第8幕
世界が逆転した。
──自分の視界に映る景色を前にして
もちろん現実にそんな事態が起こるはずは無い。
これはあくまで、突然の出来事に混乱した彼女の現状の誤認識に過ぎないわけであり。
……この場合、逆転しているのは『世界』の方ではなく『陽葵』自身の方だったりする。
──どっすん。
宙にあった陽葵の体が、鈍い音を立てて地面へと落着した。
強かに背中を打ち付けたせいだろう。
体の中がぎゅっと収縮する様な感覚と共に、陽葵は息を吸う事も吐く事も出来なくなってしまう。人体の構造上、こういった強い衝撃を胴体に受けた際、横隔膜が麻痺してしまうせいである。
だが、そんな呼吸の不能も一時的なものだ。
「──~~~~~~ったぁぁぁぁぁぁぁぁい!!!」
呼吸が出来るようになると同時に。
陽葵は肺の中に溜まりに溜まった空気を悲鳴と共に吐き出して、痛む背中を手で押さえながらプルプルと身を震わせた。
あの巨大なムカデ達が現れてから、陽葵がプルプルする今に至るまで、ほんの刹那の出来事である。
あまりにも突然の出来事で、陽葵にも状況はよく把握できていないのだが。
巨大なムカデが三匹、いきなり地面から突き出てきて、これ以上ないってくらいに大絶叫していた次の瞬間には、陽葵の体はラルカによって巴投げの様にして宙へと放られていた。
それは、実に見事な『投げ』だったと言ってもいいだろう。しかも、投げたのが陽葵よりもずっと小さな女の子だって言うんだからなおさらだ。ここに投げ技を査定する審判員達がいたら、綺麗な放物線を描いて飛んでいく陽葵の姿に感嘆のどよめきを起こし、全員が全員『10.0』の点数札を挙げたに違いない。
……もっとも、投げられた陽葵にしてみれば、そんな事はどーだっていい事この上ない話である。
『10.0』の点数札が二十枚あったって、背中の痛みが無かったことになるわけではないのだ。
「ちょ、ちょっと! いきなりヒドい──」
震えながら俯いていた顔をガバッと挙げて。
背中をおさえてない方の手をグーにして振りかざす陽葵は、ラルカに対して非難の声を上げようとして──すぐにピタリと口をつぐんだ。
無理もないだろう。
つい先程まで陽葵達がいた地面を、巨大ムカデがその大きな顎で勢い良く抉り取っていく。──そんな光景を目の当たりにすれば、飛び出した言葉だって血相変えて口の中に逃げ込んできてしまう。
例えそこが川辺ゆえの柔らかい土だったと百歩譲っても、地面は地面である。
それをまるでショートケーキのクリームを指先でなぞる様な調子で抉り取っていく大ムカデの凶悪な顎にかかれば、陽葵の如き乙女の体など果たしてどうなっていたことか。
あのままあそこにいたら、クリームの上にぶちまけられた『ラズベリーソース』と化していたに違いない。
ラルカちゃんに、助けてもらった?
そこまで考えて、陽葵はハッとする。
……一体、そのラルカはどこにいってしまったのか?
頭の中にラズベリーソース塗れの残酷な想像がちらつく中、慌てて辺りを見回す陽葵。
そんな彼女の視線の先。
ラルカの姿は、宙高くにあった。
「ラルカちゃん?!」
風に乱れた緋色の髪は、正に踊る炎の様である。そんな炎の奥から垣間見える、爛と燃える翠玉の瞳──いつの間に手にしたのか、宙空にてあの槍を鋭く構えるラルカの目からは、人ならざる乱入者達を睥睨する凍える様な冷たい眼差しが放たれている。
その瞳の光の中に、今までの日常で感じた事の無い類の言い知れぬ感情──もしくは『意思』と言うべきか──を感じて、陽葵はラルカに対して少しだけゾッとして身を竦める。
分からないと言えば、ラルカの今の状況もそうである。
果たして、ラルカはどうやってあの高さまで飛んだのだろうか?
