第12話 追憶の復讐者(イ)

 真っ先に気づいたのはカルロスだ。

 前の伊里弥狩人団が天竜自治区の北検問ゲートで車列を止めて、検疫を受けている最中だった。

 カルロスがFA-MASを手にハンヴィーから飛び出して、

「そぅら、こう来たぜ、おぅい、自警団は全員、戦闘準備だ!」

 と、後続の車両へ向けて怒鳴った。

 後続の車両からばらばら自警団の団員が降りてきた。

 みんな銃を手に持っている。

「それ見ろ最悪だ。言わんこっちゃないぜ、カルロス――」

 俺は呻き声と一緒にハンドルへ頭をぶつけた。

「!?」

 リサが助手席でSG553を構えた。

「いや、リサ、たぶん、俺たちに銃は必要ない――」

 俺はハンドルへ額をつけたまま言った。

「!?」

 リサはカッと俺を睨んだ。

「リサ、よく聞け。今回は銃を持っていくと余計なトラブルになる。たぶん、だけどな――」

 俺は障壁と障壁の間にある検問ゲートを見やった。ここへ来た車列への検疫は行われている。だがその検疫を行っているのは耐胞子マスクをつけて化学防護服を着た連中だ。日本皇国軍の検疫部隊が使っている正式装備だ。

 車列を遮蔽物代わりにして移動を始めたカルロスに気づいて検問ゲートの表にいた皇国軍兵士は障壁内へひっこんだ。前からも後ろからも銃声は聞こえなかった。首を捻ったカルロスが検問ゲートへ寄っていった。自警団の連中が徒歩でのろのろ追っていく。カルロスはともかく、天竜自警団の連中がゲート方面からの攻撃を警戒をしている様子はまったくない。

 一応、銃を持ってはいるがあまりにも無警戒だ――。

「――ああ、そういうことかよ。それなら、俺たちも歩いて行くか」

 俺は車外へ出た。

「?」

 首を捻ったリサも一緒だ。

 リサと俺はとろとろ進む天竜自警団人に交じって北検問ゲートを潜った。検問の向こうで伊里弥団長とカルロスが睨み合っている。背後の伊里弥狩人団――伊里弥の中隊は銃を構えて警戒をしていた。隊長の伊里弥だけ丸腰だ。危険を冒してでも余裕を見せつけたいのだろうね。出会って初めて見た。伊里弥が笑っている。

「おい、伊里弥団長?」

 カルロスは笑っていない。

「今から私を伊里弥少佐殿と呼べ」

 伊里弥が笑いながら顎を上げた。

「稲葉・カルロス・譲司、銃を捨てろ!」

 後ろにいた隊員が声と銃口を上げた。

 日本皇国軍で伊里弥の階級は少佐らしい。

「これは一体どういうことだ?」

 カルロスがゲート周辺へ視線を巡らせた。そこにいたのは、伊里弥少佐の部隊や、検問ゲートを管理していた皇国軍の兵隊だけではなかった。天竜自治区の住民も(たぶん)総出で集まっている。その人垣のなかに俺の知った顔も何人かいた。

