第31話
八並朝美は目を閉じた男の顔を見ていた。眠っているのか・・・?彼女には良く分からない。人の考えていることが分かるのに、この人の心が読めない時がある。これまで何回となく関係を持ったが、今日のような激しい行為は初めてだった。
朝美は静かにベッドから出て、ホテルの窓のカーテンを少し開けた。
眩しい!
朝美は手で目を覆い、目を細めた。
瞬間、視界は白い世界になったが、すぐにいくつかのビルが現れて来た。
一時間ほど前、このホテルの前で、
「泊まるの?」
と朝美は聞いた。
「余計なことを考えなくていい」
一幸は朝美の腕をつかみ、ホテルの中に入った。
「伊勢・・・どうでした?」
一幸は黙っていた。彼女は一幸をちらっと見たが、それ以上何も言わなかった。伊勢市は大台町本里から車で二十分ほどである。一幸たちが行ったであろう伊勢神宮にはあんなに近くにあるのに、三度か四度しかない。彼女は強く頭を振り、思い出されてくる回想を消した。今は由紀子のことも修のことも考えたくなかった。
朝美はカーテンを閉めた。エアコンが効いていて、裸の彼女には寒いくらいである。
一幸はまだ寝ていた。
私は幸せだったのか、と一幸は彼女に言った。その時の一幸の表情を、彼女は浮かべていた。幸せでない影が見え隠れする表情だった。彼女はふっと考える。もう目的は達したのだろうか?
(いや、まだ)
彼女は即否定した。
朝美は静かにベッドに入った。一幸は起きそうにはなかった。昨夜は寝ていないのだろうか?まさか今頃旅行の疲れが出て来たのか?朝美はすぐに考えるのをやめた。この人が昨日の夜寝られたのかなんて余計な気づかいだった。そんなことは、彼女にはどうでもいいことだった。
(幸せだった・・・?)
朝美は笑った。その自分の笑い声に気付き、彼女は驚いた。圭子に聞かせたいことばだった。
旅行中、多分楽しめなかったに違いない。多分、今日は私を抱く気分ではなかったに違いない。それなのに、抱いた。死んでと言ったら、この人、今なら死ぬかもしれない。
朝美はふうっと吐息をついた。ここまで来たのが早いのか遅いのか、よく分からない。一幸は遊びなのかもしれない。しかし、朝美は遊びで抱かれているのではない。
だから、もう遊ぶ気もない。もともと一幸のことなど好きでもなんでもない。二年前、新宿でこの人の家族を見て、幸せな家族に見えた。そのような家族は他にもいたはず。なぜ、この人の家族にそう感じたのか分からない。
朝美は、父修のことを考えた。
一度、珍しく伊勢に買い物に出かけたことがある。高校二年の十一月ころだった。携帯の新しいのが欲しいと言ったら、いいわよと珍しくすぐに返事が返って来た。もうすぐボーナスが出る時期だったことも良かったようだ。
初め、由紀子と行く予定だったのが、彼女に用事が出来、修と行くことになってしまった。修と二人で家電龍反転の中を歩いている光景を思い浮かべると、すごく重苦しい気分になってしまった。
いい。別の日にすると言うと、売り出し期間が終わってしまうと由紀子に一括された。その日行くしかなかった。父修と一緒に外に出るのは中学生の時はあったかもしれないが、高校になってからはなかったような気がした。
本里から伊勢に出る道は裏道を通ることになり、余り人に知られていない。途中ミカン園があり十二月ころから甘い香りが少し開けた窓から入ってくる。甘い香りに負け、車を止めてでも窓を開けたくなる。もちろんミカンを取るためである。でも、誰もそんな盗人みたいなことはしない。みんな善人なのではなく、しないものだとそれぞれがかってにおもっているだけである。
車は伊勢市駅前外宮前から踏切を渡り、東へ五分走ると、家電量販店がある。
「お父さん、こっちよ」
朝美は先に歩いた。それほど伊勢市には来ていないけど、この前クラスメートの由美子と遊びに来た時の店内をぶらついたことがあつたので覚えていた。
「ああ」
