第12話 今宵、いつもの酒場で(イ)
カウンター席に並んで座る俺と奴の他に客はいない。
俺たち二人の他にいるのは、カウンター・テーブル越しに接客するサダさんだ。後ろの壁際で佐々木が突っ立っているけど、これは酒を飲んでいないから客に入れない計算でいいだろう。
俺は卓の上へ黒い手帳を放り投げた。
奴がそれを手にとった。
「こんなもののために、あんたは子飼いの三下を内山狩人団へ潜入させていたのか?」
俺はグラスを呷った。グラスの中身は荒くれ七面鳥十二歳の水割りだ。卓上にあるこの酒のボトルは内山さんが俺に残してくれたものだ。貧乏性の俺がもったいをつけて飲んでいたのでまだその内容が残っていた。自分でも呆れるようなケチっぷりだ。
もっとも残っていた琥珀色の液体はボトルの底に少しだけだったが――。
「うーん、黒神、三下ではないぞ。あれは皇国軍の諜報員だ」
御影少将が俺と同じグラス片手に言った。俺のほうがこの怪物をこの店に――名古屋港の近くにある胡蝶蘭・本店へ呼び出した。こいつに酒を奢るのは不本意だが呼んだ手前で仕方ない。俺と同じものを飲ませている。
きっとこいつは毒物を警戒して、俺と同じ飲み物の他は口にしない――。
「――目的を果たせずに帰還したら、どんな肩書があっても立派な三下だろうが?」
俺は毒づいた。
「うーん、黒神は潜入させた諜報員に気づいていたのか――」
御影少将が百目鬼の手帳をパラパラとめくりながら気のない調子で言った。
「春日井新団地にあったリサと俺の貸し部屋が何度か荒らされていたからな」
俺は唸った。
「目立たないようにやったつもりだろうが、リサも俺もそれに気づかないほどトロくさくはねェ。それでも部屋から金目のモノが消えているわけじゃなかった。そうなると、空き巣野郎はリサか俺の持ち物のなかで何か特定のものを欲しがっていたわけだ。その目的が百目鬼の手帳だってことは、あんたから連絡を受けるまでわからなかったけどな」
俺は目を向けて唸って聞かせたのだが返事がひとつもねェ。
御影少将は手帳へ熱心に視線を走らせている。
「そんなくだらんもの、あんたはそこまでして欲しかったのか――」
俺はバーボンの薄い水割りを飲みながらボヤいた。
「うーん、そうか、小細工は感づかれていたか。内山狩人団へ潜入させていた諜報員から、春日三山要塞のほうへ『もう限界だ』と泣きが入ってな。それで陸戦部隊を緊急出動させた私は最悪、黒神武雄の死体からこの手帳を回収するつもりだったのだが――」
御影少将が手帳から顔を上げずに笑窪を深くした。
「汚染後、十年以上、生きてきたんだ。簡単に死んでたまるかよ――」
俺は低く呟いた。
「うーん。それはまあいい。こうして目的のものは私の手元に来たわけだからな。皇国軍の諜報員は使えん」
御影少将がグラスを傾けて顔を歪めた。
それはほとんど水だ。
水っぽい酒というものは旨くないのだ。
ざまぁみろ――。
声を出さずに笑った俺が顔を上げると、カウンターの向こうでサダさんも柔和な笑みを浮かべていた。
「御影少将殿が使ったのは、真っ先にパーラー・アテナから逃げ出した若い連中だな。内山狩人団へ十人も潜入させていたのか?」
俺は笑いながら訊いたが返事はなかった。
「耐胞子マスクをつけて防護服を着ていてもデブは体形でわかるんだよ。俺は多治見から――パーラー・アテナから逃げだした筈のデブをまた見たぜ。あの日だ。皇国軍の陸戦部隊が展開を始めた日だ。そこで俺はピンと来た」
俺は笑顔を消して言った。
「うーん、そこで気づかれたか。皇国軍の諜報員の自慢は逃げ足だけだな――それで、黒神。この手帳を今までどこに隠してあった?」
御影少将が俺へ目を向けた。
「その手帳はどこにも隠していなかったぞ」
俺のほうは鼻で笑ってやった。
「それなら何故、黒神とリサの部屋を何度調査しても、この手帳が見つからなかった?」
怪物の声が低くなった。
何かを疑っているようだ。
これはたぶん、百目鬼の手帳にあった情報が他の人間へ洩れたことを警戒しているね――。
「――聞いて驚けよ。あんたが喉から手が出るほど欲しがっていた百目鬼の手帳はな、これまでずっと、リサのジャケットの内ポケットに突っ込んであったんだよ」