 まりあ先生や一刻さんや栄倫さんだ――。

「――カルロス、銃を捨てろ!」

 また隊員が怒鳴った。

「ふん、カルロス、見ればわかるだろ?」

 伊里弥少佐がせせら笑った。

「ああ、おい、栄倫さん?」

 カルロスが栄倫さんへ目を向けた。

「おいおい、まりあ先生と一刻さんも、どうした?」

 カルロスの声が硬くなった。

 先生方は自治区の防衛をしていた筈だが二人とも銃を持っていない――。

「おい、他のみんなもだ。これはどういうことだ。事前に決めた段取りとは違うだろ、自治区の防衛はどうした!」

 カルロスが怒鳴った。

 誰も答えるひとはいない。

「はっ、段取りね――」

 伊里弥少佐が鼻を鳴らした。

「佐々木がおかしな動きをした場合、自治区に残ったお前らがけん制を――」

 カルロスがそう言っている最中に、

「カルロス代表、銃を捨ててください」

 住民の集団の後ろから、佐々木が歩み出てきた。

 以前見たときと服装は違う。

 今の佐々木は枯葉色の皇国軍服姿だ。

 だが、やはり佐々木は笑顔だった。

 おもむろに頷いて見せた伊里弥少佐が、

「任務ご苦労だった、佐々木大尉。カルロス、これでわかったか。貴様と私の立場はここにきて逆転だ。その銃を捨てろ。さっさとしないと、お前の飼っているガキから殺すぞ?」

「カルロス、伊里弥少佐の言う通りにしてください!」

 声を上げたのはまりあ先生だ。

 その横にいた一刻さんが、

「ああ、子供達もここにいるんだ。カルロス、ここでトラブルを起こすと――」

「て、手前ら、まさか、子供たちを盾に使うつもりか。正気か――」

 カルロスの声が震えた。検問ゲートを囲うようにしてカルロスを見やる自治区住民の集団のなかに子供たちの姿もある――。

「カルロスおいちゃん!」

「カルロスおじさん!」

 聖空と愛空が叫んで飛び出そうとした。その彼女たちをまりあ先生と一刻さんが抱えて押しとどめた。泣いて暴れても子供の力だ。聖空も愛空もそれ以上は前へ出られない。

 ああ、こいつらのどこが学校の先生なんだ?

 笑わせるよな。

 俺はそう思ったが笑うことができなかった。

 それは俺が笑えないほど不愉快な光景だった。

 苛立つ俺の横でリサは目を見開いている。

「まあ、カルロスさん、そういうことでしてねえ――」

 栄倫が深刻そうな顔で頷いて見せた。

「お前らは――天竜自治区の連中は自分から率先して皇国軍の奴隷になるつもりなのか!」

 カルロスが怒鳴った。

「ああ、いやいや、それはとんでもない」

 栄倫が饅頭のような笑みの前で手を振って見せた。

「それなら、どういうことだ、おい、このクソ坊主――あ、あれは複合企業体の連中。それに重機や機材まで――何の工事だ?」

 カルロスが生臭坊主へ詰め寄ろうとした足を止めた。検問ゲートを囲んでいる皇国軍の兵隊や装甲車の向こうで、安全ヘルメットにスーツ姿の複合企業体の連中やら作業服を着た建築屋の姿が見えた。ブルドーザーやらショベルカーやらの重機もたくさん搬入されている。機材を運んでくる輸送トラックもあった。重機に旗がついていた。稲穂で作った輪っかに「豊」の一字がついた旗だ。大豊コーポレーションの社旗だった。

 これから天竜自治区へは改装工事が施される――。

「カルロス、もう何をしても無駄だぞ!」

 俺はカルロスの背へ怒鳴った。

 その俺はリサの腕を掴んでいた。

 俺が守りたいのはこの俺自身と俺の天使だけだ。

 他の奴らなんてマジでどうでもいい。

 どうでもいいのだけどね。

 カルロスに目の前で死なれるのはさすがに気分が悪いからな――。

「黒神ィ、俺には自警団の手勢がまだ――おい、お前ら何をしているんだ?」

 カルロスが背後に視線を送って声を硬くした。検問ゲート付近にいる俺の周りに天竜自警団の二百人がいる。全員が銃を持った連中だ。これはカルロスの手勢だった連中だ。だが天竜自警団は指示をされる前に武装を解除している――。

