第5章 ゾンビ列島の再生計画

第1話 ズワイガニの女王様(イ)

 ズワイガニだ。

 汚染列島の北陸とその北にある海域は、ロシアと中国が仲良く分け合って支配しているので、このカニを正規に輸入するとなると、それはアラスカかカナダあたりになるのだろうが、しかし、カニを不当なまでに安く食わせるのでこの店は有名だから、ロシアから密輸されたものを使っている可能性が高いだろう。日本再生機構の支配地域で最大の人口を抱える名古屋居住区は裏道へ入ると、中国人どころかロシア人までがうろついている始末で、俺は本当に驚いた。もっとも出稼ぎにきたらしい東南アジア系の男や女や、取材に来る外国の報道機関や、怖いもの見たさで頭が狂ったらしい外国人観光客が、売春婦やヤクザものに交じってウロウロしている名古屋居住区の栄繁華街では、中国人やロシア人がいたとしても目立つことはない。中国人とロシア人が日本の敵国人であるという事実は名古屋居住区が持つ混沌に溶け込んでいた。

 今、俺がいるカニ料理専門店の周辺では路上をたむろしているロシア人が多かった。そのたいていは違法薬物だとか区に未登録の銃器を売る柄の悪い連中だ。それは、ここが日本の仮首都だとも、民族主義的な思想を吹聴する日本皇国軍のお膝元だとも思えない光景だった。再生機構も皇国軍も日本再生・再興をうたっているが、実際は自分たちの立場と組織さえ守れれば他のことはどうでもいい連中なのだ。それに名古屋居住区の治安を維持・管理しているのは日本NPC狩人組合の区内警備員だから、中国人やロシア人を見たところでうるさく言わない。袖の下のひとつも渡されれば「いよう、ブラザー」とまで愛想良く言うのだろう。本来なら自国民である奴隷や社畜を相手には苛烈な対応をする癖に、外国人が相手だと腰が引けて不当な優遇をするわけだ。まあ、汚染前から日本はずっとそうだ。外から来る連中への体裁は保つのだが、目と鼻の先にいる弱者はすべて見殺しが日本人が声高に誇る民度とやららしい。その昔、何かの暇ついでに(暇を持て余していなければ、こんなにせせこましい島国へわざわざ足を向けるもんかよ)日本へのこのこやって来た物好きな慈善家の婆さんも似たようなことを言っていたような記憶がある。汚染後は弱者を大っぴらに搾取したり駆除するようになっただけの話なのだろう。むしろ、元からあった嘘を隠すことをやめた分、以前よりもマシな世の中になったのかも知れないよね。

 それはともあれだ。

 俺はカニの店の表にいた不良ロシア人から煙草を買った。値段は大農工場で生産された煙草の半額ていどだ。その煙草のパッケージに『侍 -TheSamurai-』と銘柄があった。

 何だよ、このネーミングは――。

 側面にある詳細な表記はロシア語だ。読むとこの『侍』はロシア極東軍が管理する強制収容所ラーゲリで作られられた製品らしい。おそらくは日本人奴隷の労働力で――。

 俺は大座敷にあるテーブルの一角に胡坐をかいて、ズワイガニを食いながら――正確に言うと俺が今食っているのは、ズワイガニの入った茶碗蒸しなのだが――とにかく、それを食いながら、左右にいる美人のお酌でビールを呷っている。なかなか贅沢だ。ついでに、さっき買ってきたロシア煙草――侍を一服できればもっと贅沢なのだが、席をひとつ飛ばして左にいるリサの視線が厳しいのでそれはできそうにない。

 いや、大座敷にいる他の奴らだって煙草をバカスカ吸っているだろ。

 何でリサは俺が煙草の箱を持っただけで、そんなに厳しく睨むの――。

 俺がそんな視線で訴えても、リサの目尻は吊り上がったままだった。それで俺は渋々、煙草を胸ポケットへ戻して、コップのビールを呷った。この大座敷にいる埃っぽい男たち――組合員がそこらじゅうで煙草をバカスカふかすから、天井が――四角く区切られたところにカニの絵ばかりが並んだ天井が白く霞んでいた。