俺は正直に教えてやった。
「うーん、ああ、そうか。それで、黒神の貸し部屋を何度ひっくり返しても手帳は見つからなかったのか――」
御影少将が眉間を微妙に歪ませた。
「リサは本当にズボラなんだ」
俺は声を上げて笑った。
御影少将がバーボンの水割りを不味そうに飲み干して、
「うーん、汚染前だな」
「もう用は済んだだろ。あんたはもう帰れよ」
俺は顔を歪めて見せた。
「うーん、まあ、私の用事はこれで一応のところ済んだわけだが――」
回りくどい御影少将は空にしたグラスをもてあそんでいる。
「さっさと帰れ」
俺は短く言った。
「黒神、汚染前の話だ。私が自衛隊の諜報局にいた頃の職員はもっと優秀だった。質が随分と落ちたものだ」
御影少将が胸元のポケットへ手帳を収めた。
「へえ、あんたは昔、そんなキナ臭い仕事をしてたのか。道理でその軍服が板についている筈だよな――ああいや、ちょっと待てよ?」
俺はフンと鼻で笑ってすぐ、御影少将の横顔を凝視した。
「うーん?」
御影少将は水割りを作るサダさんの手元を眺めていた。
「汚染前の自衛隊に諜報局だと? そんなものなかった筈だろ? また、あんたのはったりか大嘘の類か?」
俺は顔を寄せて訊いた。
「うーん、一般人は知らんよな。あれは非公式の機関だった」
御影少将がひとつだけある笑窪を深くして、
「しかし、自衛隊内に対外諜報機関は確かにあった。正式名称は幕僚運用支援班。特班とも呼ばれていた。国からの予算が降りていたから、あれは間違いなく正式な諜報局だ。まあ、国家予算と言っても内閣官房機密費から捻出されていたものだったが――ああ、黒神、あの小池さん――小池幾太郎陸軍少将も私と同じ特班出身でな――」
「――いーや、それは絶対に聞きたくねえ。それを言うな、言わなくていい」
俺はその発言を遮った。
ちょっと耳に入ってきてしまったけど。
何にしろ、あのアブラ狸は一年を通して面倒事のバーゲンセールをしているような野郎なのだ。
もう俺は二度とアブラ狸に関わりたくねェ――。
「――うーん、そうか。しかし、何かを取得した際、その対価を要求されないと不気味だろう?」
御影少将が顔を傾けて見せた。
「不気味とかな。何を馬鹿抜かしてやがるって話だ。手下をぞろぞろつれてきやがって。どうせ店の表にも皇国軍の兵隊さんがたくさんいるんだろ。ああ、諜報員なのか、そこらはよく知らんけどな?」
俺は背後へ目を向けた。
「やっ、どうもどうも――」
ニコニコしているのは壁際の佐々木だ。こいつは入店してすぐ俺とサダさんの身体検査をして、俺のレッグ・ホルスターにいた相棒を――リボルバーを取り上げやがった。
「チッ――」
俺は舌打ちを聞かせてやった。
佐々木は女みたいな顔でまだ笑っている。
イラつく野郎だよね――。
「うーん、黒神は上官に向かって反抗的な態度だな。今の私は以前よりひとつ昇進して皇国陸軍少将だぞ」
御影少将が笑窪を深くした。
「俺は皇国軍の兵隊さんじゃないぜ。ほら、見ての通り志願をしなかった」
俺は椅子の背もたれに体重を預けて腕を広げて、
「今の俺はサラリーマンだ。だから、相手が将軍だろうと元帥だろうとそいつに媚びへつらう必要は全然ないね」
今日の俺は黒色に近い濃紺の背広にネクタイを締めた姿なのだ。
「何故、黒神武雄は今になって複合企業体に加担する気になった。NPC狩人組合員にいた組合員で使えるものはすべて皇国軍へ吸収された。今後の体制を考えると軍務は決して悪い待遇ではなかった筈だがな――」
御影少将が淡々と言って薄い水割りの入ったグラスを傾けた。
そして、顔を歪めた。
つい先日の話だ。
日本再生機構がNRHKの緊急放送で列島再生計画を発表した。今後、全居住区の運営は複合企業体の手で運営される。再整理後の居住区を保持するのはNPC狩人組合を吸収した日本皇国軍の役割になる。全居住区はこれから民営化されるわけだ。汚染後、不透明な組織のまま施政を行っていた日本再生機構の実態は各複合企業体の幹部が作った、ただの連絡網だった。日本再生機構は日本幽霊機構だったのだ。それを俺たちは今になって知らされた。複合企業体が区外で行っていた実験は終わりを告げた。今後、各居住区は大農工場として再整備される。そこに住む人間は生産効率向上の為に徹底管理される計画だとNRHKは言う。