陽葵の目から見ても、ラルカのいる位置は優に3メートル以上の高さはありそうである。
投げ上げる者もない以上、自力で跳躍するかしないといけないわけだが……。
「いやいやいやいや! どこのバトル系少年マンガよ──って、うわわわわわっ?!!」
自前の想像に対して律儀に、自前でツッコミを入れる陽葵だったが、そんな彼女を余所に目の前の光景は動き続ける。
重力に従い自由落下しているラルカに対して、地面を這っていたムカデ達の一匹が体をもたげて襲い掛かったのである。
振るわれた鞭の様な勢いを持ってラルカの直下から伸び上がる大ムカデ。
瞬く間に、その禍々しい大顎がラルカの細い体に深々と食い込み、彼女の体をAパーツとBパーツに分けちゃって、ラズベリソースがどばっと地面に──そこまで瞬時に想像を巡らせる陽葵。アイドルなんてやってた人一倍夢見がちな女の子だけに、想像力だって変なところで人一倍逞しいのだ。
……だが。
ラルカの見せた姿は、そんな陽葵の想像を遥かに凌駕していた。
迫りくる大顎にも怯まず──一閃。
巨大ムカデを見据えて構えていた槍の穂先を、ラルカは躊躇う事無く、その口腔へと撃ち込む。
重力落下と彼女の体重がかかった槍の一撃は、大ムカデの口腔に深々と突き立ち。さらにラルカが捻じ込む様に腕を捻る事によって、ブチブチブチと繊維質のものを引き裂く様な音を伴いながら、槍の柄の半ばまでが飲み込まれて見えなくなってしまう。
「たぁぁぁっ!!」
すかさず。
突き立った槍を動きの起点にして放つ、ラルカの回し蹴り。まるでポールダンスでも舞うかのような華麗さで──しかし、斬り裂く様な鋭さを帯びたその蹴り足が、ムカデの胴へと深々と食い込みその体を大きく揺るがせる。
足場という支えが無く踏ん張りが効かない状態であることを考慮すると、この事象はほぼラルカの純粋な脚力がもたらした結果となるわけで、とんでもない事が起こっているわけなのだが……もちろん、その一連の光景をあんぐりと大口開けてポカーンとしている陽葵は知る由もない。
ともかく。
その勢いを利用して槍を一気に引き抜いたラルカは、緑色の体液を間欠泉の様に吹きだしている大ムカデを蹴って再び宙に舞うと、さながら高所から飛び降りた子猫の様に身を捻りながら陽葵の前へと軽やかに着地する。
その後を追う様に。
槍を突き刺された大ムカデの体が、傍らを流れる小川の中へと、大きな水柱を立てて倒れ伏す。
「……10.0!」
「なに言ってるんだ、ヒマリ?」
「ううん、ナンデモナイ……」
地面に這いつくばったまま。
ラルカの体操選手もかくやという見事な着地に思わず見えない点数札を掲げる陽葵。しかし、ラルカからきょとんとした様な表情を向けられると、途端にネタがすべった様な恥ずかしさを感じて。頬を赤らめて半眼になると、ついっとラルカから顔を逸らす。
「──って、そんな事はどーでもよくって! な、なな、なんなのあのでっかいの!?」
そこでハッと、そんな事をやってる状況じゃあないって事を思い出した陽葵は、目の前に立つラルカへと言葉を投げる。
さっきラルカが槍で刺した一匹こそ小川の中で仰向けに横たわっているものの、まだ残りは2匹もいて無数の脚をワサワサしてるのだ。
控えめに言って、キモい事この上ない光景である。
「……鎧ムカデだ。いつもは森の奥にいて、他の動物とかを襲って食べてる。バキバキ食べてる」
「え、なにそれこわい」
隙なく槍を構えて、あの鋭い視線をムカデ達に向けながら、ラルカは陽葵のクエスチョンに端的に答える。その不穏な言葉を受けて、陽葵はあらためてムカデ達へと目を向けた。
──鎧ムカデ。
なるほど、名は体を表すと言うが、これほど的確なネーミングもないだろう。
その長い体はまさに鎧とも言うべき黒い甲殻に覆われていて、甲殻同士が触れ合うのか、動く度にガチャガチャと威圧的な音を発している。
そんな怪物達と、そんな怪物を槍一本で相手にしてる女の子を前にして……陽葵はここが異世界だってことをあらためて痛感し、アディリスが外出許可を渋った事を理解した。
そりゃあこんなモンスターみたいなモノが跋扈している様な森に入ろうもんなら、陽葵なんてアッと言う間に彼らのオヤツになってることだろう。
そこまで考えて、陽葵は「ん?」と眉をひそめる。
「そ、そう言えば……アディリスさんの家の周りって危なくない様に獣除けの結界があるんじゃなかったの!? なんか思いっきり除けきれてないんですけど! ムカデは『獣』じゃないから対象外ってこと?!」
「そんな事ないぞ。 結界なら、ちゃんと動いてる……ほら」
そんな言葉遊びはご免こうむるんですけど!──頭を抱えて分かりやすく狼狽える陽葵。
しかし、ラルカは至って冷静に鎧ムカデ達を指さした。
ラルカの指さす先を見やって──陽葵は鎧ムカデ達の体から幾筋も白煙が立ち昇っている事に気づいた。……それから何かが焼けてる様な音にも。
「アレ、結界に焼かれてるんだ。……アディリスが教えてくれた。結界の中に入った獣はビリビリって痺れて、それにびっくりして逃げちゃうんだけど……それは最初の内だけで、そのビリビリを我慢してずっと結界の中に居座ってると、ビリビリがどんどん強くなっていって、最後は体が焼けていくんだって」
「……うわ」
餌を探すにしても何にしても、普通、森の『獣』達はリスクを嫌う。出来ることなら楽に、そして安全に獲物を狩りたいと思考するものだ──とラルカは言葉を続ける。
今の時期、森の中にもまだまだ他の獲物は沢山いる。つまり結界の中でダメージを負いながらも、わざわざ陽葵達を襲うこのムカデ達は『普通』じゃない──とも付け加えた。
では一体、何が理由で鎧ムカデ達はこんな行動をとっているのだろう?
