小久保さんのお正月

増田朋美

小久保さんのお正月

小久保さんのお正月

今日も、御殿場駅は、お正月だからと言って、初詣に行く人でどんちゃん騒ぎになっている。家族連れだったり、カップルだったり、友達同士だったり、みんな複数で塊になって、駅を出て、神社に向かっていくのであった。御殿場は、一種の観光都市である。通勤をするというよりも、観光目的で、御殿場にやってくる人のほうが圧倒的に多い。そういう人たちは、みんな、にこやかな顔をして、楽しそうな雰囲気で出かけていくのだった。

そういう事とは、今年も無縁だなあと、小久保哲哉さんは、苦笑いを浮かべながら、いつも通り、裁判の資料を、読んだりしていた。今年行われる裁判は、確か、幼い娘の首を絞めて殺した母親の刑事裁判から始まるはずだ。確か彼女の裁判は、単純な事件で終わるといわれているのだが、多分きっと、そういう事件ほど、複雑な事情を持っている物だという事は、小久保さんも知っている。ただ、標的が小さな子どもであり、大量殺人というわけでも無く、被告が非常に複雑な過去を持っていたような女性という訳でもないので、余り詳しく報道はされなかったのだ。それよりも、年末に海外に逃亡した、クルマの製造会社の社長のニュースばかりで、そういう小さな事件の事は、余り報道されなくなっているのである。

どうせ、自分の家には、お正月のおせちを作ってくれる人もなく、かといって一人分のおせちを買う気にもならず、小久保さんは、いつも通り、インスタントラーメンをおせち代わりにして、裁判の資料を眺めながら、お正月を過ごしたのであった。どうせ、初詣に行く相手もおらず、願い事をするわけでもないので、何も変わり映えのない、正月である。

どうせ、今年も、どこにも行くわけでも無いし、一緒に行くはずだった妻や息子も、家を出て行ってしまって、もどってきそうな気配もないし、一人さびしい正月だなあと、あーあ、とため息をつくのである。

不意に、玄関のインターフォンが鳴った。こんな時に誰だろう、と、小久保さんは、椅子から立ち上がって、玄関先まで行った。

「こんにちは。」

と、玄関先から声がする。誰か聞き覚えがある声である。

「あの、伊能蘭です。レポートを届けに来ました。」

玄関ドアを開けると蘭だった。

「伊能蘭さん。どうしたんですか。こんなお正月に、何を持ってきたんですか?」

と、小久保さんが言うと、

「あ。あの、年末に出されたレポートを、提出期限に間に合うように、作りましたんで、添削のほど、よろしくお願いします。」

と、蘭は、車いすのポケットから、茶封筒を取り出した。

「ああ、もう少し、遅くてもよかったのに。なんでこういう時期に、わざわざ持ってきたりしたんでしょうか。周りも人が多くて大変だったでしょう。」

と、小久保さんは、蘭にそういったが、蘭は、にこやかに笑ったまま、

「いえ、大丈夫です。人ごみを車いすで行くのは、何回も経験していますので、慣れています。」

といった。でも、小久保さんは、彼が、レポートをもって来たのを、うれしく思って、蘭に家に入ってもらうように言った。

「ありがとうございます。でも、お邪魔じゃないんですか?」

と、蘭が聞くと、

「いいえ、大丈夫ですよ。どうせ、男一人の、つまらない部屋で、申し訳ないです。ちょっと散らかっていますけど、お茶くらいなら、出せますから。」

と、小久保さんは、部屋の中へ蘭を部屋の中に入れた。蘭は、有難うございますと言って、小久保さんの居間に入った。

「はああ、すごいですなあ。やっぱりさすが、法律の専門家というだけありますね。本がいっぱいありますね。」

と、蘭は、部屋の周りを見渡した。

「ええ、古本屋で見つけた、昔の本ばかりです。まあ、昔の本のほうが、的確に答えを出してくれるようで、気に入ってますよ。今の本は、答えがはっきりしていませんし、作者の主張がしっかり伝わって来るような本は、なかなかありません。」

と、小久保さんは禿げ頭をかじった。確かに、それは分かる気がする。昔の本のほうが、方向性というか、そういうことはあった。今の本は、確かに、筆者の主張が弱いというか、そういうところが、はっきりしない時代になったなあと思うのである。

「そうですね。小説でもなんでも、筆者の主張というより、テレビゲームをそのまま書籍化したような本ばっかりで。僕も最近の小説は好きではありません。そういうモノより、若い人や迷っている人にメッセージを投げかけてやるような本は、昔の本のほうが優れていますね。それは、僕も知っています。」

