第五話

それから十二年後。

「同じに来た方がいいよ、といったんだけどね」

八並由紀子は軽自動車を運転しながら、助手席の朝美を一、二秒見て、すぐに目を正面に戻した。

一年を通じ滅多に渋滞することのない国道四十二号線だが、そんな道路だから、誰もがスピードを出し過ぎる。実際由紀子も今七十キロを超えていた。二、三秒でもよそみをすると事故を起こす可能性が多い。

「いいのよ。お父さん、来るとはおもっていないから。大丈夫よ、少しも気にしていないから」

朝美は、後ろに流れ行く景色に目をやっていた。

「あんな人だけど、結構朝美のこと、心配しているんだよ」

由紀子は娘の反応を確認するために、また前方から目を逸らし自分の娘を見た。朝美は外の風景を見つめたままだった.

(しばらくは見ることのない景色のはず)

だから、じっくりとみているのかも知れない。由紀子は、ついこんなことを思う。

(この子は、こんな子・・・あの人とこの子はこのような関係なの?)

由紀子は、

(ふっ)

とため息を漏らした。

修と朝美は、表立った喧嘩というか言い合いをしたことはなかった。由紀子はそのことが不思議で仕方がなかった。由紀子は、自分がこの歳の頃の気持ちと比べてみた。

十歳くらい時にはもう父を嫌っていた記憶が、由紀子にはある。

父親が近くにいることを極度に嫌うようになっていた。息をするのも苦しかった。初めは家族の誰にも悟られないようにしていたが、その内そんなことに気を使わなくなった。時には母の前でちょっとしたことで感情的になり喧嘩になったこともあった。

(この子には、それがない。朝美にはない。なぜなの。それとも・・・)

由紀子は、改めて朝美を見た。

(どうしてだろう、私が気付かないだけなの?)

由紀子は朝美が一人で東京の大学に行くのが決まると、そのことを今まで以上に考えるようになった。だが、答えは出ていなかった。目立った争いがない以上、何も考える必要はないのかもしれないが。

「本当に来ないのかなぁ」

由紀子は朝美の反応を期待した。

「うん」

と、朝美は短く言った。

「お父さんは来ないわよ。本当は来たいんだけど・・・」

朝美はまるで自分は修、父親の心を見透かしているような自信たっぷりの強い口調だった。

「そうなのかな?」

由紀子は娘の横顔を見たが、やはり修が来ないことを別に気にはしていないようだった。

(この子は!)

いつからか分からないが、朝美と夫との関係に思いに耽ることが時々ある。

(いつから・・・)

 由紀子の身体が震える。

(この子にはいまわしい思い出がある。この子は忘れてしまつているのだろう。だけど、私は絶対に忘れはしない。叔父の秀雄さんはあんな風に死んでしまったけど、そのために人々の関心はそっちの方にいっていた。それは、それでいいんだけど、私はこの子に起こったことの方が気掛かり・・・ずっと気になっている。けっして忘れたことはない)

由紀子はやはりあの時この子に起こったことを、改めて、訊く気にはならなかった。

(どうして聴けるだろう・・・訊けるわけがない)

返って来る言葉が由紀子には怖かった。大人でも話す気にはならないのに、五歳・・・五歳の女の子に起こったことさえ信じられないことに違いない、と由紀子の胸かかきむしられる。

「信号、赤よ」

朝美の落ち着いた声が、由紀子の頭の中に入ってきた。

「あっ」

由紀子は慌ててブレーキを踏んだ。

「赤だ、ごめん」

車は横断歩道に入り込んで止まった。

 「お父さんのこと、考えていたらだめだよ。もういいから」

 朝美は素っ気なかった。

 由紀子は、自分の心を見透かされたような気がした。

「う、うん。ちょっと考え事をしていたいんだよ。朝美の言うように、お父さんのことを・・・」

由紀子の心臓の鼓動は高鳴っている。

「それはそうと、日置さんちのやよいさんの子、悦ちゃん、もうすぐ一歳なんだね」

「そうだね、お前も妹のようにかわいがっていたね」

「歳が離れているけど・・・可愛いわね」

「東京へ行くって、言った?」

「言わない。だって、まだ一歳だもの」

「そうか、帰ってきたら、五歳になっているんだね」

ここで、会話は途切れた。親と年頃の娘のごく普通のやり取りである。だけど、この時も朝美の思うままに言わされた会話のような気がして、由紀子はいつものように深いな気分になった。

この子には、私はうそを言わないようにしている。またこの子にはうそをつけないのは、私にはよく分かっている。気のせいかも知れないけど、この子は人の心が読める。なぜだか知らないけど・・・まだ両郡橋か。多気郡と飯南郡に掛かる橋である。

由紀子にはそんな気がしている。

(いつから・・・)

私が心の中で考えていることを、この子にはいつも読まれているような気がする。朝美はそのことを口には出さないが、私には分かる。けっして気のせいなんかしゃない。

由紀子は血の繋がった母として、それを感じることが出来た。

(多分、この子はあの人の心を読んだのかもしれない。だから、こんなに落ち着いているんだ)

この感覚は、由紀子の想像に過ぎない。でも、由紀子ははっきりと自信を持っている。私は、この子の母だから。彼女は執拗に自分にそう言い聞かせていた。

[でも、あの人、あとから来るかもしれないね」

由紀子は朝美を一瞥した。それ程意味のない言葉だった。

朝美は横を向いたままだ。車が止まったのは両群橋の過ぎた信号だったが、橋の手前の信号を西に行くと、三重県県立の相可高校がある。朝美が卒業した学校である。朝美だけでなく姉春美も兄健次も卒業していた。


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