フェルメウス5

 結局断れなかった。泡立てた両手の泡はそのまま、桶ごとアトラさんの背後に移動する。金色の少しウェーブのかかった美しい長髪を前にらし、水滴の伝う滑らかでとうのような背中の肌をさらす。妹と風呂に入っていた時期もあるのだし、背中を流すなど大して問題ないかもしれない、という僅かな期待を抱いていたが、そんなものは完全に崩れ去った。


 それもそのはずだ。血のつながった妹と、全くの他人であるアトラさんを比べるなど意味のないことだ。別にれつじょうを抱いているわけではないのだが、なんというかこう、経験のないことに対する恐怖心といけないことをしているかのような背徳感のせいで、脈拍が上がり、呼吸が浅くなっている。正直、僕がロリコンでないことが今以上にありがたいことは、これまでもこれからも、きっとないだろう。そう思えるほどに、今の状況はへいせいを失わせるのに十二分の効力がある。


 前世では国のおえらいさんと会った時くらいではないかと思うほどの精神力をもって、アトラさんの背中と向き合う。一度深呼吸をして、震える右手を白く僅かに血色の見える肌へ近付ける。無意識に唾を飲み込み、人差し指の先が触れる。ぴくっとアトラさんの体が跳ねるのを視界と指先の感覚で感じ取り、反射的に手を離す。


「んっ……そのように軽く触られると、少しくすぐったいですわ」


 後ろを振り向き僕に視線を向けながら、アトラさんが少しつやめいた声音で言う。


「ごっ、ごめんなさい! わざとじゃなくて……」


 手をわたわたと動かし、必死にべんめいしようとする。その様子が面白かったのか、アトラさんがくすっと笑みをこぼした。怒ってはいなさそうなので、安堵あんどで肩をで下ろす。


「分かっていますわ。頼んだのは私です、どのようにするかはあなたに任せますので、どうぞ思うままに洗ってください」


 その言い回しは色々とまずいような気もするが、僕も一人の大人だ。子供の発言一つくらいでもう取り乱したりはしない。


 一度深呼吸をして、覚悟を決める。減ってしまった泡を手を擦り合わせて再び増やして、さっき触れた部分以外に泡のついていない背中の、肩甲骨より少し下の位置に両手を押し付ける。アトラさんがまた「んっ」と声を出すが、聴覚からの情報を集中でしゃだんして、背骨と肋骨の硬い感触と薄い背中の肉のかすかな柔らかさ、泡も相まってすべすべな肌に両のてのひらを添わせて動かす。


 少しでも力を込めれば折れてしまいそうな華奢きゃしゃな体を傷付けぬよう、押さえる力はごくわずかだ。まずは肩甲骨周りを泡でおおい、柔らかく擦る。この時代の石鹸は天然成分だろうから大丈夫だと思うが、時間をかけて化学反応による火傷やけどをしてはいけないため、慎重かつ素早く動かす。


「……もう少し、力を込めても構いませんよ? 少し、くすぐったいです」


 動かす度に小さく鼻から息を漏らすアトラさんの言葉に従い、一点二倍くらい込める力を強めて、背中に手をわせる。力を加えたためか、アトラさんの上体が少し前方にかたむく。押し返してくるかと思ったが、そのまま動かなくなった。


 アトラさんは、同じ年代の中だとだいぶ細いと思っていたけど、直接体に触れてみて一つ分かったことがある。アトラさんは脂肪が少ないことは言うまでもなく、筋肉も平均より少ない。今押し返してこないのは関係ないかもしれないが、背中は背骨や肋骨が姿勢を正していても浮き出ている。腕やお腹回り、脚なんかもかなり細い。食事が足りていないのではないか、とも思わなくはないが、昨日のプロティアの記憶を覗く限り、アトラさんはそれなりの量を食べるみたいだ。筋肉がつきにくいという、所謂いわゆる美少女体質なのかもしれない。


 こんなひ弱な体で剣など振れるのだろうか、と心配にはなるが、ここは異世界だ。地球とは色々と違うだろうし、今は様子を見ておくのにとどめておこう。


 そんなことを考えているうちに、アトラさんの背中全面が泡で覆われいた。もういいかな、と判断して、椅子にしていた桶でお湯を汲んで初めに僕の手の泡を流し、桶いっぱいにお湯を溜めてからアトラさんの背後に再び陣取りアトラさんの背中に掛けて泡を流す。泡を乗せたお湯が、左手側にある排水溝へと流れていく。


 排水溝の周りに生き残った泡が暗闇に少しずつまれていく様を眺めていると、体を捻って右側からこちらに振り返ったアトラさんが話しかけてくる。


「ありがとうございます、プロティアさん。力加減も程よく、気持ちよかったですわ」


 そう言って笑みを浮かべる。蒸気にてられたか頬を紅潮させていて少し色っぽく感じ、不意な笑顔に一瞬ドキッとしてしまう。女慣れしていない男はこれだから。僕のことです。


「い、いえ……ほら、他も早く洗ってお風呂に入らないと、風邪ひいちゃいますよ! てか、ボクが引きますこのままじゃ」


「それもそうですわね。早く洗ってしまいましょう」


 その後、なるべく急いで体、顔、髪と洗ってしまい――どれだけ頑張っても、腰近くまである白い長髪のおかげで十分は下回らなかった――、先にすぐそばでお湯にかっているアトラさんに続いて、奥の角の方に陣取って、アトラさんに背を向けるように縮こまりながらお湯に浸かる。そういえば、死ぬ前は三日くらいお風呂に入っていなかったなぁ、などと思いながら、風呂好きが多い日本人の精神によるさがなのか、体の芯からじわじわと温度が上がっていく感覚に気持ちよさを覚えて長く息を吐く。


