第六話

八並朝美は、

(ふっ・・・)

と目をつぶった。

卒業式の風景が浮かんで来た。

三月の十日に相可高校を卒業したばかりである。だが、朝美の脳裏には胸に染み込むような感慨はなく、何も浮かんでこなかった。

「ふふっ」

朝美は小さな声を出して笑った。

「えっ」

由紀子にもはっきりと朝美を笑い声が聞こえた。


八並由紀子は松阪駅のロータリーに車を止め、先に改札に入った。朝美は由紀子の後に続いた。JR線が一番ホームから五番ホームで近鉄線は六番七番ホームで、上りは六番ホームで、二人が二十分ほど待つと、名古屋行きの特急が来た。

 「お父さん、やはり来なかったね」

 由紀子ががっかりした口調で言った。

 「来なかったんじゃないのよ。来たくても来れなかったのよ、お父さん」

 朝美はまるで修の気持ちを知っているかのように、自信を持って言った。

 「じゃ、行くね、お母さん」

 朝美はこの故郷に少しの未練もないのか、顔の表情を変えずに車内に乗り込んだ。

「気を付けるんだよ。すぐに五月の連休だから、帰っておいで」

由紀子は目を潤ませていた。長男の健次は家を出て、津市内で一人暮らしをしていた。そして、長女の春美も愛知県の一宮の電子会社の寮に入って生活をしている。

彼女は、この子だけは手放さない、と心にきめていた。だが、結局家から一番遠く離れた東京にやることになってしまった。

(どうしてこんなことになってしまったんだろう?)

彼女の気持ちは歯がゆかった。あの人は、

(卒業したら帰って来い)

それが東京にやる条件だと朝美に約束させた。でも、彼女は考えたあげく、こうなってしまったのはあの人が悪いんだという結論に達した。

由紀子は、娘を見つめ、返事を待った。私を納得させて、東京に行って欲しいと願った。彼女は娘の唇を見つめた。

だか、朝美はそのことに答えず、

「ごめんね。大丈夫だよ」

とだけ答えた。電車のドァが閉まると、朝美は特急券を見て、自分の座席を探しに車内に入っていった。

由紀子はホームを走り、朝美の後を追った。どんなに声を張り上げても聞こえる筈がない。それでも、由紀子は

「電話するんだよ。家に帰っておいで」

と、由紀子は特急電車を追い掛けながら、何度も叫んだ。

特急電車がホームを離れて、視界から特急電車が消えても、由紀子はホームから去ろうとはしなかった。


八並朝美は特急券の番号の席に座ると、窓の外に目をやった。その時には、もう電車はホームから離れていた。

さっきまで彼女を追い駆けてきていた由紀子の姿は、もう彼女の脳裏にはなかった。

(でも・・・)

少し気になるのか、流れる景色につられて、目が後ろに流れた。

何度か見かけた景色しか、そこにはなかった。朝美は身体の中に大きな穴が開いたような感覚に陥った。

(どうしたのかな?)

目頭に違和感があった。手でぬぐってみると濡れていた。

(涙・・・なぜ)

朝美はそう感じた。彼女が考えたのは、そこまでだった。


八並修は濁りのない青い空を珍しそうに見ていた。

大台町栃川字大里で五十五年生きて来た修には見慣れた空の色のはずだったが、初めて見るような爽やかな表情をしていた。それでいて、修の体はざわざわと落ち着かなかった。

「いいか、お前を東京の大学にやってもええ。ただ、一つだけ条件がある。卒業したら、こっちに帰って来い。それなら、行ってもええ」

修は娘に表情を変えずに言った。

その後、娘を一度も見ずに、外へ出た。

そして、この日まで修は朝美と一言も話すことはなかった。


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