と修は虚ろな返事をし、朝美の後をついて歩いた。
小さいころのことはなぜか覚えていない。彼女の記憶の中は、なぜか真っ暗闇なのである。なぜなんだろうとは考えなかった。人もそんなものなのだろうと思っていたから。だから、深く考えるようなことはなかった。
朝美は店内を歩きながら何度も後ろを振り返った。ここに来たことはないのかな、と
彼女は後をついてくる父を見て思った。父一人で何処へ行ったなんて、彼女は聞いたことがない。由紀子から何処へ行ったとか今何処にいるとか聞く。彼女から聞くのではなく、由紀子がかってに話し掛けて来る。彼女は聞くともなしに聞いている。
「お父さん、こっちよ、二階なのよだよ」
朝美はエスカレーターの前で足を止め、修が来るのを待った。
「うっ」
と修は頷いた。うん、と言いたかったのかもしれないが、言葉にならなかったようだ。朝美は父と並んでエスカレーターに乗った。何処かの知らないおじさんと並んで歩いている気分だった。横にするのは、何処かの小父さんではなく、父だった。
朝美はこんなに近くに父を感じるのは初めてだった。こう思った瞬間、頭の中が真っ暗になった。ふらついたので彼女はエスカレーターの手摺りのベルトをつかんだ。
「どうした?」
修は朝美の異変に気付いた。娘の体を支えようと腕を出したが、なぜか思い留まり腕を引っ込めた。
「だ、大丈夫よ」
朝美は修の腕に気付いた。彼女は無理にその腕を避ける気はなかった。彼女が反応をする前に
修の腕が引っ込まれていた。
「お父さん、ごめん」
朝美はこう言うと、トイレに駆け込んだ。彼女は気持ち悪くなり、黒いものを吐いた。彼女は、血・・・と思ったが、血ではないようだった。
今考えても頭がふら付いた理由も気持ちが悪く原因も思い当らなかった・・・全く思い当らなかったわけではない。体の中で得体の知れない、そうだ、黒い何かが存在しているのが良く感じ取れていた。ただそれが何なのか分からなかった。ずつと気になっていたことであり、時々黒い何かが彼女を何処かへ連れて行こうとした。その度彼女は必死に耐え、ここにいようと踏ん張っていた。
一幸が動いた。
朝美は急いで今の自分に戻した。一幸は目を開けた。朝美は体を摺り寄せ微笑んだ。
「起きていたの?」
一幸はあくびをした。
「私も少し眠ったわ」
「そう」
と言った。
「私は良く寝ていたらしいね。いろいろあったから疲れていたようだ」
「何かあったの?」
「何か・・・」
一幸は憎悪を込めた目で、朝美は睨んだ。彼の口が動いている。何かしゃべろうとしている。 朝美はにこりと微笑んだ。一幸はその微笑みにつられ、口の動きが止まった。そして、朝美から目を逸らした。
「余り家には来ないで欲しい」
「あなたが迷惑するなら」
「頼むよ」
一幸は目を逸らしたままだった。
「また会える?別れたくないの」
朝美は男の胸に耳を当てていた。一幸の返事はなかった。
朝美は一幸の体の上に乗っていった。今度は朝美から一幸を求めた。誰に教わることもなく覚えてしまったことだった。この二年間に、一幸が教えてくれたのかもしれない。少しも恥ずかしさをかんじない行為だった。愛というものがない男との関係だった。だが、彼女自身、男と女の関係を楽しんでいたことは否定しない。
お前はセックスに魅せられた女だけと違うのか?ただの淫乱女だ。朝美は何度も自問していた。そのたびに彼女は即否定した。
私はこの男の家庭の幸せを壊すのが目的。それ以外考えていることはない。
朝美の最後に行き着く答えだった。この答えを自分の心と体に納得させていた。だが、なぜ 佐野一幸の家庭でなければならないのか、という問いの答えはなかった。
一幸は朝美の体をぐるりと回し、下にした。そして、また朝美の若い体を求めた。これが、 一幸の答えだった。
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