「もう少し近くに来ません事?」


「……近いとせっかくの広いお風呂が堪能できませんので」


「そんなに縮こまって言われても、説得力がありませんわ」


 おっしゃる通り、と心の中で思いながら、若干停止気味の思考回路を頑張ってどうさせる。せっかくゆっくり出来る状況なのだ。昔から考え事をするときはよくお湯に浸かっていたし、今のうちに今後のことを少しくらい考えておかなければならない。


 僕はこれから、プロティアとして生きていくことになるだろう。少なくとも、今のところプロティアが本人に戻る方法は分からないのだし、その方法が見つかるまではそうなるはずだ。ひとずは冒険者学園という、異世界の定番職業とも思われる冒険者を目指すための二年制の学園に通うことになる。ここでは魔物や植生、武器の扱い、戦い方など冒険者として生きていくうえで必要になってくる教養を身に着けることが出来るそうだ。我が身を守るすべを学ぶためだけに通う貴族もいるらしい。アトラさんもその一人だろう。


 この学園での目標としては、この世界についてのしきを仕入れることと、戦闘技術、主に魔法と剣術について知ることだろうか。歴史や地理を学べないのは痛手だが、知っていそうな人を探して教えてもらうとしよう。それと並行して、この世界の物理法則も多少なり調べておきたい。文明を進めるという使命を果たすうえで、重力加速度などの定数や運動方程式などの公式がどれだけ地球と違うのか、ある程度調べておいた方が後々役立つだろう。


 卒業後についてはまだ予想は立てられない。学園で何か問題が起きるかもしれないし、場合によってはこの街を出る必要すら出てくるかもしれない。ただ、何事もなく卒業出来たのなら、恐らく冒険者になって、まずはプロティアの育ちの場であるシンド村のだっかんに向かおう。


 考え事に集中していると、いきなり背中にとすんと重みが加わり肩がビクッと跳ねる。何が起きたかはすぐに推測が立ち、増大していた脈拍も数秒で落ち着きを取り戻す。


「どうかしたんですか?」


「プロティアさんは、はだかを見たり、見られたりするのが嫌なそうなので、背中合わせになりました……これならいいでしょう?」


「……まあ、多少」


 アトラさんの体温を直接感じる分、少しドキドキするが、まだ裸を見ているときに感じていた罪悪感や背徳感に比べればいくぶんかマシだ。


「せっかく一緒にお風呂に入っているのに、離れ離れは寂しいですわ」


「……ごめんなさい。色々と、考えることがあって」


「そうですか……プロティアさん、昨日とずいぶん雰囲気が変わりましたね。昨日はお風呂であんなに会話に花開かせていたというのに、今日はまるで別人のようですわ」


 人格が変わったことをさとられたか!? と、一瞬焦るが、ここで取り乱したらそれこそ答え合わせもいいところだ。冷静をよそおいつつ、どう答えるべきかを考える。


「昨日はその、環境が急に変わってテンションが上がってたんだと思います。実際はこんなもんですよ、ボクは」


 この言い訳なら、多少陰キャが表立ってしまったとしても、違和感は持たれないだろう。プロティアを演じていくとはいえ、そらとしての素が絶対に出ないとは言えない。少しでも危険ははぶいておくに越したことはない。


 アトラさんの返答を待っていると、背中にかかる重量が増した。アトラさんが後ろに体重をかけたのだろう。


「重……くはないですけど、急に体重をかけられるとびっくりするじゃないですか」


「すみません。随分と後ろめたいことを言うものですから、後ろから体重をかければ少しは前向きになるのでは、と思いまして」


「そんなことで考えが変わるようなら、人間苦労しませんって」


「そうですわね」


 ふふふ、と小さく可愛らしく笑うアトラさんにられて、僕もあはは……と小さく笑みをこぼす。背中の重さが小さくなり、少し前屈みになっていた姿勢を正す。


「まだまだ先は長いのです。学園ですら二年もあります。プロティアさんが沢山のことを考えていることは分かっていますが、焦らず、一つずつ答えを見つけていけばいいと思いますわ」


 ……アトラさんの言う通りだ。僕はこれからプロティアとして、何年、何十年と生きることになる。この世界の一年は三百六十日ちょうどらしいから、日数にすれば二万日は優に超えるだろう。一日一つ答えを出しても、二万個も導けるのだ。女子として生きるのも、プロティアとして生きるのも、いずれは慣れる。剣士としてだって、魔法使いとしてだって、学べばいずれは強くなる。


 焦って怪我して退場するより、ゆっくりでもゴールに辿たどり着くことが大切なんだ。今はまだ沢山のことが押し寄せて気持ちがいているだけだ。落ち着いて、少しずつ進んで行こう。


「……そですね。そうします」


「さて、あまり長く入っていても逆上のぼせてしまいます。もう少ししたら上がりましょう」


「はい」


 やっぱり、アトラさんが友達で良かったかもしれない。

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