「カルロス、諦めろ。お前は天竜自治区の全員にハメられたんだ」

 俺は捨てられた銃器で埋まった路面を眺めていた。

 検問ゲートを潜ったところで天竜自警団が投げ捨てた武器の数々だ。

 つまり、まあ、そういうことだぜ――。

「――黒神、俺は簡単に諦めねェぜ?」

 カルロスが唸った。

 まだカルロスはFA-MASを持っている――。

「いや、もう諦めろ。『騙されるマヌケが100%悪いよな』だ。これはお前の口癖だっただろ――」

 俺は言った。

 つまり、まあ、そういうことだぜ、カルロス――。

「聖空、愛空、さっさとこっちへ――」

 カルロスが聖空と愛空へ目を向けた。聖空と愛空は一刻に口を押さえられて声を出せない。一刻が強くカルロスを睨んでいた。顔を歪めたカルロスが、手に持っていた銃を地面へ捨てた。伊里弥少佐が笑みを消した。佐々木大尉はまだ笑っている。

 リサが俺を見上げた。

 どうしていいのかわからない。

 眉を強く寄せたリサはそんな表情だ。

 ああ、リサな。

 俺だってどうしていいのかわからないんだ。

 大人がいつも答えを知っているわけじゃない。

 むしろ答えを知らないことのほうが多いんだぜ。

 たいていの大人はそれを図々しく誤魔化して生きているだけでね――。

「――カルロス、子供たちなら心配をしないでください」

 まりあ先生が言った。

「おい、メス豚よ、それはどういう意味だ?」

 カルロスが吐き捨てた。

 確かにまりあ先生は全体的に丸っこい身体つきだ。

 豚ってほどでもないけど――。

「おい、黒んぼうのブラジル野郎、よく聞け。大農工場内でも学校は続けて運営される予定だ。子供から学習をする機会が奪われることはない。何の文句がある?」

 一刻さんが唸った。

 目尻が吊り上がっている。

 あ、はい、ここで判明。

 この一刻先生は根っからの差別主義者レイシストだ。この一刻というトロくさそうな田舎者は、ブラジル人の血が半分入ったカルロスの下で働くのが、ここまでずっと気に食わなかったのだろう。

 俺だって今の今まで人種差別主義者を自称していたけどね。

 でも、今、この場所でそれは嫌になった。

 あんなドン臭い田舎者カッぺ野郎と同じ主義なんて、まっぴらごめんだぜ――。

「ああ、そうかあ――お前らは――自治区の先生方はそのまま大農工場で運営される学校の教員に就職する予定なのか。おい、ふざけるなよ!」

 殺気立つカルロスを囲む列からだった。

「稲葉・カルロス・譲司――」

 一人の男が歩み出てきた。胸に勲章がたくさんついた皇国陸軍服を着て、袖を通さずに草色の陸軍外套を羽織った中年男だ。細身で身長が大きい。上背が百九十センチ近くある。

「ああっ――」

 カルロスが呻いた。

 そのまま絶句した。

「馬鹿な――」

 俺も絶句した。

 リサはその男をじっと見つめていた。

「――それに、黒神武雄。久しぶりだな」

 その男は俺へ目を向けた。

 俺は視線を返すだけで精一杯だ。

 声が出ない。

 そいつの唇の脇だ。

 その片方だけに深い笑窪えくぼがある顔だ。

 それがたいていの時間帯で消えない男の顔――。

「お前は――!」

「まさか――!」

 カルロスと俺は同時に言った。

「――うーん、貴様ら、もう団長の顔を忘れたのか?」

 今は軍人になったらしい男はそう言った。

 そいつは忘れようにも忘れられない男だった。

「御影団長――」

「御影洋一――」

 カルロスと俺は呻くように言った。

「御影大佐、ご足労をおかけします!」

 大声の伊里弥少佐は敬礼だ。

「御影大佐、姿を見せたら、カルロスを刺激すると思いますよ――」

 佐々木は苦笑いだった。

「何だ、何だよ、これは――」

 カルロスが一歩下がった。

「うーん、何だって、カルロス、見ての通りだが――」

 一歩前に出た御影大佐が肩越しに視線だけを後ろへ向けた。そこに伊里弥のところの隊員とは気配の違う皇国軍の兵士がずらりと並んでいる。ひとつも表情のない兵士だ。こいつらは機械になるまで訓練された兵士の群れだ。

