第2章 少女と魔女と『獣耳』と
第3幕
落ち続ける。
当然ながら途中でピタリと静止することもないし、ゆるやかに減速してるなんてこともない。
自分が置かれている状況は全く分からないわけだが。
そんな陽葵にも小学校のたし算並みに簡単に分かってる事がひとつだけある。
それは、このままの速度で地面に叩きつけられれば自分は『きまぐれシェフのあらびきハンバーグ』の材料になってもおかしくない状態になるだろうって事だ。
痛い、では多分すまないだろう。
超痛いでも役不足だ。
では、超超超超超痛いくらい?
──と、そんな具合に。
ご覧になっていただければ分かるように、陽葵の脳内は千々に乱れ切っていた。
自分のもとへと、大きな鎌をやたらめったら振り回しながら全力疾走してくる死神。
コンマ秒単位でクローズアップしていく大地を見つめる視界の端に、その荒ぶる姿をとらえながら。
陽葵は古今東西のあらゆる神様へ祈りを捧げていた。
キリスト、ブッダ、
最終的には突然脳内に閃いた『キルマリエーバーギールガンモロド神』なんて、陽葵自身ちっとも聞いた事のない名前の神様にまで手を合わせて祈る始末である。
──しかし。
そんなことじゃ、もちろん大地から放たれる重力は陽葵を解放してはくれない。
ハンバーグになる未来はもう目と鼻の先、秒読み段階にまで近づいていた。
眼下に広がる黒々とした森の木々の姿が陽葵にも視認できるくらいに、もう大地はすぐそこだった。
試合終了。
ゲームオーバー。
残念、陽葵の冒険はここで終わってしまった。
……そんな文字が陽葵の脳内で盆踊りする。
「いやあああああ! もうダメええええええ!!!」
結局、最後の最後まで気絶することなく。
陽葵は絶叫しながら、森の木々の合間にストレートに突っ込んでいった。
◇◇◇◇
「──ええええぇぇぇぇぇ……っはっ??!!」
自身の絶叫の煩さで、陽葵はハッと目を覚ました。
見えたのは渋い色をした木目の天井。
陽葵はそこが部屋の中にあるベッドの上だと知ると、心底ホッとしたように息を吐く。
「よかった、夢だった……」
神様に祈った甲斐があったと、陽葵は思った。
いかんせん最後に祈りを捧げたのが『キルマリエーバーギールガンモロド神』だったので複雑な気分ではあったけど。
やれやれとばかりにベッドの上で脱力する陽葵。
しかし、次の瞬間「ん?」と怪訝そうに眉をひそめた。
どうにも周囲に違和感を覚える。
てっきり自分の部屋で目を覚ましたものだとばかり思っていたのだが……何時から自分の布団はベッドになったんだろうか? しかも、前のせんべい布団に比べてフワフワのフッカフカのヤツに。
いや、そもそも久慈家荘は全室和室だった筈。
いつの間にこんなログハウスチックな内装に改装したのだろうか?
とてもじゃないが大家さんとこにそんな余裕があるとは思えないし、あんなオンボロをリフォームするくらいなら新築を建てた方が断然安上がりな筈だし。
……そんなアホなことを真面目に考えてた陽葵だったけど、さすがに心の端っこの方ではここが見ず知らずの場所だって事は分かっていた。
ただ、認めるにはちょっぴりの時間と勇気が必要だっただけだ。
「ちょ……ちょっと、ここどこ!? って──あいたーーー!!」
ようやくその二つを揃える事ができた陽葵は、今さら感溢れるものの慌ててベッドから跳ね起きようとして──盛大にベッドの下に転落した。
硬い板張りの床で強かに額を強打し、その上でゴロゴロとのたうつ。
そして、そこではじめて陽葵は、自分の体と手足がロープでグルグル巻きにされていた事に気づいたのである。
陽葵は『クイーン・オブ・普通娘』であると同時に『クイーン・オブ・鈍感娘』でもあるのだ。
「わ、私、なんで縛られてるの? しかも、ご丁寧にこんなギッチギチに」
自身を縛るロープに対してじたばたと悪戦苦闘を繰り広げるも、それは陽葵のカロリーを無駄に消費させるだけで終了した。なんせ、それはもう『親の仇!』ってくらいにキツく縛ってあるのである。
「ようやく、夢から覚めたと思ったのに……」
冷たい床の上でモゴモゴとイモムシしながら、陽葵は厭世とした表情で天井の木目の数を数え始めた。
特に理由は無い、他にする事がなかったのである。
そしてそんな彼女の脳裏では、どうしてこんな状況になったのかという様々な考えが去来しては消えていく。
超国家機関の陰謀説、古代文明人の復活説、火星人の侵略説等々etc.