汚染列島いる人間は例外なくすべて社畜になるのだ。
名古屋居住区ではそれをするための工事がもう始まった。
今は解体された日本NPC狩人組合は(名古屋の新団地へ集結させられて皇国軍から武装解除を要求された組合員は反乱することができなかった)、複合企業体と日本皇国軍が結託し汚染後の十年間、着々と進行させていた汚染列島再生計画へ、知らないうちに協力をしていた形になった――。
「――私は少しだけだが、黒神武雄という男の理解に苦しんでいる」
御影少将が空にしたグラスを手でもてあそびながら言うと、カウンターの向こうでサダさんが不思議そうな顔をした。
「――へえ、そうかよ。ところでどうだこの背広、なかなか俺に似合っているだろう?」
俺はせせら笑ってやった。
御影少将が横目で俺へ視線を送って、
「いや、無様だな。もう少しマシな背広を持っていないのか?」
「これ、汚染前のだから――」
俺は自分の身体へ視線を落とした。
まあ、実際、ヨレた背広だ。
「うーん、汚染前に購入した背広を今の今まで持ち歩いていたのか。そこらは黒神も変わらんな。物持ちがいい」
御神少将がグラスを置くと何も言わずに頷いたサダさんがバーボンの水割りをそこに作った。
「貧乏性自慢だ。汚染前、俺が自動車の営業販売員をやっていた頃に、この背広を着ていた。もう二度と使わないだろうなと思ってはいたが、俺はこれを捨てきれなかった――」
俺は呟いた。汚染前の記憶がこの背広には染みついている。汚染で死んだ親父とお袋が――まあ、本当のところ死んだかどうかわからない。汚染発生時だ。自動車販売営業所を不貞腐れて退職した俺は裏の山深くで独りキャンプをしながら無為な日々を過ごしていた。「このまま、木こりかマタギにでもなろうかなあ」そんなことを考えながらだ。そこで知り合った山の漁師のオッサンと一緒に(その彼から俺は銃を撃つことも教わった)汚染発生時と震災の混乱を切り抜けた俺が自宅へ戻ったときには、もうそこにいなかった親父とお袋が大学を卒業したとき「就職祝いだ」と言って俺へ買ってくれた背広――。
「うーん。しかし、お前にそんなコネがあったか。ここにきて複合企業体の企業戦士に転職するとはさすがにこの私も予想できなかった――本当に、この黒神武雄が、自動車の販売員なんぞをやるつもりなのか?」
うっすい水割りのグラスを蔑むように眺めながら、ぶつぶつと言っていた御影少将が、俺へ目を向けた。
それは怪物でなくて人間の目だった。
「あんたは昔と同じで本当にしつこいな。ああ、そうだよ。俺はこれから企業戦士になるんだ。何十年ぶりかの出戻り再就職だよな――地獄耳が自慢の御影洋一なら、もう俺の再就職先を詳しく知っているんじゃないのか?」
俺はグラスの薄い水割りを舐めながら鼻を鳴らした。
「うーん、私は知らんな。どういう経緯なのか言ってみろ」
御影少将が顔を向けて話を促した。
「いい加減、帰れ」
俺は正面を向いたまま吐き捨てた。
視線の先でサダさんが小さく笑っている。
「うーん、佐々木くーん、黒神武雄を今ここで殺しちゃおうか?」
御影少将が椅子から振り向いた。
「――あっ、はい、やるんですか?」
壁際の佐々木が腰の拳銃へ手をやった。
俺が顔を思いっきり歪めたところで、
「ああ、御影さんね。それはちょっと簡便してください。この店を血で汚すとね――」
と、サダさんの助け舟だ。
「――うーん?」
御影少将が姿勢を戻した。
「再生機構の――ああいや、複合企業体のお偉いさんから怒られちゃいますよ?」
サダさんが柔和に笑った。
「うーん、この雑居ビルも複合企業体が接収済みなのか――」
御影少将が店内を見回した。時刻は夜の十時だ。名古屋港近くにある雑居ビルの一階にある胡蝶蘭・本店は広い店構えなのだが客はひとりもいない。店員の女の子もサダさんの舎弟もいなかった。店の中央に置かれた大きな水槽にも住人がいない。
