第29話

八並朝美が一幸の家にやって来るのが多くなった。一幸はそのように感じていた。

「そんなことは、ないわよ」

圭子は夫を睨み、平然といった。

一幸はそんな態度の圭子に苛立っていた。滅多に見せない人を侮蔑する表情を、京子はする。苦々しいが、そんな自分を楽しんでいるように、一幸には見えることがあった。しかし、 自分の気持ちを表す言葉が出て来ない。

圭子は朝食の後いつものようにコーヒーをゆっくり飲んでいた。子供たちはもう自分の部屋に戻っていた。良子は今日は何処にも行かずに、家にいるらしい。洋一は・・・どうするのか、圭子に聞いても知らないといっていた。

「それは、朝美さんが来た時に、いつもあなたがいるからよ」

と圭子はいった。

一幸ははっとした。そうだ。それなのに、あの日以来朝美の行動は一幸に対して挑戦的になってきている。まるで一幸がいる日を狙って、朝美はやってきている。

(どうしてだ?)

一幸には朝美の行動の意味がはっきりと推理することが出来なかった。ただ、自分が追い詰められて来ているような気がした。

佐野一幸の会社は八月の初めに八日間の夏休みに入っていた。毎年、この時期一幸の提案で、家族みんなで三泊四日の小旅行をすることにしている。今年はもう一泊延ばして伊勢志摩に行くことにしていた。二日後、出発の予定だった。

洋一と良子はこの旅行に行くのが嬉しいようで、修学旅行とは違う気分のはしゃぎようだ。圭子は家を空けた時の冷蔵庫の中のものとか洗濯物とかの段取りがあるらしく、忙しい日々を送っていた。この頃のざわざわした気持ちを消してくれるいい気分転換になると一幸はそう期待していた。

明日家を出るが、今日は久し振りに一人で映画でも見ようか、と一幸は思っていた。今日も朝美がやってくるような気がしてならなかった。この気持ちを無理にでも落ち着けたかった。朝美から少し間離れていたかった。やってきた朝美に対して、みんなの前でどういう態度を取ったらいいのかわからなかった。親しい態度は圭子の目が気になった。そうかといって他人行儀はわざとらしかった。だから、出来るだけ近付かないようにしているしかなかった。

だが、八並朝美は少しずつだが確実に一幸に近づいて来ていた。

悲しいことに一幸にはそれが良く分かった。段々とだが、彼に迫って来ていた。彼の戸惑いと恐怖の入り混じった目が朝美を睨んでも、彼女を歩みを止める威力は少しもなかった。彼女の甲高い笑いに小さな笑いで応えるのが精いっぱいだった。

「来るな」

それ以上私に近づくなと願うのが、彼の出来る抵抗だった。

朝美に何度電話しようかと思ったことか。だが、一幸の心は動かない。何と言えばいい。家に来ないでくれというのか。言った所でどうなる。朝美はもう来なくなるのか。そんなことはないと一幸は妙なことだが確信する。朝美は私に会いに来ていないのである。圭子、良子に会いに来ている。それに朝美は洋一とも親しく話していることがある。

「じゃ、行ってくるよ」

一幸は家を出るとこれまで感じたことのないほっとした快い気分になった。以前は全く感じたことのなかった安堵感である。

映画を見てくるといって出て来たが、見たい映画はなかった。十一時を回っていた。九時半ごろ朝食をとったから、まだ昼食を食べる気にはなれなかった。

夏の肌を突き破る陽射しだった。一幸の好きな季節だった。足を止め、空を見上げた。夏の空の色は背負うには重い深海ブルーをしていた。太陽は何処かと瞬間考えた。ちょうど真上に太陽はいた。首も痛いこともあってそれ以上上向きにせず、太陽を見られなかった。

一幸は目を落とした。夏の空の白い残像が彼の目の中に残っていて、辺りがぼんやりとしていた。その視界の中に、朝美の姿を認めた。

最初、一幸は自分でも幻でも見ているような気がした。心の何処かで朝美であって欲しいと思っていたが、幻ならそのまま消えてしまえと思った。彼は一歩も動くことが出来なかった。彼女は一人ではなかった。朝美だけなら彼の心は動揺はしなかった。堪えられないことに朝美と親しく歩いてくるのは息子の洋一だった。

佐野洋一は中学三年だが、体格はいい方だった。朝美はそれ程身長は高くなかった。若い恋人同士見えないこともなかった。一幸にはここまで来るのにすれ違ったどのカップルよりも仲の良い二人に見えた。

二人はまだ一幸に気付いていないようだった。こっちに向かってやって来る。一幸はこのまま進んで行っていいものか迷った。

だが、この彼の迷いはすぐに消えた。

八並朝美が一幸に気付いたのである。彼女は一幸にゆったりとした微笑みを返した。これまで彼に見せたことのない女の子の笑顔だった。一幸は呆然と立ち尽くした。動けなかった。動けないことが自然の営みに、一幸は感じた。それなのに彼の口の周りはこわばり震えている。

