまらない恋愛小説の読みすぎです!」


 赤くなって否定するリシェルを、シグルトは心底おかしそうに見ている。さっきといい、こんな風に師はいつも弟子をからかって遊んでいるのだ。


(先生のペースにのまれてたまるもんですか!)


 リシェルは膝に手をつき、ぐっと身を前に乗り出す。逃がすまいとするように、薄紅色の瞳にしっかりと師をとらええながら、迫る。


「先生、私、来月成人するにあたって、先生にお願いがあります。前々から言ってることですけど―――」


「おや、奇遇だね。実は私も、君が来月成人したら、君にお願いがあるんです。とても大事なお願いがね」


 シグルトは手にしていた最後のサンドウィッチを口へ放り込む。


「へ? なんですか?」


 思いがけない言葉に、話を遮られたことも怒れず、問い返す。シグルトは焦らすようにサンドウィッチをゆっくり味わい、飲み下した後で、まるで悪戯いたずらを企む子供のように、にやりと笑った。


「成人したら、と言ったでしょう? 楽しみにしてなさい」


 その時、馬車が止まった。


「着きましたね。ギリギリ間に合った。急がないと」


 御者が馬車の扉を開き、さっさと降りるシグルトに慌ててリシェルも続いた。




 

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