第30話

朝美は夢を見た。

誰かがいた。

(誰・・・だあれ?)

返事はなかった。真っ黒いかたちをしていた。

その真っ黒いのは人だった。まったく動かない。

しばらく、静寂があった。

(あっ、あなたに会ったことがありますよ)

それでも返事はない。

(ねぇ!)

(わたし・・・あなたのこと、気付いていた、これまでは、形としてはっきりしていなかったの、くろくて、もやっとしていた、でも、きょうはちがう、わたし、はつきりみえるの、ねえ、だれ?)

やはり、返事はない。

(ねえ、ねえ)

それでも、黒い影は振り向かないし、何も答えない。

夢の中の朝美が余りにしつこいからか、

(まって、まって)

黒い影はだんだん薄くなり、消えて行きそうに見えた。

そして、消えた。

朝美は目を開けた。


伊勢志摩からの旅行から帰ると、一幸は朝美と会った。

大きな船が見たいというので横浜に来ていた。私の家の周りは山ばかりなの。朝美がこう言っていたのを思い出した。荒っぽい海の匂いのする風が、朝美のスカートを乱していた。彼女は少しも気にせずに一幸の前を歩き、時々振り向き笑顔を見せていた。

「なぜ?なぜ、なんだ?」

一幸は朝美が振り向いた時、叫んだ。

朝美の目が冷たく光った。

「なぜ?何のこと?」

朝美は聞き返した。

こいつ私のことをからかっているのか、と一幸は侮蔑を籠め、朝美を睨み返した。

「何ですか?言いたいことをはっきり言って下さい」

「お前は・・・」

一幸は苛立ってきた。私が、私が、俺がどんな気持ちなのか、分かっているのか。何を企んでいる。彼の考えは想像の中でずっと先に進んでいた。一幸はもう黙っていられない。

「な、何を言っているんだ。お前、いや君には私の気持ちが分かっているはずだ。朝美、私に隠れて何をやっているんだ?私の家族の中に入り込んで来て、どうするつもりなんだ?私を、滅茶苦茶にするつもりなのか?私は言ったはずだ。家族を壊す気はないと」

一幸はいつ言ったかはっきりとした記憶はなかったが、確かに言ったような気がした。頭がぼーとなり、一二歩ふらついた。

「私は・・・」朝美は憎たらしいほど落ち着き払っているように見えた。「あなたの家族を壊す気はないわ」

「うそだ。嘘とわかるような嘘をつくな」

「嘘じゃないわよ」

一幸は手を強く振り、違うと怒鳴った。

「圭子に近づくな。私の家族に、これ以上近づくな」

一幸の体は小刻みに震えていた。もう自分では制御出来ない心の状態になっていた。もう少しで二十歳になる女に操られているような感覚だった。もう、だめだ。彼は今の自分を冷静に見れない。

「あなたの奥さんとは偶然知り合ったのよ。あなたの奥さんって知らなかった。あの雨の日、あなたの奥さんって分かったのよ」

「嘘だ」

「嘘じゃない」

なぜだか分からないが、一幸の苛立ちは鎮まることはなかった。彼自身感情を制御出来ない心持ちになっていた。彼は自分の前にいる女を見た。この女は妙に落ち着き払っていた。それが一層彼の気持ちを苛立させ、落ち着かなくさせていた。「お前は最初から圭子を知っていた。私には分かっている。俺の妻、圭子と知って近づいたんだ」

「私が、この私があなたの奥さんだと知って近づいたですって」

朝美は笑いを堪えるのに懸命だった。自分でも驚くほど落ち着き払った目で一幸を観察していた。今なら一幸の心を握り締め、悶え苦しませることだって、やろうと思えば出来る。


(まだだ)

と彼女は高揚する気持ちを抑えた。

「どうして私があなたの奥さんを知っている必要があるの?」

「あの時・・・五月の日、お前は圭子を見ているはずだ」

一幸は少し目をつぶった。

「あの時・・・夢だったのか、違う、違う、夢なんかじゃない」

朝美は唇をゆがめた。

「お前は、あの夏の日から圭子に目をつけていた。いや、俺の家族を標的していいた。なぜだか分からないが、そうとしか考えられないんだ」

去年の夏、家族で新宿に出た帰り、電車の中と家の入る時に見た少女を思い浮かべた。あれは確かに朝美だった。その数日後、仕事の帰りに雨の中で傘を差さずに立っている少女がいた。朝美だった。数日前に見た少女、朝美だからこそ車を止めたのである。

「あなたはなにをいっているの。今日のあなたは変よ」

「うるさい。俺は少しも変じゃない。もう一度いうこれ以上俺の家族に近づくな」

「なぜ、私があなたの家族を壊す必要があるの?教えて!」

「私は幸せだったんだ。それをお前は壊した。しあわせ・・・だった」

一幸はひとり言のように呟いた。だが、実際はまだ一幸の家族は壊れていなかった。そして、まだふこうでもなかった。


やはり、佐野一幸は朝美を抱いた。

「しあわせ・・・」

朝美は一幸の耳元でささやいた。

一幸は何も言わなかった。その代り、激しく朝美の体を求めた。久し振りだった。乳房の匂いはまだ覚えていた。圭子にはない未熟な匂いだった。彼はその匂いが好きだった。左の乳首を親指と人差し指でつかみ、力を入れた。朝美の体が激しく揺れた。

朝美の口から言葉にならない声がもれた。一幸はその言葉を吸った。一幸の舌は朝美の口の中に入り、彼女の舌を探した。まだ彼女の舌の感触をはっきりと覚えていた。なかなか朝美の舌に触ることが出来なくて、彼は思い切って自分の舌を奥の方に入れた。そこでは、何かを求めるかのように朝美の舌が動いていた。

一幸は朝美の舌を誘い出した。そして、彼女の舌が唇の近くまで出て来ると、舌を激しく吸った。

「しあわせ・・・?」

朝美は問いただしてきた。

朝美が一幸の体を抱き寄せた。

一幸はゆっくりと朝美の体の上に乗っていった。朝美の目は薄く開いていた。それでも彼女の黒い瞳ははっきりと一幸を捉えていた。一幸は腰に力を入れた。

朝美は目を閉じ、彼女の爪が一幸の背中に食い込んだ。

「離さないで。絶対に離さないで」

朝美は一幸の耳を噛んだ。

痛みが走る。一幸は少し顔を歪め、

「は、離すものか」

と答えた。自分でも何と言ったか理解した。十数分前なら言えなかった言葉である。それなのに、今言った言葉に少しの後悔もなかった。しかし、また後悔するかもしれない。今は、今は朝美を離したくなかった。そう感じた。

これが私なのだ。これでいい。一幸は朝美の下唇を強く噛んだ。


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