 今夜は先日までやっていた区外工事現場防衛任務の打ち上げだ。内山狩人団はもちろん、他の狩人団も参加して結構な規模の宴会になった。浜松居住区から名古屋居住区へ移動してきたリサと俺は内山狩人団に籍を置いて仕事をしている。

 空にしたコップを置いたところで、黄金の炭酸水が注がれた。

 まあ、これはビールだよね。

 お酌をしてくれたのは女の子っぽい華奢な手だった。

 この手の持ち主は美人といえば美人なのだけどな――。

「――ああ、わざわざ悪いねえ、ハヤト君。俺に気を使わなくていいから、カニを食べなよカニ。すごくおいしいぞ」

 俺は平坦な声で言った。

 カニの酒宴が始まって何回目かになる言葉だった。

「いえ、僕は好きでやってますからいいです」

 ハヤト君がほくほく笑った。

 上向けた笑顔の頬が赤い。

 ずっと俺の左にハヤト君がくっついてお酌をしてくれやがっている。

 こちらからは頼んでいない。

 いつの間にか、並んで座っていた俺とリサの間にハヤト君がいたのだ。

 この女の子みたいな男の子の向こうでリサはカニを食っていた。

 その向こうには、ハサミを片手にした内山さんがリサが食うカニの面倒を見ている。

 リサは上手にカニの殻が剥けないらしい――。

「ふっうぅう――!」

 甘くて、湿っぽくて、重ッ苦しい溜息だ。これは俺の右で茶碗蒸しをのそのそ食っていた女が吐き出したものだ。

「――ああ、うん、どっ、どうしたの、秋妃さん?」

 これは俺の呻き声だ。右へ視線を送ると両手でビール瓶を持った秋妃さんが、下から抉り込むようにして俺を見つめている。ハヤト君に先を越されたのが気にくわないらしい。普段のこの女性ひとは動作は、たいていの他人より遥かに遅い。すっトロくさいとも言う。髪の毛の間から真っ平になった女の瞳がひとつ見えた。うん、こういう女の幽霊が出てくる日本の映画が昔あったね。サチコだかハナコだかという女の幽霊がテレビ画面からにょろんと出てくるやつだ。名前は違ったかな。まあ、それは今どうでもいい。とにかく最近の秋妃さんはポニーテールをやめて髪の毛を下ろしている。栗色の綺麗な髪質ではあるのだけど、何だろうなあ、以前よりもグンと湿度が上がったこの雰囲気は――。

「あっ、いっ、今、この杯を空にするからね――」

 いつも言っているけど、俺は小市民で小心者なのだ。秋妃さんの怨念のようなプレッシャーにはとても耐えられない。コップを空にすると、秋妃さんが嬉しそうにお酌をしてくれた。すると、俺の左にいるハヤト君がビール瓶を抱えて小刻みに震えだした。

 俺としてはだな。

 左右にいるこいつら両方とも面倒くさいぞ。

 他の奴を相手すればいいのになあ、もう――。

「おい、三久保よ――?」

 そこで俺は呼びかけた。

 三久保は秋妃さんの向こうにいる。

 カニを必死で食っている。

 返事がない。

「おい、三久保――!」

 俺はもう一度呼びかけた。

 返事がねェ。

「――くっそ、色々とどうなってるんだ、おい、三久保!」

 俺が怒鳴って呼びかけると、

「――ああ、黒神さん、何?」

 ようやく三久保が顔を向けた。

「はい、向こう側のテーブルにご注目――」

 俺は視線で三久保を促した。対面でカニを食っている斎藤君と橋本の間から見えるテーブルだ。

「――ん?」

 三久保が首を捻った。

 カニの殻が上手く剥けずに肩を震わせる秋妃さんの背中から顔を送って、

「三久保、さっきから、あっちのテーブルの連中に俺は睨まれているんだけどな?」

 俺は声を低くした。

「ああ、確かにあいつら、こっちをじっと見ているね――」

 三久保がカニの刺身を醤油皿へ突っ込んだ。

「おい、三久保よ」

 俺は唸って訊いた。

「俺、向こうのテーブルにいる奴らに何か悪いことをしたか? あいつらも確か内山狩人団の団員だろ。今回ばかりはいくら考えても、まったく俺のほうに心当たりはないんだがな?」