と、蘭は、一つため息をついた。

「ええ、そうなんです。昔の本のほうが、若い人の生きる道を示してくれていたりするのですが、今の時代は、その本が示してくれているメッセージとは、逆の方向へ行こうとしていますな。それでは、いけないと思うんですけどね。」

と、小久保さんもにこやかにため息をつく。

「それで、レポートですが、先生が出してくれた課題を、一生懸命自分なりに考えて、描いてみました。僕の、つたない考えですが、それなりに、描いてみたので、一寸添削をお願いできませんか?」

と、蘭に言われて、小久保さんは、茶封筒を開いた。三十枚くらいの分厚い紙の束に、手書きでしっかりと、流暢な字が書かれている。

「ちょっと拝読させていただきますね。」

小久保さんは、老眼鏡をかけて、それを隅々まで見た。確かに、しっかりと書かれているし、文章もきれいだし、何処も間違っていない。だけど、小久保さんは、蘭のレポートは、几帳面すぎるような気がした。こんなに一生懸命書いているけど、内容はとても実現できなさそうなことばかりなのだ。

「そうですねえ、しっかり書かれているのですが、もうちょっと、現実的にならないと。蘭さん。確かに、日本には、たくさんの被差別民というのがいましたが、それがすべて、異民族であるとは限らないという事を忘れてはなりません。海外では、異民族専用の学校を作ったりとか、そういう事をしていますけどね、それは、古くから、異民族と共生しようという考えがあったからでしょう。」

「そうですか、、、。」

小久保さんの指導に、蘭は、がっかりとしてしまったような態度を見せた。

「蘭さん、このレポートはよく書けていますが、日本の過去というものも、把握して、もうちょっと描き直してください。」

と、小久保さんはそう言って、蘭にレポートを渡した。

「日本の人権問題を勉強するには、日本の現在だけではなく、過去の事も、勉強しなくてはなりません。蘭さん、現在の事への対策ではなく、過去にあったことまでしっかり目を向けて、もうちょっと、

深いレポートを、描いてきてください。」

「わかりました。締め切りは一週間でよろしいですか?」

と、蘭が聞くと、

「まあ、一週間何て言わずに、もっとゆっくり考えてきてください。多分一週間では、こういう勉強は効果なしです。こういう勉強は、正解も何もはっきりしていないでしょうから、自分なりに、答えを考えて、それを自分なりの文章でしっかり考えてきてください。」

と、にこやかに笑って、小久保さんは言った。

「それに、私が勝手に調べていたことを、勉強したいなんて、いったい何があって、あなたはうちまで、来たんですかな?」

確かに小久保さんにしてみれば、そういうことを思っても仕方ないかもしれなかった。蘭も、これでは、理由を話した方がよいなと思った。

「ええ、僕は、親友がいましてね。小学校時代の同級生なんですけど、彼が、富士市内での、立ち入り禁止の区域から、小学校に通っておりました。僕は、その時の状況をちゃんと知らなかったんですけど、彼は、その立ち入り禁止の区域で、銘仙の販売をやっている家に生まれました。それがどういうモノなのか、僕は何も知らなかったんですけど、彼がいつも同じサイズの体操着ばかり着て、学年色をペンキで塗り替えた上履きを履いて、学校に来ていたのが不思議で。それで僕は、いつも、彼にちょっかいを出しておりました。」

と、蘭は話し始めた。その彼の名を話すことは怖くてできなかった。

「僕は、面白かったんです。周りの人が、学年を上がるたびに上履きを変えるのに、彼だけが、上履きをペンキで塗り替えて、きついサイズになっても変えようとしないんですから。大きくなって履けなくなったら、素足で登校してきたりして。担任の先生は、何も言わなかったんですけど、彼は、そういう男でした。それをからかうのが、僕は面白くて。」

「そうですか。人間ですから、それに、子どもですから、仕方ありませんよ。」

と、小久保さんは、蘭を慰めた。

「僕は、今から見ると本当にバカだったと思います。彼が、貧しくてそうしているのを、面白いとおもって、いじめてしまったんです。彼は、自分の身分上、犯行できなかったんだと思います。でも、僕の母が、彼のほうが、僕にちょっかいを出してくると言いがかりをつけて、彼のご家族に多額の賠償金を支払わせて、彼のうちは、一家離散という形になって、、、。」