「いーや、まだわからねェぜ――」

 カルロスが歯茎を見せて唸った。奴の憤りに迫力がないわけではない。しかしそれはピカピカの軍用犬の群れに一匹だけみすぼらしい野良犬が唸っているような光景だった。

 凄んだところで空しいだけ――。

「カルロス、これは見ただけで理解をすべき状況だぞ」

 御影大佐は笑みを絶やさない。

 圧倒的に威圧的な笑みだ。

「御影団長、俺へ状況の説明をしろ!」

 怒鳴っても唸っても凄んでも無駄だ。

 それはカルロスだって十分わかっている筈だ。

 俺もよく知っている。

 何があっても揺るがない。

 御影洋一は怪物なのだ。

 それでも、カルロスは怒鳴っていた。

 落ち着け、カルロス。

 不利な状況で前へは出るな。

 ここは一旦退け、カルロス――。

 俺は前へ進み出ようとしたリサの腕を強く引きつけた。

 そのリサが俺を見上げた。

 眉を強く寄せたが、リサのいつものように暴れなかった。

 おそらく、リサの瞳にいる俺のすべてが強張っているから――。

「――カルロス、それはしない」

 御影大佐が言った。

「説明をしてもお前は納得をしないだろう。そうなるとお互い時間の無駄だ。それに私はもう団長ではない。今は皇国軍陸軍大佐だ」

「――皇国軍の大佐だって――ああ、そうか、そういうことか!」

 カルロスが行動を起こした。

 俺ならやらない。

 カルロスならやる。

 だが、カルロスも俺もこれは同じだ。

 切り札は正面からは見えないところへ隠しておく――。

 背のほうから自動拳銃――マカロフを引っ張り出したカルロスを見て、

「あっ、あの馬鹿――」

 俺は呻き声を上げた。

「!」

 リサがあっと表情を変えた。

 北検問ゲートへ集まっていた天竜自治区の住人も顔色を変えた。

 そこで兵士の銃口は一斉に――上がらない。何を考えているのか。御影大佐も佐々木大尉も人質を確保したカルロスを平然と眺めている。後ろに控えた兵士の列も微動だにしない。もっとも、伊里弥少佐が率いていた兵士は顔を強張らせていた。

 だが上官の――御影大佐の指示は何もない――。

「――えっ、ぐっ?」

 一人、顔色を真っ青にしたのはカルロスの銃口をこめかみに突きつけられた伊里弥少佐だ。カルロスの左腕は伊里弥少佐の首に巻き付いている。南米産の馬鹿力だ。伊里弥少佐が兵士としてどのていど肉体を鍛えているのかよく知らん。だが、簡単に身動きはできないだろう。

