第七章
朝美は軽く目を瞑った。
その時、彼女は父の言っていることを良く理解した。
納得はしなかった。
だけど、彼女は反論の言葉を一言も言わなかった。
この日以後、修は朝美と目を合わすことはなかった。
夜、食事の時、朝は朝美が、早く家を出て行くので一緒に朝食を取ることはなかったが、夜はそうはいかなかった。
彼女は前に座った修と目を合わそうとはしなかった。
そんな様子に気付いたのだろう、由紀子は、
「寂しいんだよ、おとうさんは。もう、お前しか残っていないんだからね。お母さんもね。本当はそんなに遠くにやりたくないんだよ、四年間、長いんだよ」
と独り言のように言った後、苦笑した。
朝美は、今までというより、これまで改まって父修の存在を考えたことはなかった。しかし、家を離れることになって、考えざるをえなくなった。
朝美は修の気持ちが分からないでもなかった。
彼女には兄と姉がいた。健次と春美である。
末っ子の朝美は、修が外出する時には必ず連れて行った。彼女ははっきりと覚えてないが、四つか五つくらいまでの記憶が残っていた。それ以後、修の傍にいる自分の姿は消えていなくなっていた。
朝美が受験勉強をしている時、兄、健次は津市内のアパートに一人で住んでいた。勤めている会社が津にあることもあったが、津城の城跡の近くで静かな所だと、由紀子は言っていた。
初め、由紀子は執拗に家に戻って来るように言っていたのだが、健次は強く拒絶していた。
「何が、不満なの」
由紀子は受話器に向かって息子に訴えた。
健次はそんな母に、
(いやだ!)
とはっきりと言った。
修は、健次の名前を口にすることはなくなっていた。
「ねぇ」
由紀子は修に言った。
朝美は、そのへんの事情は良く知らない。しかし、健次が家を出て行く前、出て行った後の自分の家族を直に見ていた。
父、修は何もしゃべらなかった。
(本当はどういう気持ちだったんだろう)
と朝美は思う。健次と修は性格がというより人としての根本から別の存在だったような気が、彼女は感じていた。
どちらも嫌っている素振りは見せていない。激しく言い合いをする所を朝美は一度も見ていない。朝美の見る限り憎しみをこもった感情を持っているようにも思えなかった。男の子供と親の関係で、ある時期自然と起こる行き違いなのか。朝美には良く分からなかった。
多分、由紀子にも分からないのだろうと朝美は思った。そうであるなら女の自分が口を挟むことではない。
朝美は、由紀子がそこまで割り切っていたとは思えない。ただ、母として黙っているわけにはいかなかった。それが、わざわざ健次のアパートを訪ねて行くという行為になったようだった。
姉の春美は、小さい頃から修とも由紀子ともはっきりと距離を置いて接していた。それをはっきりと見たのは、朝美が高校の時である。
春美は大学には行く気はなかったようだ。高校を卒業すると、愛知県の一宮市の電子メーカーの会社に入社を決めた。修にも由紀子にも相談しなかった。当然自宅から通勤できるわけはなく、寮に入った。どうやら、それも春美の計算づくだったのかも知れない。
朝美が高校二年の時である。その頃、理由の分からない反抗心から、彼女は机に向かっていた。そんなもどかしさもあったのだろう、思うように受験勉強ははかどらなかった。だが、不思議なことに少しの焦りもなかった。
十一月に入り、夜、机に向かっているとひんやりとした空気が漂いはじめてきた頃だった。春美からの電話を、朝美が取った。
「お母さんに代わって」
春美のせっかちな声が最初に耳を突いた。深夜十二時を過ぎていた。
「眠っているかもよ」
朝美はわざとゆっくりと答えた。
「分かっている。いいから急いで」
修は寝るのは早いが、由紀子はいろいろとやることがあるようで、彼女が寝るのは日を越した一時頃になることがあった。春美はそのことを知っている。
「姉さんから、電話。お母さんに代わってて」
朝美は背を向けている修を少し長く見た。布団が微かに動いた。目を開けていると朝美は思った。
後で分かったことだが、結婚するからという電話だったようだ。
年が明けて、正月三日、春美は、朝美の知らない男と一緒にやって来た。春美の結婚相手だった。
(同じ職場の人なの)
春美は由紀子に言っていた。
この日、修は朝美と居間でテレビを見ていた。話すこともなく、ただテレビから流れてくる音を聞いているだけだった。昼少し前、玄関の方で春美の声が聞こえると、修は慌てて二階に逃げて行った。下から由紀子が声を掛けても、修は降りてこなかった。
「妹の朝美よ」
と、婚約者を朝美に紹介した。婚約者は背が高かったが、見た感じがっしりとした体格だった。裸になったら、筋肉があっちこっちから飛び出ているのかもしれない、と一瞬想像してしまった。目があったが、朝美はすぐに目を逸らした。そんな想像した自分が恥ずかしかったこともあったが、何だか気が合いそうにもないと思ったこともあった。
(本当に、こんな男と一緒になるんだ)
と、いやな気分になった。
その後、
「元気のようね。受験、頑張りな」
と言った後、春美は笑った。癖で、笑った後唇をかんだ。久し振りに見る姉の笑顔だった。朝美も釣られて笑ったが、なぜか彼女の顔はすぐに硬直してしまった。彼女の良く知る姉でないような気がした。
この後、春美は婚約者と揃って二階に上がって行った。自分の使っていた部屋が、二階にそのままにしてあった。
朝美は修から、春美の結婚についての気持ちを一度も聞いたことがない。何も言いたいことはないのだろうかと思っていたが、そんなことはないようで、
(若すぎる)
と思っているようだった。
お父さん、そんなことを言っていたよと話していた、と由紀子から聞いたことがある。だが、反対、そんなことをいう、本当の理由は他にあるように朝美は思った。多分、修は知っているはず。春美は自分が決めたことは、誰か反対しようと必ずやり抜くということを。
だから春美に対して、若すぎる、と言えないのだろう、と朝美は思う。
その年の秋、春美は名古屋のホテルで結婚式を挙げた。
ことは強引に突き進んでいったのである。
父修がどう思おうと、はっきりと反対の意思を表示したとしても、春美が結婚を中止されることはなかった。
それまでに、相手方の両親が二度やって来た。最初にやって来たのは、一月の終わり頃だった。婚約者の両親が二人揃って来たが、修がどういう態度を取るのか、朝美は気になった。
日曜日だった。
また逃げるのかな、と彼女は修から目を離さなかった。由紀子からしつっこく言われていたのか、修は由紀子の横に立ち、相手方の機嫌をそこねることなく、ちゃんと話をして頭を下げたりしていた。
結婚式には健次も出席した。健次はテーブルを立ち、相手方の親戚に挨拶に回っていた。朝美の目は、春美のウェディングドレス姿よりも修を追っていた。緊張しているのは朝美の目にもわかった。
と、突然、何の前振りもなく、修は突然春美を見下し、睨みつけた。
朝美にはそう見えたのである。
修は左手でフォークを持ち、肉の塊に突き刺し、噛り付いた。そして、口を激しく動かし始めた。飢えたサルがやっと手に入れた肉にむしゃぶりついているように見えた。
朝美はそんな修を、感情のない目を逸らさずに見つめ続けた。
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