どの仮説をとっても突拍子がなかった。
突拍子はなかったのだが、陽葵がロープでイモムシにされてるって状況だけは動かしがたい事実だった。
拉致監禁。
そんなシンプルな言葉に思い至ると、陽葵はぶるりと蒼い顔をして身を震わせる。
そんな現実的な犯罪をやっちゃう人間の方が、超国家機関よりも古代文明人よりも火星人よりも、当然ながらよっぽど恐ろしかった。
自分は何かの事件に巻き込まれてしまったのだろうか?──そう考えると、背中の辺りに「すうっ」と冷たいものがはしる。
「こ、ここはやっぱり誰かに助けを求めるべき……だよね?」
幸いな事に、というか。
全身はぐるぐる巻きなものの、なぜか
みっちりぎゅうぎゅうな日本の住宅事情を鑑みれば、ここで大声を出せば誰かに気づいてもらえるかもしれない。
しかも、そこは繁忙時の商店街において隅から隅まで絶叫を行き渡らせる陽葵である。その声量たるや、むしろ、そのあまりの煩さに犯人によって家から蹴り出されてもおかしくないレベルなのである。
「……よし。だ、誰か──」
──がちゃり。
心を決めた陽葵が思いっきり息を吸い込み、声を吐き出そうとしたところだった。
聞こえてきたのは、ドアノブが回る音。
それに合わせて部屋の扉がゆっくりと開いていく。
陽葵は飛び出しかけていた声を慌てて口の中にしまいなおすと息を詰まらせながら、開いていく扉を見つめた。
入ってきたのは、小さな女の子だった。
腰まで届く緋色の髪。
強いクセがあるのかところどころが跳ねたりねじれたりしていて、どこか野暮ったい感じがする。しかし、それが髪の色と相俟ってみると、まるで燃えて揺らめく炎の様に綺麗にも見えるのだ。
そして、その顔の半分を覆ってしまいそうな前髪の奥。そこではエメラルドグリーンの瞳が、きらきらと濡れた輝きを放っていた。
扉を開ける為に足元に置いていたらしい。
少女は手桶の様な物を両手で胸に抱え上げると、その桶に視線を落としながら部屋の中へと入ってくる。
陽葵は小さいとは言え同性の人間が現れた事に幾分か表情を緩める。そして、とりあえず声をかけてみようと考えた。
……例え、その少女が明らかに日本人じゃなくて、明らかに現代文明っぽくないファンタジーな衣装に身を包んでいて、明らかに『獣の耳』みたいなものが頭の上に生えていたとしても、だ。
「え、えっと……あの、こんにちは?」
「──?!!」
相手を驚かさないように、なるべく静かに声を掛ける陽葵。
しかし、その目論見は見事に外れてしまったらしい。
陽葵の声に盛大に驚いた様子で身をのけぞらせた少女は、そのまま抱えていた桶の中身である水を床にぶちまけてしまう。
「わっ。だ、だいじょうぶ──」
そう声をかけるよりも早く。
驚愕の表情で陽葵を見つめながらじりじりと後ずさった少女は、ぱたぱたと逃げるように扉の外へと走っていってしまった。
「な……なんだったんだろ……?」
呆気にとられた様子で、陽葵もぱちくりと目を瞬かせる。
何かそこまで驚く様な事があったんだろうか?