「――そうなんですよ」
サダさんが言った。
「ここら一帯の土地は、大農工場の大きな施設を作るとかで複合企業体に強制徴収されました。私としては迷惑な話ですがね――」
「それで店に客がいないのか?」
御影少将が顔を傾けた。
「はい、今日をもって列島にある私の店は――胡蝶蘭はすべて店じまいです」
サダさんが頷いた。
「うーん、しかし、これは悪い雰囲気でないな」
御影少将は満足そうに頷いて返して笑窪を作って見せた。
「そうですか、私は寂しいですよ?」
サダさんは弱く笑った。
「酒を飲んで騒ぐ奴はみな馬鹿だ。酒場はできる限り静かなほうがいい――ジャズは嫌いだが?」
御影少将が薄い水割りを飲みながら呟いた。
店内のBGMは歌のないジャズだった。
俺はその曲名を知らない。
「ああ、そうでしたか、では音楽を変えますか?」
サダさんが後ろの棚にあった音響装置をいじると、天井から下がったスピーカーから流れてくる音楽は、ジャズからクラシックに変わった。
「――うーん、ベートーヴェン。ピアノソナタ二十三番、熱情、第三楽章」
御影少将がグラスに口をつけたまま言った。
「御影さん、よくご存じですね。クラッシックがお好きですか?」
サダさんが振り返って目を開いた。
「嫌いだから覚えている。ベートーヴェンの楽譜は総じてくだらん」
御影少将は歪んだ唇の端にあった笑窪を深くした。
「ああ、そうなんですか――」
そこでさすがのサダさんも顔から笑みを消した。
他人の笑顔をすべて消し去るのが御影洋一という男なのだ。
俺はグラスを傾けながら声を出さずに笑っていた。
「うーん、音楽はモーツァルトだけでいいだろう。
御影少将が抑揚のない声で言うと、
「そうですか。御影さんはモーツァルトがお好きですか。では、それにしましょう――」
サダさんがまた背を向けて音響機器を操作した。
「アマデウスは徹底的にナンセンス」
御影少将のダジャレみたいな発言だ。
「はあ、モーツァルトはナンセンスですか――」
サダさんが背中で答えた。
俺の位置からその表情はわからないが呆れ顔だったかも知れないね。
「アマデウスはその生涯で、ただひたすらナンセンスなもの――音楽だけを作り続けた」
御影少将が言った。
「ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの楽譜には遊び以外の主張がない。だから、アマデウスは音楽の天才ということになる。世に天才と言われる人間は各分野にたったひとりだけでいいだろう。凡俗の存在を天才とまで持ち上げることを喧伝と言う」
「――なるほど。それは確かにそうかも知れませんね」
サダさんが振り返って頷いた。
笑ってはいない。
熱情が途切れたスピーカーから流れてきたのは、モーツァルトの
終焉まで確実に進行する
「うーん、ともあれだ。ひとを消すのにこれは絶好の状況ではないか。この店は静かで人目が少ない――」
と、俺へ脅しを入れてきやがった。
サダさんはへらへら笑っている。
俺は顔を歪めて、
「くっそ、こいつって野郎はな。サダさんだって意地が悪いぜ――わかったよ。別に隠すようなことでないから教えてやる。春日井新団地へ――今は皇国軍の寮だが――とにかく、新団地へ視察にきた複合企業体の背広組がな――」
「うーん?」
御影少将が満足そうに目を細くした。
俺は喉元へせり上がってきた苛立ちを薄い水割りで腹へ流し込みながら、
「――その視察団のなかに、俺が汚染前に勤めていた自動車販売営業所の同僚が――先輩社員がいたんだよ。加地って男だ」
「うーん? その加地という男は、黒神の古い友人か何かか?」
「いや、加地さんは友人とは違うね」
「――うーん、そうだな」
視線を落とした御影少将が、
「黒神に友人がいるというのは、さすがにありえん話だ。すまなかった、そこは私のひどい失言ということでいい」
落ち込んだ様子で言った。
どうだ、この怪物にだってミスはあるのだ。
いーや、そうじゃねェ。
唯我独尊で凝り固まったあんたが他人の友人関係を――俺のことをとやかく言えるのか?