「うん、黒神さん」

 三久保が言った。

「あの若い連中はウチの団が名古屋居住区へ来てから入団してきた新入りだ。何人かで一緒に小さな狩人団をやってた筈だけどな。あいつらの名前、何だったかなあ――」

 姿勢を戻した俺は空にしたコップの上で、ガチンガチンとチャンバラをしているビールの瓶口を眺めながら、

「三久保、俺を睨んでいる連中は誰なんだ?」

 秋妃さんとハヤト君が俺を挟んで何かを張り合っていた。双方に女の意地があるのだろうか。ああ、片方は女じゃなかった。まあ、俺はそんな意地どうでもいい。

 マジでどうでもいいのだ――。

「――いやあ、黒神さんさあ」

 三久保が口からカニの刺身を垂らしたままの顔を上げて、

「最近はさあ、入団者が多くて顔も名前も覚えきれないぜ。黒神さんだって、ほとんど覚えていないだろ?」

「まあ、そう言われると返す言葉はないがな――」

 俺は顔を歪めた。三久保の言う通りだ。現在、拡張工事中の名古屋居住区は組合が発注する任務も大規模なものが多く、小規模の狩人団は仕事を請け負うのが難しい。それで各地から集った狩人団の再編成が行われている。内山狩人団も例外ではない。元々、内山狩人団はそれなりの規模であるし、その団長をやっている内山佐次郎は人手は多ければ多いほどいいという考えだから、もっぱら小規模な狩人団を吸収する側になっている。リサと俺が名古屋に来てから、まだ一ヶ月も経っていないのだが、その間に内山狩人団の団員数は五百名近くにまで膨れ上がった。まあ、名古屋居住区はそれだけの人数を賄える好景気でもあるけどね。

 でも、拡張工事好景気が終わったら、どうするんだろうなあ――。

「三久保、その新入り団員が何で俺を睨んでるんだ。同じ新入りの俺が団長と同じテーブルにいて贔屓されているからか?」

 俺は内山さんへ目を向けた。その大顎の団長さんは、リサの食うカニの殻をせっせと剥いている。横で八反田がそれを手伝っている。団長は恵比寿顔だ。八反田は真剣な顔だった。リサは無表情だ。「わたしは可愛い女の子だから、男からチヤホヤされるのって当然の話よね?」とでも言いたそうな態度だ。実際、そう考えてもいるのだろう。こいつはそういう性格だ。内山さんはリサを甘やかしすぎだと思う。甘いと言えばだよ。入団してからのリサは甘いお菓子を内山さんからもらっている。菓子折り単位で毎日だ。内山さんも大の甘党なのだ。名古屋居住区に来てから、リサは以前よりもずっとワガママになった。特に食べ物に関してはひどい。「おやつを食べ過ぎて夕ご飯いらない」こういうことが増えた。ちょっと前なら考えられなかった。よくない傾向だよな、これはな。そんな食生活だと、もしかするとまだ育つかも知れないリサのちいぱいだって立派に育たないだろ。

 リサの僅かな可能性が、今、老害の手で潰されようとしている――。

 遠くを見やっていた俺に、

「いや、黒神さんを睨んでいるっていうかさ。あいつらが見ているのはこっちの――秋妃のほうじゃね?」

 と、三久保が言った。

「――ああ、男の嫉妬ってやつか?」

 返した俺の声は平坦だ。今夜は狩人団が揃った宴会だから座敷の野郎率はかなり高い。カニを食っている九割以上が埃っぽい男どもだ。確かに数少ない花が俺の両隣にいる。しかし、右にいるのは病んだ感じだし、左にいるのは女の子ですらないんだぞ。病んだ花と花モドキでは両手に花とはならんだろ。それでも俺の座る席が羨ましいのか。