蘭は、その先をいう事は出来なかった。小久保さんはそういう蘭に、そっとタオルを渡してあげた。

「そうですか。仕方ありませんよ。日本の部落問題というのは、今はそうなってしまうのです。子どもである以上仕方ありませんよ。それは、当時、周りの人がもうちょっと、彼について、というか銘仙の着物について、もうちょっと詳しく話していればよかったんですね。蘭さん、それは子供だったんですから、仕方ありません。きっと、彼の方も、そう思ってくれているんじゃないですか。」

「そうでしょうか。彼はきっと、僕の事を恨んでいるんじゃないかって、そればっかり考えてしまって。だって、こないだも、僕は、年末の挨拶に、彼の住んでいるところに行きましたが、、、。」

蘭は、ここからまた言葉に詰まった。

年末、蘭は、一度でいいから水穂さんに会いたいと思って、製鉄所に行ったのだ。製鉄所の正門をくぐることはできたけれど、玄関の戸を開けると、そこには由紀子さんがいて、こういうことを言うのである。

「蘭さんなんですか。こんなところにわざわざ来て。もう来ないでくださいよ。あなたなんかに、水穂さんは、会いたいと思っているはずはありませんよ!」

由紀子は、そういうことを言った。

「どうしてそんなに。僕は、ただ水穂に会わせていただきたいだけです。五分だけでいいですから、会わせていただけないでしょうか!」

由紀子に蘭は、頭を下げる。

「いいえ、他の人がいいといったとしても、あたしは許しませんよ!蘭さんが、水穂さんにどれだけひどいことをしたのか、あたしは、知っているんですからね!そんな張本人を、被害者である水穂さんに会わせることはできません!」

と、由紀子はそう言って、蘭に向けて何かをぶちまける。

「塩辛い!」

つまり彼女がぶちまけたものは、塩であった。嫌なお客を返す、お清めの塩であった。蘭は、仕方なく、すごすごと元の道へ帰った。

「そうですか。」

と小久保さんは言った。

「そういう事なら、もういいじゃありませんか。彼は、そうやって、自分の事を守ってくれる女性がいるんですよ。それなら、その女性と、安心して暮らしていけるようにするのが、蘭さんの務めじゃありませんかね。」

蘭は、また悔し涙を流した。

「そうしてやってください。人間、長くくっつき過ぎると碌なことになりません。蘭さん、それを頭に入れて、もうちょっと、彼を静かに生かしてやるようにしてください。」

と、小久保さんは、蘭にそういう事を言う。

「蘭さん、彼への想いは、ご自身で思っておくのが一番だと思いますよ。」

「はい、、、。レポートは、来週には必ず提出しますから。」

と、蘭は、そう言って、今日のところはお暇しますといった。小久保さんは、三十枚も書かなくてもいいから、自分の考えをしっかり書くようにと言った。蘭が、すみませんと礼をして、車いすを方向転換しようとすると、小久保さんの机に大量に置かれていた資料がドドドっと落ちた。

「あ、ああ、すみません。しっちゃかめっちゃかにしてしまって。」

「いいえ、大丈夫です。もともと私も、整理整頓が苦手な方でして。資料も、適当に置いてしまうんですな。」

と笑いながら小久保さんは資料を拾い上げた。その中に、ある女性の顔写真があったのを見て、蘭はちょっと驚く。

「これ、あの、西村聡子ですよね。」

蘭は聞いた。

「ええ、私が、弁護を依頼されて、彼女を弁護しているんです。」

と、答える小久保さん。確か、西村聡子の名は、報道で聞いたことがある。

「あの、芸能人の西村聡子ですか?」

と、蘭が尋ねると、小久保さんは、静かに頷いた。報道によると、三歳になる、娘の浪江ちゃんの首を絞めて殺害したという事だった。その直後に、有名な車の製造会社の会長が、海外に逃亡したというニュースが流れたので、西村聡子のニュースは、さほど詳しく報道されなかったのである。

「そうですか。その西村聡子の弁護を小久保さんが引き受けたんですか。で、どんな女だったんでしょう。娘を直接手にかけて殺したわけですから、相当恨みがあったという訳でしょうかね。」

と、蘭は、一般的に言われる理論を言った。

「そうですね。でも、そういうことは、当てはまらないんじゃないかなと私は弁護していて思うんですよ。彼女はですね、決して浪江ちゃんを愛していなかったわけじゃないと思うんです。」

と、言う小久保さんに蘭は、どういうことですかと聞いてみた。

「ええ、浪江ちゃんを愛していないという訳ではありませんでした。むしろ、彼女は芸能人という多忙な職業についていましたから、おかあさんのほうが、浪江ちゃんの世話をしていたそうなんです。しかしですね、彼女は、それをめぐってよく、お母さんと衝突していたそうなんですよ。浪江ちゃんを手にかけてしまったのは、お母さんがこれ以上ちょっかいを出さないように、という意味で手をかけたんです。」

