第28話
八並朝美は一幸の家の黒いゴツゴツしたレンガの門の前に立っていた。
(今日・・・でいいの?)
迷ったのは一瞬だった。彼女は門から中に入り、玄関のドアの前に立った。
「こんにちは」
朝美は大きな声でいった。七月二十八日。七月最後の日曜日だった。すっかり夏らしくなり、日陰にいても汗が噴き出てくる。大台町本里は周りが山に囲まれていて涼しく、宮川の河原で気持ち良い夏を過ごした朝美にとって、ここの暑さは東京での生活で唯一嫌いな季節だった。
出て来たのは圭子だった。
「あら、こんにちは。随分と来なかったね。あの雨の日、駅前で会って以来かしら」
といった後、圭子は朝美を顔から足のまで見た。
朝美は頷いた。
「ちょっとこっちに来たので寄ったんです」
「そうなの。よく来てくれたわね」
「もう夏休みでしょ。良子ちゃんと渋谷にでも行こうと思って。約束していたもので」
「そうだったわね。良子、喜ぶと思う」
「います?」
「いるわ。待っててね」
圭子は良子を呼びに行った。ドアは開けっ放しで、朝美にどうぞ入ってといっているようだった。
朝美は家の中に入った。玄関は吹き抜けになっていて、二階の廊下の手摺りが見えた。眩しいくらいの夏の太陽は入り込んでいたが、窓ガラスが紫外線を遮断しているのか気持ち良い明るさだった。彼女の目は玄関横のゴムの木に移ったが、すぐに吹き抜けの空間に目が気になった。二階の手摺りに手を置く人影に気付いた。この家の主である一幸だった。
一幸は朝美を威嚇する鋭い目を、朝美に向けていた。
朝美は笑みを作った。口を少し開き、歯を見せ、軽く礼をした。
一幸が動揺しているのが、彼女には分かった。一幸は階段を急いで降りてきた。
「どういうつもりなんだ?」
一幸は声を殺した。彼の目は階段の上を気にしていた。
朝美は答えなかった。
「何を考えているんだ?」
圭子と良子が二階から降りてきた。一幸は二人の姿を確認すると、慌てて朝美の側から離れた。
良子が嬉しそうに、
「お姉さん、こんにちは」
といって、朝美に抱きついた。
娘の行動に、あっと一幸は声を出してしまった。
「なんですか、あなた。何という声を出すんですか」
圭子は一幸を軽蔑した目で睨んだ。
「朝美さんが良子を遊びに連れて行ってくれるんですって」
朝美と良子が嬉しそうに話している。一幸がいることを全く無視している。
「じゃ、待っていてね」
良子は服を着替えに二階に上がって行った。
「良子は前からあなたと遊びに行きたいと言っていたのよね」
圭子は朝美に話している。
「夏休みには行こうと約束していたんです」
圭子は頷き、
「良子はあなたをお姉さんだと思っているようね」
と嬉しそうにいう。
「私も妹が欲しかったんです」
朝美は一幸をちらっと見たが、すぐに逸らした。
一幸はその視線を感じたが、無視した。
「じゃ、ちょうどいいのね。良子と洋一は仲が悪いわけじゃないんだけど、やはり女の子同士の方がいいのね」
良子が服を着替えてきた。
「もうすぐお昼だから、家で何かを食べて行ったら?」
圭子は行こうとする二人の足を止めた。
「有難う御座います。でも、いいんです。良子ちゃん、向こうで何か、食べよう」
良子はにこにこと顔の表情を緩めていた。
「じゃ、行ってきます」
一幸は良子にも一言も言葉を掛けることが出来なかった。
朝美と良子が出ていくと、
「彼女・・・来ると言っていたのか?」
一幸は圭子に聞いた。一幸は二人の後姿から目を離せなかった。中の良い姉妹という感じがする。だが、一幸には異常な違和感を持たずにはいられない。大通りに出て、右に曲がると見えなくなった。
「いいえ。今までだって来る前に知らせて来たことはないのよ」
あの子は何を考えている、何をしようとしている。一幸はいろいろと考えを巡らせた。
「どうしたの?」
いつもと違う夫に、圭子は不審の目を向けた。
「えっ、何が?」
一幸の返答は自然とこうなる。
「変よ」
「何が?馬鹿な」
一幸は逃げるように自分の書斎に入った。今日は昼食を食べないといったことに、圭子はしつっこく問い詰めてきた。無視し続けようと思ったが、ここから逃れるすべがないのを彼はよく知っている。
結局、一幸は書斎から出て昼食を取った。その間ずっと圭子はしゃべり続けたが、彼は無視した。食べ終わると彼はすぐに書斎に戻った。
家庭の崩壊という不吉な予感が、一幸に大きな圧力となって襲い掛かって来た。今までこんなことを考えたことがなかった。
私はあの子を、私の家族に近づける気は少しもなかった。それなのに・・・どうして朝美がこんなに近くにいる?
一幸は週刊文春を取り出し、適当にページを開けた。彼はすぐにページを閉じた。読む気などない。今の精神状態から逃れたい。ただそれだけである。
(だめだ。いけない)
一幸は机を強く叩いた。
(私は・・・)
この家族を第一に考える。
一幸は自分の体がかちかちに固くなっているのがよく分かった。彼はその体の力を抜こうとした。意識的に肩を少し落とした。しかし、全然体の力は抜けなかった。
(洋一、良子・・・)
一幸は子供たちを愛していた。たとえ・・・たとえ・・・圭子と別れることになっても子供たちとは別れたくない。
(どうすればいい?)
一幸は立ち上がり、狭い書斎の中をうろうろしだした。小さな書斎には少しの本があるだけだった。読み通した本は一冊もなかった。本を読むためにこの書斎を作ったのではない。今は会社でやり残した仕事をする気もない。圭子にはごまかしたが、ただ自分だけの書斎が欲しいというだけで作った。
「ここで何をするつもり?」
圭子は何度も彼をからかった。
「考えている。その内、役に立つから。そのために作ったんだから」
一幸ははっきりとした考えがあったわけではない。実際、今まで何の役にも立たなかった。それが、今、一幸の役に立っている。自分が苦しむから逃れるために、この書斎を作ったのかもしれない。彼はそう思うしかなかった。
一幸は今自分という存在の価値を考えている。こんなバカな男はいない。ずるずると拒否も抵抗もすることなく時間に流されている。いつから・・・。朝美が現れる前から、私はこんな男だったのかもしれない。彼が招き寄せた朝美だった。
(いや、違う)
一幸は強く首を振った。一度、二度三度振った。私は朝美をここまで呼び入れる気は絶対になかった。朝美が私の家庭に侵入してきたんだ。そして、朝美は何をしようとしている?と彼は考えずにはいられない。
朝美は、何を考えている?何を企んでいる?
私の家庭の崩壊?
「なぜ?」
一幸の体は小刻みに震えた。
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