 わけがわからねェ――。

「――そうじゃね?」

 三久保だ。

「ああ、向こうのテーブルにいる連中は秋妃さんの悪い男癖に――」

 俺は時計の三時方向から真っ平になった視線が飛んできたのを感じて(撃ち抜かれたというか――)、

「――ああ、いや、ええとだなあ! 向こうのテーブルにいる連中は、秋妃さんと以前、お付き合いをしていたとか、そういう男のひとたちなのかな?」

 ていねいに言い直した。のろのろ頷いて見せた秋妃さんが俺のコップへビールを注いでくれた。

 それまだ中身が入ってるよ。

 こぼれそうだ。

 あっ、こぼれた――。

「――そうじゃね?」

 三久保だ。

「あのなあ、三久保――」

 俺は口のほうをコップへ近づけてビールを飲んだあと、

「俺が積極的に秋妃さんを隣に呼んだわけでも――」

「――黒神さん、それを俺に言われてもさあ」

 三久保はカニの殻をバキバキやっている。

 俺が溜息と一緒にコップを置くと秋妃さんとハヤト君がビールの瓶口でまたチャンバラを始めた。

 秋妃さんもね。

 ハヤト君もだぞ。

 俺へのお酌はもういいからカニを食べなよカニ。

 カニ、おいしいよ――。

 俺の気持ちなんて知ったことではないのだろう。

「――黒神さん?」

 秋妃さんの涙声だ。見ると秋妃さんが俺のコップへ注ごうとしていたビールはテーブルへ全部こぼれていた。びしょびしょだ。ハヤト君がフフンと勝ち誇っている。

 お酒で遊ぶなよ、もったいない――。

「――くっすん」

 うなだれた秋妃さんが鼻を鳴らした。俺からは顔が見えないけど泣きそうだ。見ての通り秋妃さんはすぐに泣く。ほんの些細なことでだ。区外ではNPCを相手に顔色ひとつ変えず銃を撃ちまくってるけどね。

 よくわからない女性ひとだよな――。

 気乗りはしなかったのだが、

「何かなあ、秋妃さん?」

 俺は訊いた。

「黒神さんは私のお酌、そんなに嫌なの?」

 俺の肩を頭でどすどす小突く秋妃さんだ。

「そっ、そういうわけじゃないけど、そんなくっつかなくても――」

 俺が呻くと、

「――ぐっすん!」

 秋妃さんが鼻を鳴らした。

 本格的に泣きだしそうだよな、これ。

 面倒だなあ、もう――。

「あっ! ま、まあ、秋妃さんもビールを飲みなよ、ね?」

 俺は秋妃さんの持っていたビール瓶を取り上げて彼女のコップへビールを注いだ。

「――いただきます」

 秋妃さんが消え入りそうな声で言って、うつむいたままビールをちびちび飲んだ。こんな陰気にビールを飲むひとを俺はこれまで一度も見たことがないぞ。

 それでも酒が入れば多少は明るくなるかな、そんな期待をしつつ、

「うん、まあ、ぐっと飲め飲め――」

 ビール瓶片手に秋妃さんを煽っていると、左からぐいぐいと熱くて華奢な体を寄せてくる奴がいる。嫌々ながらだ。俺が左へ目を向けると、胸にジュースの瓶を抱えたハヤト君が、何か言いたそうにしていた。それはグレープジュースの瓶だった。