と、小久保さんはそう言った。

「お母さんがちょっかいを出さないように、そんな理由で、娘を手にかけたんですか?それはちょっと、いけないんじゃありませんか?」

と、蘭はそう言うのだが、小久保さんは、そうですかねえといった。

「それはどうでしょうかね。西村聡子は、娘の浪江ちゃんを、自分が芸能人であるからこそ、浪江ちゃんが、傷つかないように配慮しようと思っていたそうです。それで、浪江ちゃんが、保育園でいじめられたりしないよう、わざと遠方の保育園に行かせていたりしたそうです。」

蘭は、そういうことを言われて、でも、不自然だなと思うのだった。

「其れなら、おばあさん、あ、あの、西村聡子の母親ですが、彼女に任せていればよかったんですよ。西村聡子の母親という資源をうまく使えばよかったのに。そうすれば、お母さんとおばあちゃんで、上手く分け合って育児ができるじゃないですか。」

と、蘭は、急いで、そういう事を言うのであるが、小久保さんは、それはどうかな、と首を傾げた。

「其れはどうですかねえ。私は、そうは思いませんでしたね。むしろ彼女は、浪江ちゃんを一生懸命育てようと考えていた様ですよ。」

「じゃあ、おばあちゃんの手を借りようというのは、間違いだと思っていたんでしょうか?」

「ええ、そうではなくて、自分で育てる事こそ、育児だと思っているんでしょう。それをし過ぎるあまり、殺人という事に至ってしまったんだ。」

小久保さんがそういうと蘭は、ちょっと腑に落ちない顔をした。

「それでも、芸能人というのは、ただでさえ、普通に生活なんてできやしません。だから、それはそうだと割り切って、誰かの助けを借りるというのも、間違っては居ないんじゃありませんでしょうか。」

「いいえ、彼女はそう思えなかったのでしょう。浪江ちゃんを愛するあまり、自身でしっかりと自分の手で育てようと、一生懸命やっていたはずですよ。それが、裏目に出てしまったというか、今回の事件はそういう事だったんだと思うんです。弁護士という職業上ね、悪い奴を保護するようなそういうことをしていると思われがちですけどね、やっぱりどんな悪いことをする奴でも、理由があって、するんですよね。」

「そうですか、でも、悪いことは悪いという事ではないでしょうか?」

と、蘭は、もう一回そういうことを言うのだが、

「いえいえ、愛するという事は、ときにこうして的を外してしまうという事もあるという事です。それは、そういう事ですよ。だからね、蘭さん。私はその彼の名を知らないけれど、やりすぎはやっぱり良い結果を生まないという事も、覚えておいた方がいいんじゃありませんか?」

小久保さんにそういわれて、蘭は、がっくりと頭を下げた。

「蘭さん。確かに、そのことをとても後悔しているという事は分かりますけど、いつまでもそのことを根に持っていたら、前には進めないという事もありますよ。そういうことは、もう気にしないで前向きに行ってみてください。」

「そうですか、、、。」

蘭は、一つため息をつく。

「小久保先生。僕は、彼に何をしてやったらいいんですかね。」

蘭は、思わずそういった。

「そっとしておくことが一番なんじゃないですか。蘭さんは、しずかに彼の事を見守ってやればいいのです。それが、あなたにとって、彼に対しての、一番の償いだと思います。」

小久保さんにそういわれて、蘭は

「其れで何になるんでしょう。」

と、聞いてみる。

「ええ、なにか変わるという事もないと思います。でも、変わらないという事はね、私は、素晴らしいことだと思うんですよね。それでずっとやってこれたっていうのも、素晴らしいいと思うんですよ。やっぱり人間、変わってしまうと、それがきっかけでまたおかしくなることもありますからね。」

と、小久保さんは言った。弁護士らしい、しずかな答えだった。蘭はちょっとそういう答えを出されるのは、一寸不愉快であったけれど、とりあえず静かに頷いたのである。

「本当にありがとうございました。あの、彼女の、西村聡子の弁護、頑張ってやってください。」

蘭は、そういって、車いすを動かした。

「それでは、レポートは、来週には提出しますから。また、添削をよろしくお願いいたします。」

「はい。よろしくお願いいたします。」

と、小久保さんは、蘭を玄関先まで送りだした。蘭は、ありがとうございました、と言って、静かに小久保さんの家を出て行った。


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小久保さんのお正月 増田朋美 @masubuchi4996

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