私、異世界で聖女《アイドル》やっちゃいます!!

ひるこ

第1章『少女A』からはじめよう

幕間

 鉛色の分厚い雲が敷き詰められた、重苦しい空。

 

 そんな曇天どんてんの下。

 

 まるで、あの冷たく重たい空が今すぐにも自分達の頭の上に落ちてくるのだと──まるで、そんな妄想に囚われて皆が皆、家の中へと閉じこもってしまったかの様に。

 その巨大な石造りの街並みは、人の気配すら感じさせない様子で冷たい静けさの中に沈んでいた。

 

 まるで大地が隆起したかの様に街の中央部にそびえ立ち、全てを遥か下に睥睨へいげいする荘厳な城塞。

 しかし、この静寂の中にあってはその偉容さえも不気味さを漂わせる。城塞に無数に屹立きつりつする尖塔などはまるで、さながら何かの墓標の様ですらあった。

 

 その尖塔群のひとつ──石造りのバルコニーの上に、少女の姿がある。

 

 凍える様な灰色の風になびく濡れ羽色の髪に、冷たく透き通る蒼い瞳と白磁の様に艶やかな肌。その身を包むのは豪奢な金糸の装飾が施された純白の法衣と呼ぶべき装束で、滑らかな薄手の生地は少女の肢体を美しく縁取り、浮かび上がらせていた。

 

 その姿は一見、一般的な修道女のそれである。

 しかし『白の法衣』を纏える乙女は、この世界においてただ一人しか存在しない。

 

「…………」

 

 宝石の様な瞳である。

 見る者の心を惹きこむかの様な深遠さ。

 その反面、決してそれらを内側へと踏み込ませる事を許さない無機質さ。

 その二つの相反する性質を持つ蒼い瞳が、僅かの揺るぎも見せず虚空を見つめ続けている。

 

 吹き付ける風の冷たさも忘れ、果ては時の流れる事すらも忘れたかの様に……何時までも──

 

「どうされました。……北の風はお体に障りますぞ」

 

──不意に。

 自身の背後からかけられた言葉に我を取り戻した様子で、少女はそちらへと黒髪をなびかせて振り返った。

 

猊下げいか……?」

 

 この場にこの人物が現れたのが意外だったのか。

 気質に乏しい少女の蒼い瞳にも、僅かに驚きの色が混じり。

 少女の薄っすらと桜みがかった唇からも声が零れた。

 

 そこにあったのは、豪奢な黒い法衣に身を包んだ老爺の姿。

 皺の深い面には、同じくらいに情味の深い優し気な笑顔が浮かんでいる。

 

「猊下……この様な場所にお越しになるなんて」

 

 驚きの混じった瞳を恥じ入る様に、瞼の下に伏せながら。

 つと頭を下げて礼をとる少女。

 それを「そのままで」と、穏やかな笑顔のまま片手で制しながら。

 老爺は少女の隣まで歩を進めると、先程まで少女がそうしていたように空へと目を向けた。

 

「突然、法務の予定をお休みになられたとお聞きしましたので。今までその様な事は一度もなかったと記憶していたものですから」

 

「……申し訳ございません」

 

 穏やかな老爺の言葉に、少女は再び顔を伏せる。

 しかし、それ以上は弁明をするわけでもなく、何か言葉を重ねようともしない。

 そんな彼女の姿に感じるものがあったのか、老爺は視線を少女へと落とした。

 

「何か……ございましたかな?」

 

「…………」

 

 人の心を和らげる様な、そんな優しみを帯びた老爺の声。

 それを聞いて少女は僅かに視線を彷徨わせた後。

 再び虚空を瞳に映すと、ぽつりと、小さな声で言葉を紡いだ。

 

「精霊達が……ずっと『歌って』いるのです」

 

「ほう……?」

 

 少女の視線を追う様にして老爺もまた空へと目を向ける。

 そこに広がるのは、やはり、厚い雲の垂れこめた冷たい灰色の空。

 しかし、隣にいる少女には自分の眼に映るものとは全く違う、別の『世界』が見えているらしい。

 

「当然と言えば当然ながら。非力非才の私には貴女と同じものを見て聞く事は出来ないらしい。……それで、精霊達は何と歌っているのです?」

 

「………………『帰ってきた』と」

 

「……帰ってきた?」

 

 少女は虚空を見つめたまま頷くと、バルコニーの欄干に手をついて大きく身を乗り出した。

 

「遥か遠くの地から……まるで押し寄せる波の様にして精霊達が歌い継いでいるのです。万雷の様に絶え間ない歓喜と祝福。誰かの帰還を讃える……そんな歌を」

 

「ふむ。誰が……帰ってきたのでしょうな」

 

 遥か遠くの地へ思いを馳せ、心ここにあらずといった表情を浮かべる少女の横顔を眺めながら。

 老爺は考える様子で誰にともなく呟きを零す。

 しかし、その声を聴いて少女はゆっくりと頭を振った。

 

「そこまでは私にも……こんな風に精霊達が騒ぐのを見たのは初めての事で」

 

 沈黙が二人の間に横たわる。

 少女は精霊達が初めて見せる姿に夢中になっている様である。

 しかし、老爺にとっては。

 いつも感情を深く沈めた様なこの娘のこんな姿を見る事こそ、初めてであった。

 

「──興味は尽きませんが……なによりも、御体を御自愛なさいませ。重ねて言うようですが、北の風は障りますぞ」

 

 老爺の声に夢中から引き戻された少女が顔を向けると、あの優し気な老爺の笑顔があった。

 

「貴女お一人の御体ではない事、ゆめ忘れる事のありませんように……聖女殿」

 

「……はい。猊下のお言葉、胸へと刻みます」

 

 老爺が片腕を広げる様にして室内へと入る事を促す。

 その案内に少女は逡巡した様子を見せたが、すぐに観念したのか、ゆっくりとバルコニーを離れて歩み始める。

 それでも、何か未練を残すかの様に。

 少女は肩越しに遠い空を振り返る。

 

「貴女は……誰?」

 

 

 微かな呟きは、吹きすさぶ灰色の風に溶けた。

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