虫の考えている事など陽葵には分かる
「──にぎゃっ!」
湧きあがった疑問を推理していた陽葵だったが、その体がいきなり地面に引き倒される。いや、引き倒されたばかりかそのまま、ズザザーッと弧を描く様にして地面の上を引きずられる有様だ。
ラルカの槍の
間一髪。
再び、陽葵が先程まで這いつくばっていた地面を鎧ムカデの大顎が抉り取っていく。
そして、それが戦闘再開の合図だったかの様に。
鎧ムカデ達はうねる波の様に、間断なく襲い掛かってくる。
「……っ!」
ラルカの善戦には目を見張るものがあった。
鎧ムカデ達の猛攻を槍でいなし立ち回りながら、それと同時に、後方では陽葵の体を槍の石突でコントロールして回避運動を取らせている。
「あだだだだだ!!」
……しかし、鎧ムカデの攻撃は見事に回避させられている陽葵だったが、ダメージが皆無ってわけじゃない。その引き換えに、槍で無理やり回避させられている事による手や足の擦り傷は着実に増えていってる。
……むろん、体がAパーツとBパーツに分かれちゃう様なダメージと比べれば些細な犠牲と言っていいレベルだ。顔だけはきっちりガードしている辺りはさすがと言うべきだろうか。
だが、そんなラルカの善戦も何時まで続くかは時間の問題である。
相手をいなしながら的確に槍での攻撃を繰り出しているラルカだが、ムカデの硬い甲殻に阻まれて致命傷を与え切れてないというのが現状だ。さらに陽葵と言う存在はラルカにとって、戦闘中においてはハッキリ言って単なるデッドウエイト以外の何物でもない。
蓄積する疲労が、ラルカの呼吸を少しずつ荒げさせる。
しかし、それでもなお。
陽葵の前に雄々しく立ち、鎧ムカデ達へと槍を構えるラルカ。
「ラルカちゃん……」
そんな彼女の後ろ姿に感動を覚えると同時に、陽葵は己の不甲斐なさを痛い程に感じていた。
──あんな小さな女の子ですら戦っていると言うのに、自分はただ守られる事しかできないのか。
自分がラルカのお荷物になっている事くらいは、陽葵にも分かっていた。
せめて自分がいなければ、ラルカも思いっきり戦えるのではないだろうか。
そう、最初の一匹を鮮やかに倒してのけた時の様に──そこまで考えると陽葵は、何かを決意した様な表情で、傍らに落ちていた小石を握りしめた。
「くっ! ──あれ?」
何度目かになる、鎧ムカデ達の攻撃。
それをかわしながら、ラルカは陽葵を動かす為に槍を振るう──と、その石突が空を切った様に手応えがない。
思わず頓狂な声を上げるラルカだったが、次の瞬間、視界の端を何者かが駆け出すのが見えた。
濡れ羽根色をした髪の、変わった服を着た女の子──それは間違いようも無く、陽葵の姿だった。
「くぅおのぅぅぅーーー!!」
駆け出した陽葵は、持っていた石ころをムカデ達へと向かって投げつける。
わりと全力で投げつけたつもりだったが、石ころは鎧ムカデの一匹に当たって『コンッ』と間抜けな音を立てて地面へと落っこちた。どう贔屓目に見ても、その石ころは敵の注意を陽葵に惹きつけただけで、そのHPに1のダメージも与えたか怪しいところだった。
だが、それでいい。
もともとダメージを与えようとか、そういう気は陽葵にはさらさらないのだ。
ムカデ達の注意がこっちに逸れてくれれば、陽葵の目的は果たされる。
「ラルカちゃん、今のうちに!」
「ヒマリ!?」
鎧ムカデ達の、あの凶悪な顎がこちらへと向けられているのを見ると、陽葵はラルカに向かって声を上げる。
──果たして。
今のうちに、ラルカにムカデを倒してほしかったのか。
今のうちに、ラルカに逃げてほしかったのか。
声を上げた当の陽葵にもどっちだったのかは分からない。
分からないが少なくとも、ラルカが助かればいいと思ったのは確かだった。
陽葵の作戦は見事に的中した。
注意を惹かれたムカデ達の内の一匹が、まるでバネが収縮する様にギュッと縮こまり、次の瞬間には弾かれた様に陽葵の方へと襲い掛かる。
「──っ!?」
そのムカデの動きを見て。
もしかしたら逃げ切れるかも──なんて考えていた自身の考えの甘さを陽葵は思い知る。
これでは瞬く間にズタズタのボロ雑巾だ。いったい何パーツに分割されるか分かったもんじゃない。
恐怖に目を閉じる暇も無く、相手の動きを見つめる陽葵。
しかし。
陽葵の体に大顎を食い込ませんとしていたムカデの巨体は──突如として虚空から吹き出した爆炎によって、元いた位置よりもさらに後方へと吹き飛ばされるのだった。
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