「――えっ? ハヤト君も俺にお酌してほしい?」

 嫌々だ。

 俺が訊くとハヤト君がこくんと頷いた。

 泣きそうな顔だ。

「ああ、わかった、やるやる。そうやって目をうるうるさせるな。そもそも、君は男の子だろ。もっと男らしくだなあ――」

 すぐ諦めた俺はハヤト君からジュースの瓶をひったくって、コップへジュースを注いでやったのだけれど、胸元へ黒いリボンのついたブラウスにふりふりのついたスカート姿の男の子へこんなことを言ってもきっと無駄だよな。

 まあ、一応だ一応――。

「黒神さん、秋妃はね――!」

 今度は右からだ。

 さっきより不安定な声だけど大きくなった。

「ああ、うん、へえ、ちょっと酔っただけで、秋妃さんは自分のことを『秋妃』って言うんだ、へえ――」

 俺の目は泳いでいると思う。

「秋妃はね、一昨日が誕生日だったの。三月三日。お雛祭りの日――」

 秋妃さんが平べったい瞳で俺を見つめた。

 何で君はいつもそんなに泣きそうで必死で暗くて病んでいるんだ。

 ああ、年齢を取るのがそんなに嫌なのか?

 女の子はそうだろうけどね。

 男だってあるていどの年齢がいくと誕生日は全然めでたくなくなるものだぞ。

 それでも生きていれば年齢は重なっていく。

 だから、諦めろよなあ――。

 そうとも言えずに、

「ああ、へえ、そうなんだあ――」

 俺は適当なことをいいながらカニの刺身を食った。

 まあ、カニの刺身は甘くてトロっとしていて旨かった。

 今日日、カニの刺身なんてものは滅多に食えるものじゃないからね。

 汚染前だって高級品だったから、なかなか口にする機会はなかったのだ。

 できるなら、もっとじっくり味わいたいところだけど――。

「武雄さん、武雄さん! 僕は五月五日生まれなんですよ。こどもの日なんです」

 ああ、ほら、邪魔された。

 ハヤト君だ。

 ハヤト君も俺をじっと見つめていた。

「あっ、ああ、そうか、ハヤト君は子供の日に生まれたのかあ――」

 俺は曖昧に答えた。

 誕生日を教えられても困るだろ。

 俺にどうしろと言うのだ?