洋一が父である一幸を見て笑っている。美しく濁りのない笑顔だった。洋一が朝美に話しかけている。朝美が洋一に顔を近づけ、洋一に今にもキスしそうにも見えた。

「お父さん」

まだ声の聞こえる距離ではなかったが、洋一の口の動きはそう言っていた。

一幸は不器用に手を上げ、笑った。いつもの自分の笑顔かどうか、彼は自信がなかったので、手で頬を揉んだ。

「何処へ行くの?」

近くにに来ると洋一が聞いてきた。

「久し振りに映画を見ようと思ってね」

一幸は朝美の反応が気になった。彼の出した言葉は微妙に震えていた。自分を見ている彼女の視線が気になったのである。

朝美の小さな瞳は一幸を見据えたまま動かなかった。

朝美は、今日は、と言った。

一幸は何も言わずに、洋一に目を戻した。

「そうか、そうだね。お母さん、お父さんは映画を見に行ったといっていたけど、もう映画見たの?」

一幸は、

「たまには、いいだろ」

と洋一の肩を抱いた。

「そうだね」

「お前は、どうしたんだ?」

どうしても朝美の反応が気になる。

「土浦の駅前のコンビニで会ったんです。それで洋一君を誘ったんです」

朝美は洋一が答えようとするのを遮った。彼女と洋一の目が合い、どちらからともなく微笑んだ。洋一がどことなく照れ臭そうに見える。

「映画って、何を見るの?」

「まだ、決めていないんだ」

「今、面白いの、やつていたかな?」

洋一は朝美に答えを認めた。彼女なら知っているだろうと思っているのか。

「さあ、どうかしら?」

朝美は今どんな映画をやっているか知っているけど、あなたには教えないと挑戦的な態度をしている。一幸にはそう見えた。

「いいさ。映画館に行ってから決めるさ。それよりお前・・・お前たちははどうする?」

一幸は朝美を睨んだ。

お前たち・・・こう言った自分がくやしかった。俺はおまえたちの関係を認めていないから・・・。息子をどうする気だと一幸は言いたかった。

そんな一幸の思いに気付いているのか、彼を全く無視していた。

(どういうつもりだ)

洋一をまるで恋人を見るかのような目で見ていた。

「別に、何もする予定はないよ。この人と、こうして歩いているだけで、いい気分になれるんだよ」

いつから、こんなに大人びたことを言うようになったんだ。洋一の白い歯が白く、一幸には眩しかった。

「そうか」

「旅行ですってね。聞きました。ご家族そろって伊勢の方に行かれるんですね」

朝美が一幸の言葉を遮った。

「私・・・」

朝美は言うのをためらっているのではなく、一幸の反応に興味を示していた。私・・・この後、何と言うと思いますか、と言いたげだった。彼には朝美の次の言葉を読み取ることが出来なかった。一幸の息遣いが荒い。

「馬鹿なことを言うんじゃないんだろうな」

次の彼女の言葉を遮りたかったが、言うべき文句が浮かばない。

「私も行きたいんですけど、そうはいきませんよね」

朝美は一幸をちらっと見て、すぐに目を逸らした。

「本当。ねぇ、お父さん、だめ?」

洋一は本気で父に聞いてきた。

「ば、馬鹿なことを言うな。そんなことできるわけがない。じゃ、行ってくるからな」

一幸はその場からにげるように朝美と洋一の間をとおり、行こうとした。洋一をつれた朝  美を見たからには、映画を見るどころではない。そうかといって、今から映画を見るのをやめるわけにはいかなかった。

「お父さん」

洋一が行こうとする一幸の足を止めた。

「映画、一緒に行っていい」

と言って、一幸の腕をつかんできた。

一幸の首はすぐに反応した。

「よし、行くか!」

一幸は笑みを浮かべた。ほっとする安堵感かあった。彼に二人と同じに行くという考えがあったわけではない。あからさまに私も同じに言っていいかと宣言するわけにはいかなかった。彼の気持ちを知ってか、洋一が映画に行くとねだってきたのである。よし、と一幸は思った。これで洋一を朝美から引き離すことが出来るかもしれないと彼は思ったのである。だが、そうはいかなかった。洋一にはその次の考えがあった。

「朝美さんもね」

洋一が朝美に同じに行こうと誘った。一幸の動きが止まった。

「この人は、朝美さんは用事があるんだよ」

(そう言ってくれ)

「行きたい。行っていいんですか?」

朝美は一幸と洋一の間に入ってきた。

「お父さん、いいよね」

一幸はいいともだめだともいわなかった。それを、いいということだと洋一は判断した。

映画館では一言も言葉を交わさなかった。朝美と映画を見たのは久し振りだった。映画館は満席ではなかったが、まあまあ客は入っていた。席が二つ並んで空いていた。一幸はひとり席に座るつもりだったが、洋一が朝美と一緒に座るように手で合図した。

一幸は、だめだと言って洋一を見た。

洋一は少し後ろの席に移動していた。朝美も洋一の言う通り席に着いた。一幸は朝美の隣の席に着くしかなかった。

映画を見ている間、一幸は朝美と言葉を交わせなかった。背後から洋一が見ていると思うと、くつろぐ気分にはなれなかった。ひどく重々しい気分の時間だった。一幸は何度も映画のストーリーに神経を集中させようとした。そうすることで、可笑しくなった二人の関係を忘れようとした。

だが、それが出来なかった。

(私は余計な想像を働かせているのか)

間違いなく考え過ぎている。そう思いたかった。これは彼の結論だった。だが、彼の焦りに似た想像は止まらなかった。

何かが自然と可笑しくなっていく。

(自然と・・・)

彼は首を振った。

(いや、違う)

朝美は・・・と一幸は確信してしまう。朝美はもともと私の家族を滅茶苦茶にするために、近づいてきたのではないのか?

一幸はすぐに自分の考えたことを笑った。隣に座る朝美を見た。いつもと変わらぬ二十歳の女がそこにいた。

一幸が自分を見ているのに、朝美は気付いたのか、彼の方を向いた。

「何?」

という目をしている。一幸は首を振った。

私の考え過ぎか、と一幸は思う。だが、彼の不安は消えない。

一幸は形にならない想像を考えまいとする。そうしようと思えば思うほど、彼のあらぬ想像は工作しながら動き続ける。彼はワナに引っ掛かった自分を笑った。朝美がどういうつもりでいるのか。自分の考えたことが確かなことなのか確かめなくてはいけない。朝美にはそんなつもりはないのかもしれない。


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