そこまで考えて、陽葵はハッとしてからがっくしと頭を垂れた。
「ロープ……解いてもらえばよかった」
そう、陽葵は相変わらず世にも奇妙なイモムシモードなのだ。
そりゃこんな姿を見れば大抵の人は驚いても仕方ないのかもしれない。床に額をあてたまま、陽葵は地を這う様な長い長い嘆息を吐き出す。
その時だった。
──ぱたぱたぱたぱた……。
先ほど遠ざかっていった筈の小さな足音が部屋へと戻ってくるのに陽葵は気づいた。
「……そっか! 何か道具が無いと、小さな子にはロープなんて解けないもんね」
少女が何か道具を取って自分を助けに来てくれたのだ。
陽葵はそんな希望に表情を明るくさせた。
……しかし。
その目論見はまたもや明後日の方向に外れてしまったらしい。
「──…………え、えーっと……」
部屋へと帰ってきた少女を見て、陽葵は大いに反応に困った様子で目を細くする。
確かに少女は手に道具を持っていた。
しかし、それは陽葵が思い描いてたハサミとかナイフとか、そーいう類のモノとはどうにも形が違っていた。
少女が手にしていたのは、彼女の身の丈と同じ位の棒の先にメチャクチャ鋭い金属製の部品が付いた長物。
明らかに、これは『何かを切る』って用途よりも『何かを刺す』って用途の方に本領を発揮しそうなヤツで、なんて言うか『道具』って呼ぶよりも『武器』って呼んだ方がしっくりくるというか……むしろ『武器』そのもの。
見事なくらいに『槍』だった。
「う、うごくな! うごくと……刺す!」
「……え。え、え、ぇええええっ?!!」
ジャキンと槍の切っ先を陽葵の顔面に向けながら、少女が声を張り上げる。
どこか舌ったらずな可愛いその声とは裏腹に、向けられた槍の矛先はよく磨かれている様で、ピカピカと光る剣呑な輝きは致命的な危険さを孕んでいた。
「ストップ、ストーーップ! 私が悪かったから! 驚かせたのは謝るから! だからその槍をどこかヨソに向けてーー!!」
陽葵はイモムシからシャクトリムシにチェンジし、ロープぐるぐる巻きの状態から必死に頭を下げまくった。
決して驚かせた気もなければ自分が悪いという気もないのだが、いかんせんあの槍の切っ先でサクッと来られると非常にマズい事になる。
おそらく、サクッとそのまま三途の川の向こう側まで送られる事になるだろう。
「だ……だから、うごくな! サクッといってもいいのか!?」
「ダメです」
少女の言葉に、陽葵はビタッとシャクトリムシを止めた。
……気丈に見せていても、陽葵に怯えているのだろうか。
槍を構える少女の体は、フルフルと小刻みに震えていた。
おまけにその顔は、今にも泣き出しそうなくらいに切羽詰っている。
これ以上、少女を刺激するのは大変によろしくない……そう考えつつ、陽葵はごくりと息を呑んだ。
もはや、陽葵の命は少女の手の内だった。
動くなと言われれば動かずにいるしかない。
阿波踊りをしろと言われれば踊るしかない。
花籠 陽葵、絶対絶命であった。
──しかし、救世主というのは意外と現れるモノらしい。
「ラルカ! ラルカ・メルカ!」
扉の外から聞こえてきたのは落ち着いた雰囲気を漂わせる女性の声。
その声に、少女はびくりと身を震わせて槍の切っ先を下ろす。
「ラルカ、いったい何をしているんです! ──……ああ。ちょっと目を離した隙に、やっぱりこんなことを」
扉をくぐって現れたのは、金色の髪をした長身の女性。
文句なしに、同性の陽葵でも目が覚める程の美人さんだった。
……そしてやっぱり、明らかに日本人じゃなかった。
その女性は陽葵の姿を見ると全てを察してくれたようで、額に手を当てると深々と嘆息していた。
「ごめんなさいね……悪い子じゃないんだけど、ちょっと人見知りが激しくて。人見知りのあまり、貴女が動きださないようにロープで縛っちゃったのね」
「は、はぁ……」
果たして人をロープでぐるぐる巻きにして拘束したり、槍を突きつけたりするのを『人見知り』の言葉で片付けていいものかどうかはともかく。
金髪の女性は腰の鞘から引き抜いたナイフで陽葵を縛るロープをさっくり切り裂くと、手をとって立ち上がらせる。
そんな陽葵が立ち上がる姿を見て、それまで金髪の女性の後ろでモジモジしていた少女──ラルカは、またも逃げるように部屋の外へと飛び出して行ってしまった。
「あっ……あの、大丈夫、なんですか?」
「気にしなくてもいいわ。お客さんにはいつもあんな感じだから……」
出て行ってしまった少女を気にかける陽葵に、金髪の女性はやわらかく微苦笑して頭を振って見せる。
……お客が来る度に槍を向けているのは、果たして気にしなくていいレベルの問題なのだろうか。
先ほどの人見知りの定義に続いて、陽葵の脳内にまたも新たな問題が浮上してきた。
そんな事を陽葵が考えているとは知らぬ様子で。
金髪の女性は陽葵の顔を覗き込むようにちょっとだけ身をかがませると、ドキリとしちゃう素敵な笑顔を向けてくる。
「さて……夢見のお加減、いかがだったかしら? 可愛い異邦人さん」
夢見──果たしてこれは本当に現実なのだろうか。
もしかしたら、今も自分は夢を見て寝ぼけてるだけじゃないんだろうか。
いったい何がどうしてどうなってるのか、何が何やらさっぱりで。
金髪の女性の問いに「わりと最悪です」と答えそうになるのをグッとこらえ、陽葵は曖昧な微苦笑を浮かべながら小さく肩を竦めてみせるのが精一杯だった。
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