「――ぐっすん」

 およよとうなだれた秋妃さんだ。

 すごい陰気だ。

 チラ見すると彼女の手のコップは空だった。

 ああ、はいはい、お注ぎしますよ、すいませんね、お待たせしてね――。

「――それで、秋妃さんは、誰から誕生日を祝ってもらったの?」

 俺がビールを注いでやりながら訊くと、

「ぐっすん!」

 秋妃さんがビクンと身体を丸めた。

 ああ、年齢でなくてこっちが地雷だったのか。

 面倒だよなあ、もう――。

 秋妃さんが突っ伏すと、その向こうでカニを黙々と食っている三久保が見える。

「おい、三久保よ?」

 俺は呼びかけた。

「ん、何、黒神さん?」

 三久保がカニを食いながら応えた。

 こっちへ視線もよこしやがらない。

「秋妃さんと三久保は今、どうなってるんだ?」

 俺は唸って訊いた。

「――どうって何が?」

 気のない態度で返事をしてカニの足をしゃぶる三久保だ。

 そこでぬるりと秋妃さんの視線が上がってきやがった。

 身体を丸めたまま首を抉るようにして捻った体勢だった。

 ブラックホールみたいな瞳が髪の間からじっとり俺を見つめている。

「そっ、その関係性というか、その、何だろうねえ、秋妃さん?」

 俺の声は裏返った。

「関係性かあ。秋妃と俺は内山狩人団の同僚だよな?」

 三久保が秋妃さんへ目を向けた。

「――そうよね、三久保君と秋妃は別れた理由が不鮮明な元恋人で、今はただの同僚よね?」

 秋妃さんは弱々しくて陰湿な返事をした。

「――うん、黒神さん、秋妃と俺は仕事仲間だよ」

 三久保のドライな結論だ。

「くっそ、本当に無責任な野郎だ――」

 俺が顔を歪めると、ふわあと身体を起こした秋妃さんが、

「黒神さんね、秋妃ね、祝ってもらったの――」

「――呪って?」

 俺は訊いた。

「違う、祝って――」

 弱々しく頭を振った秋妃さんだ。

 俺は硬い笑顔で、

「あっ、ああ、秋妃さんの誕生日を誰かから祝ってもらったの?」

「そうなの」

「そっ、そうか、それならよかったね。あっ、もしかしたら亜紀さんにまた新しい彼氏ができたのかなあ。それは本当に良かったねえ――」

「日が変わった直後に『おめでとう』って言って、誕生日プレゼントをくれたのは団員の田村君だった。その次に団員の菅沼君と団員の長谷川さん。朝になったらアパレルショップの加納さんと、それに美容院の飯野さんと、ドーナツ屋さんの店員の――」

 指を折って弄んだ(弄んでいる?)男を数え始めた秋妃さんを、

「――あっ、もういいよ、秋妃さん。それ以上、言わなくていい。俺は聞きたくない」

 俺は遮った。秋妃さんの場合、恋した数だけ自分の価値が上がると考えている頭のおかしいギャルよろしく、交友関係にある男性の多さを自慢しているわけではない。これは一度に多数の異性へ依存をしないと生きていけない不安定で病的な性格なのだ。だから俺は秋妃さんとの間にある距離を縮めたくない。実際、俺はその横にいるだけで秋妃さんの毒牙にかかったクソ馬鹿な男どもから睨まれている。本気でガンを飛ばされている。キル・オン・サイトって雰囲気だ。秋妃さんは男にとっての面倒事を大盤振る舞いしながら生きているような女だから――。

「――でも、黒神さんは誕生日プレゼントなしどころか、秋妃におめでとうとも言ってくれなかった」

 秋妃さんから妙にはっきりした声でこう言われた。

 耳元だ。

「くおっ! ――お、俺は秋妃さんの誕生日を知らなかったからな。そうか、三月三日だったのか。それは憶えやすいな、うん、今、憶えたぞ。来年に期待をしてくれよな」

 俺は目をそっちに向けて後悔した。

 光を失った二つの瞳が俺を捉えている。

 これ完全にホラーだ――。

「――ほら、黒神さんは秋妃の年齢だって訊かない!」

 秋妃さんのホラーな瞳がぐにゃぐにゃ揺らいだ。

「じょ、女性に年齢を訊くのは失礼だよね――」

 俺は顔をうつむけた。

 秋妃さんは美人だが今は彼女の顔を見たくない気分だ。

「――黒神さん?」

 吐息が俺の頬にかかったから、秋妃さんは顔を寄せているのだろうね。

 見てないからわからないけどね――。

「あっ、はい――」

 俺は小さな声で返した。

「正直に言って?」

 秋妃さんが囁いた。

「俺はいつだって正直だよ?」

 俺は嘘を吐いた。

「黒神武雄は天乃河秋妃に何の興味もない?」

 声まで平たくなった秋妃さんだ。

「くあっ!」

 俺は顔を背けた。

「興味がない?」

 もう一度、耳元で訊かれた。

「違っ、そっ、そういう話でなくてな――」

 ああ、見られてる、見られてる、見られてる。

 くっそ、面倒くせえな。

 俺がぐるぐる視線を迷わせると、そいつの顔が目に飛び込んできた。

 それは今まで見ないようにしていた男だ。

 対面でカニを貪り食っているふてぶてしい態度の、ぱつんぱつんに固太りをした、肌の浅黒い中年男だ。

「それでだな。何で組合員の打ち上げにあんたがいるんだ?」

 俺は低く唸った。

「黒神ィ、男がそう細かいことを言うモンじゃないだろォ?」

 小池主任が分厚い唇を歪めた。

 その唇の端に赤いカニの身がついていた。

 不愉快な俺に笑顔はない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る