「すぐに聖空と愛空をこっちへよこせ、ついでに車もだ、早くしろ!」

 カルロスが怒鳴った。

「あっ、駄目です、カルロス!」

 まりあ先生が声を上げた。

「カルロスおじちゃん!」

「カルロスおじさん!」

 聖空と愛空が身をよじって泣き声を上げた。近くにいる子供たちも「カルロス、カルロス!」と騒ぎだした。自治区住民はともかく、カルロスは子供からの人望があったらしい。

「おい、手を貸せ!」

 聖空と愛空を抑えていた一刻が怒鳴った。

 周辺にいた大人がそれに手を貸した。

 子供たちの親もそのなかにいるのだろうか。

 顔色は総じて良くない――。

「――絶対に動くなよ」

 俺は身を屈めてリサの耳元で言った。

 俺の腕のなかでリサも身を捩っている。

「――我慢しろ。これはもうどうにもならん」

 俺は言った。

 平坦な声だった。

 歯噛みしてリサは俺の横顔を睨んだ。

 天使の怒りが俺の真横にある。

 俺は黙っていた。

 黙っていたというのは違うかも知れない。

 もう使える言葉がない――。

「――冗談じゃねェぜ、俺や聖空や愛空が、日本人の奴隷なんてな!」

 カルロスが唸った。怒れる野良犬に確保された伊里弥少佐はすがるような目で、御影大佐と佐々木大尉を交互に見やった。

 大佐と大尉は両方とも笑顔だ。

 これも饅頭みたいな笑顔だった。

「いやはやどうも、困りましたねえ――」

 栄倫が禿頭に手をやった。今さらながら気づいた事実だ。この頬の血色がいい笑顔の坊主も常に目が笑っていない。もう間違いはないだろう。この栄倫直親がカルロスをハメて、天竜自治区にいた大農工場化反対派もすべて駆逐したのだ。道端を見ると抵抗した痕跡も残っていた。死体がそこかしこに積み上げられている。屋台をやっていた連中の死体が多いようだった。天竜自治区の住民らしい死体もある。それが、同じ自治区の住民の手によるものか皇国軍の手によるものかわからない。そのたいていは頭を銃で撃ち抜かれていた。全部後ろからだ。おそらく天竜自治区にあったのは抵抗ではなく処刑だろう。