俺は御影少将を横目で睨んだが奴は視線を返してこない。
「だから、加地さんは友人だとか、そんなのじゃねェって、この俺自身が言っているんだがな!」
怒鳴るように言った俺は、
「新団地で営業していたおでんの屋台で偶然、隣り合った加地さんと俺が顔を合わせたときだ。向こうのほうは――加地さんはひどく俺のことを懐かしがってね――」
「う、うーん、やっぱり、その加地という男は黒神の友人なのか。本当にいるのか、黒神武雄に友人と呼べる人間が?」
動揺した様子の御影少将だ。
「――あのな、そこから離れろ」
俺は大きく息を吐いたあと、
「汚染前の職場の話だ。俺はそこで加地さんからそう良くしてもらった覚えがない。俺の方だって加地さんに懐いていたわけでもない。でも汚染が始まった直後、死んだ奴は数えきれないほどいたからな。誰だって昔に見た顔を久々に見ると、感傷的な気分にもなるだろ――」
「うーん、くだらない過去も思い出のなかでは美化されるか?」
御影少将がひとつだけの笑窪を作った。
「――まあ、お互い、そんな気分だったんだろうな」
俺も短く笑った。
御影少将が言った。
「それで、複合企業体に――大豊コーポレーションだったな。その対外営業部に新設された第三課にいる加地拓郎課長から黒神武雄は誘われたという形になるのか?」
「俺は加地さんの下の名前を言ってねェ。会社の名前も所属している部署もだぜ?」
俺は唸った。
「うーん、そうだったか?」
御影少将の表情は変わらない。
どうせ前もって全部調べがついているのだろう。
「中国とロシアと日本再生機構の――複合企業体の和平は、もう成立したんだろ。今後はお互いの領土を不可侵とするって、俺はテレビのニュースで聞いたがな。それも嘘なのか?」
無駄なことを喋らされている俺は苛々しながら御影少将へ目を向けた。
こいつがいる場所は複合企業体が作った幽霊政府の中央に近い筈――。
「それは真実だ。ただし、先日締結された、日・中・露NPC共闘宣言を主導したのはアメリカ政府――」
御影少将が怪物の声で言った。
目から光が消えている。
そこにあるのは二つの洞だった。
虚無の瞳――。
「――そこまで俺は詳しく知らん」
俺は野良犬の声で唸り返して、
「これから列島へ新しく建設される大農工場は、和平をきっかけに中国やロシアへ販路を広げる計画だ。本国に胞子汚染を抱えているロシアと中国のモノ不足は深刻だからな。喜んでこっちの話に食いつくさ。考えるまでもねェ話だ――」
「うーん?」
御影少将が顔を傾けた。
「まだ、あんたは納得いかないのか? 俺はロシア語ができるだろ。それでこの話は――大豊コーポレーションの営業部へ俺が再就職する話はすんなりまとまった。加藤さんは――大豊コーポレーションは必要だから、俺を雇うことに決めたんだ。感傷や同情だけの話じゃないぜ」
俺は空にしたグラスを置いた。
サダさんの手がすっと伸びてきて、またそのグラスに水割りを作ってくれた。
いくら飲んでも酔えそうにない薄い水割りだ。
「うーん、なるほど。黒神の芸が身を助けたというわけか――」
頷いた御影少将はそこでようやく俺から視線を外した。
「本当に助けたのかな。破滅への第一歩かも知れないぜ。複合企業体は労働者を人間扱いしねェだろ。元気で働けているうちはかろうじて生きていられるってくらいの待遇だからな――」
俺はサダさんから手元にきたグラスを睨んだ。
「大農工場のなかで働くよりも外へ出れる背広組はマシだろう」
気休めを言ったのかどうか判断をしかねるほど、御影少将の声は興味なさげな響きだった。
「それはどうかな、俺には似たり寄ったりだと思えるぜ――」
俺は低く呟いた。
「うーん、それで黒神、お前の愛人は今後どうするつもりだ――」
怪物がその顔をまた俺へ向けた。
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