幕間
まるで海の底に沈んだ様な──
そんな
木々の合間から差し込む、凍えそうな程に冴えた月の光。
その光は時折、影の中から怜俐な美貌の女性──アディリスの姿を浮かびあがらせ、そしてまた闇へと沈めてゆく。
陽の色にも似た金の髪が、月の光に濡れている。
血の色にも似た紅の瞳は、今は長い睫毛の下に伏せられて、果たしてその瞳に何を映しているのか──
静やかな夜である。
獣達の息づかいどころか、虫達の囁き声すら聞こえない。
──ひどく寂しいけれど、素敵な夜。
長い睫毛を伏せたまま。
口元に浮かぶ、幽かな笑み。
──あの日とは大違い。
そう、その日はずっと何かがおかしかった。
虫も、獣も、精霊も、──この森に生きる全てのモノが、まるで何かの熱に浮かされたかのように騒々しかった。
特に、空に亜竜の群れを見た事など、あれが人生このかた初めてだった。
しかし。
今にして思えば、それは自身も例外ではなかったのかもしれない──そう考え至ると、アディリスは口元の笑みを大きくする。
そうでなくては、夜の散歩程度でこんな森の奥深くにまで、うかうかと足を踏み入れる事などしなかっただろう。
……そして、彼女を見つけることもなかったに、違いない。
闇を斬り裂くような月明かり。
はっきりとした白と黒のコントラストを描く森を、
やがて視界が急に開けたのを感じて、アディリスは伏していた瞳をあげた。
激しく薙ぎ倒された、数えきれぬ程の木々。
人が手を広げて幾人並んでもまだ足りぬと思わせる程に、広く、そして深々と抉れて擂り鉢状となった大地。
まるで圧倒的な『力』の暴威に曝されたかの様な惨状を呈す──こんな場所こそが、あの朗らかな少女を拾った場所であった。
しかも、あの夜。
ここにいたのは彼女だけではない。
このクレーターを囲む様にして、幾体かの巨大な亜竜の姿もあったのである。
──あの大きさの個体ともなれば、一体の亜竜で一個の街が惨劇に沈むだろう。
期せずして亜竜の輪に出くわしてしまったアディリスは、彼等の猛々しい体躯から、その威力を推論する。
『竜』という種族とはそういうものだった。
この世界の他種族にとって『竜』とは同じ生物ではなく。
ある日、何かの気まぐれで突然に舞い降りてくる強大な理不尽──それは『天災』と同義であった。
その災害にも似た威力を宿した生命が、揃い踏んだかのような光景に。
アディリスは自身の死を想起しながらも、しかし、思わずその力強さに見惚れてしまわずにはおれなかった。
亜竜達は、その恐ろしい程の気性の激しさで知られている。
普段の彼等の性質に
しかし、その時の亜竜達は、アディリスが伝え聞いていた彼等のそれとはまるで違っていた。
それが眼前のクレーターを覗き込んでいた。
はなからアディリスの事など眼中にも無いのだろう、
亜竜の幼体でも空から墜ちたのだろうか?
こちらへと亜竜達の意識が向いていない事に気づいたアディリスの心は、生命の危機を回避した事に胸を撫で下ろすよりも
そして、大胆にも。
亜竜達の輪に入る様にして、クレーターの
アディリスにも自覚はあるのだが。
彼女の強い好奇心は、時に常軌を逸脱する。
まさにこの時こそがその最たる例で、アディリスは生命への危機に恐れを抱くよりも「亜竜達が何を気にしているのか確かめたい」と言う知的欲求を優先したのだ。それは彼女の大いな強みであり、危うさであった。
幸いにも、今回は。
この無謀なか弱き生物の大胆な行動も、亜竜達にとっては些末事のようであった。
僅かに自身へと向けられる視線を感じたのみで、アディリスはクレーターの縁まで五体無事に近づくことができた。
縁の前で屈み込むと。
アディリスは亜竜達を真似る様にしてそっと下を覗く。
星でも落ちてきたのかと思わせる深い穴の底。
月明かりに照らされていたのは──すでに息絶えたかの様にして横たわる、可憐な少女の姿だった。
「……………」
クレーターの縁に立ち。
少女を拾った夜へと意識を遊ばせていたアディリスは、そこで現実へ立ち戻ると、ゆっくりと周囲を見回した。
無論、すでに亜竜達の姿はない。
生きている、と。
少女を観察していたアディリスが、彼女の胸が呼吸にかすかに上下している事に気づいた──その途端。
亜竜達はその大きな翼を一羽ばたきして、その重量ある巨体を宙へと持ち上げた。
羽ばたきの生み出す、烈しい風にさらされながら。
呆気にとられ、その光景を見つめるアディリス。
そんな彼女の顔を、亜竜の内の一体が何かを伝えようとする様に見つめ。
やがて、夜空の闇の中へと消えていった、
その無言の視線が意味するもの、亜竜達の思惑こそ測りかねるものの。
意を決してクレーターの底へと降りていったアディリスは、華奢な少女の体を抱き上げたのである。
……それが不思議な少女──ヒマリを拾った際の顛末であった。
「託された……のかしら?」
竜の無言の眼差しが、自分に何を訴えたのかは分かる由もないが。
あるいは、そうではなかったかと。
アディリスは、夜空に浮かぶ
竜がこれほど人に入れ込むなど。
そんな話をアディリスは聞いた事がない。
……いや、一人だけ例外があった。
『北の聖女』はその美しい歌で、古い伝説に語られるが如く、よく竜を統べているという。
最も、彼女を自分達と同じ人として括ってしまってよいものかは疑問があるが。
そこまで考えたところで、それが思考の呼び水となったのか。
アディリスの知識の中から、一つの事物が思い起こされたのである。
曰く、竜達の語り継ぐ
それは気の遠くなる様なこの星霜の始まりの歌……人が自ら棄てた古い詩だ。
そして、秘匿されたその伝説に、乙女はこう謳われる──
月明りがアディリスの美貌を濡らす。
その表情は、今しがた自分が思い当たった言葉を憂う様に陰りがあった。
──竜詩の聖女。
それは、この世界の均衡を崩す名だ。
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