 気づくのが遅かったよな。

 カルロスも俺も――。

「カルロスは何をどうするつもりだ!」

 俺は怒鳴った。

「――黒神ィ、浜松居住区の周辺にある区外の集落は天竜自治区だけじゃないだろ?」

 カルロスは背中越しに笑った。

 正面ではあの不敵な笑みを見せているのだろう。

 俺のいる位置からはそれが見えない――。

「――ああ、それはそうだが!」

 俺はもう一度怒鳴った。

 カルロス、考え直せ。

 そう付け加えるべきだったのかも知れない。

「――それなら、俺はここから逃げれるさ」

 カルロスがおどけた調子で言った。

 ああ、そうだったよな。

 カルロスという男は残虐であっても陰気じゃない。

 こいつはどんな状況にいてもあくまで陽気な男だ。

 ラテン戦士の血を持つ男なのだ。

 今も昔も変わらずに――。

「――なあ、御影団長?」

 カルロスが御影大佐へ目を向けた。

「カルロス、さっき言っただろう。今の私についている肩書は皇国軍陸軍大佐だ。大佐と呼べ」

 御影大佐が笑窪を深くした。

「――肩書?」

 鼻で笑ったカルロスが、

「あんたは昔からそんなものに拘る人間じゃなかったよ。それとも、皇国軍の豚へ変わり身をした後で、主義を変えたのか?」

「――うーん、どうなのかな?」

 御影大佐が笑顔のまま眉根を寄せて見せた。

 むろん、演技だ。

 この男は何も感じちゃいない。

 御影洋一は人間であることを辞退して生まれてきた男だから――。

「御影――御影洋一。お前が天竜自治区へ黒神を派遣した理由が今わかったぜ」

 カルロスが唸った。

「天竜自治区からこの俺を――稲葉・カルロス・譲司を不在にするためだ。俺が自治区にいれば皇国軍を見た途端、必ず反乱を起こすだろ――」

「うーん、カルロス、カルロス――」

 大袈裟に頭を振った御影大佐が、

「それはお前が黒神武雄の姿を見た時点で気づくべきだった。偶然の再会と言うには状況が不自然だった筈だぞ。旧知の黒神武雄をこちらから派遣すれば、稲葉・カルロス・譲司という男は必ずそれをフォローするために佐久間ダムへ向かう。その間に私の主軍を天竜自治区へ侵攻させると、発生が想定される戦闘の大半を省ける。事前にそんな根回しもしておいた。お前が警戒を払うべき相手は、そこにいる伊里弥少佐でも、私の横にいる佐々木大尉でもなかったのだ。物事を進める上で最も警戒するべきなのはイレギュラーの存在だからな。天竜自治区が置かれた状況的全体を見ると明らかにイレギュラーな存在だったのが黒神武雄となる。カルロス、お前は有能な男だが、しかし、人間的過ぎるのは欠点だ。人間的過ぎるとはな、文学だとか芸術だと演劇だとか、ライト・ノベルだとか、漫画だとか、映画だとかアニメだとか、ポップ・ミュージックだとかにある、子供や子供のまま大人になった愚か者が自意識を慰撫するためだけに使用する創作の、声高な、青臭い、何の実態もない主張全般のことだ。それらは実際にある現実の前で自分のケツの穴からひり出した下痢糞を拭くチリ紙の代用品にすらならん。どうしようもない馬鹿どもにも理解できるよう要約をしてやるか。人間が個々で持つ身勝手な観念は現実の前に敗れて消え去るのが必然なのだ。私は何度も何度もお前へそれを言っておいた筈だ。しかし、昔から、お前はまったく成長をしていない――」

 御影大佐は唇の端にひとつだけある笑窪を深くした。

 こいつは絶対に唇の片端でしか笑わない男だ。

 俺は四年近くこの御影洋一の下で働いた。

 だが、こいつの満面の笑みを――自然な笑みを一度も見たことがない。

 俺の腕のなかでリサは殺気立っていた。

 静かに殺気立っていた。

 俺の天使はNPCを相手にしているときとまったく同じ表情を見せている――。

「俺が成長しただとかしてないとか、そんなことはどうでもいい。あんたの計画はこれで無事に成功したんだろう?」

 カルロスが言った。続けて伊里弥少佐が何か言おうとした。だがそれはカルロスがこめかみに押しつけた銃口が言うのをやめさせた。

「うーん、それでも多少の被害は出たよね、佐々木大尉?」

 御影大佐が視線を送ると、

「いえいえ、御影大佐。この作戦は無事成功の範疇でいいと思いますよ?」

 佐々木大尉が手を後ろで組んだまま応えた。

 笑顔だった。

「――な、お前らの任務は成功だ。それなら、俺にはもう用がない筈だよな?」

 カルロスが低い声で言った。

「うーん、カルロス。一度しか言わないぞ」

 御影大佐が怪物の笑みをカルロスへ向けた。

「――何だ?」

 カルロスの促す声が硬かった。

「稲葉・カルロス・譲司。今すぐその銃を捨てて栄倫住職の指示に従え。悪いようにはしない。今後この栄倫直親氏は天竜自治区へ建設される大農工場で団地のセクト長を務める予定なんだとか――うーんと、これは違ったかな?」

 笑顔を消した怪物が栄倫へ目を向けた。

「ああ、はい、御影大佐殿。私はそうなる予定ですなあ――」

 映倫は禿頭へ手を置いて饅頭の笑顔を下げた。

 全身を低くした。

 人間には絶対食えない饅頭も怪物なら丸呑みにできるらしい。

「奴隷や社畜は死んでも御免だ。俺はこのまま天竜自治区から出ていく。御影、あんたはそれを黙って見ているだけでいいんだよ。これって誰の損にもならないだろ。だから俺の言う通りにしてくれ。でないと、こいつが――伊里弥が死ぬぜ」

 カルロスが銃口でこめかみをグリグリやると、

「た、大佐殿!」

 伊里弥少佐が悲鳴を上げた。

 御影大佐は「うーん」と顔を傾けた。

 佐々木大尉はその横で相変わらず笑っている。

 兵士の列はまだ銃口を上げていない。

 だが、佐々木の両腕が背のほうだぞ、カルロス!

 俺は叫びたかった。

 しかし、それをするとおそらく俺へ銃弾が飛んでくる――。

 腕のなかにいるリサが身を捩って俺を見上げた。

「リサ、俺たちは何もできない。これはカルロスの問題だからな――」

 俺は呻いた。

 それで納得したわけでもなさそうだったが、リサは顔をまた前へ向けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る