第4話 月とすっぽんの夜(ロ)

「――失礼しますよゥ」

 お盆を手に座敷へ入ってきたひらめ顔の女将さんが、

「あらやだァ、もう食べてるのねェ。ちょっと遅くなってごめんなさいねェ。えェと、こっちは、見ての通りすっぽんの生き血の日本酒割りねェ。これがすっぽんのお刺身になりますゥ。あっと、これこれねェ、お刺身にある胆のうねェ。これだけはすごく苦いからねェ。噛まずに呑み込むといいですよゥ。薬だと思ってねェ。体にとてもいいですからねェ。あとは、これがすっぽんのから揚げになりますゥ――」

 言葉通りの品を卓へ並べた。すっぽんという食材は骨や爪以外ほとんど食い残す箇所がないらしい。卓の上はまさしくすっぽん尽くしだった。

「おっ、来た来た」

 俺は目を開いて、

「これっておいしいものなのかしら――」

 ルリカは呟きながらだ。俺とルリカが、すっぽんの生き血の日本酒割りの入った杯を同時に手にとった。ひと口飲むとそれは日本酒と血の味だ。

 うーん、ひとそれぞれなのだろうけどね。

 すっぽんの血はそんなにおいしいものでもないな――。

「――?」

 横からリサが身を寄せてきた。

「リサ、何?」

 俺が訊くと、

「?」

 リサは俺の手の杯へふんふんと顔を寄せてくる。

「これか?」

「!」

「これはすっぽんの生き血だ」

「!?」

 眉間を厳しくしたリサが俺の杯へ手をかけた。

「ええ、リサもこれを飲むの?」

 俺が顔をしかめて見せると、リサは両手を使って杯を奪おうとした。俺も両手を使って抵抗する。

 いや、どう考えても、すっぽんの生き血なんて若いお前には必要がないだろ――。

 思い通りにならないとすぐ怒る。

「!?」

 カッと瞳を燃やしたリサへ、

「これって日本酒割りだぞ。半分はお酒だからな――」

 俺はそう諭したのだが、

「いいじゃない。リサちゃんに飲ませてあげたら?」

 ルリカが口を挟んできた。

「ルリカさあ――」

 俺は呻いた。

 ルリカは一息にすっぽんの生き血を飲み干して、

「――なぁに、黒神さん?」

「こんなのをリサに飲ませるの?」

 真上へ伸ばした俺の手の先にある杯を、腰を浮かせたリサがふんふん取り上げようとしていた。ブラウス越しにあるリサのちっぱいが俺の顔に当たっている。慣れているのでそんなに興奮はしない。それにおっぱいというものは大きいほうが断然偉いのだ。

「それで今晩、黒神さんはリサちゃんと励んだらいいのじゃない?」

 ルリカがケッと顔を歪めた。

「――!?」

 はっと表情を変えたリサが素早い動きで俺から身を離した。俺を睨むリサは胸元を両手で隠していた。頬が赤い。鼻息が荒かった。呼吸も不規則だ。

 自分からぐいぐいしておいて今さら恥じ入るのかよ。

 わけがわからねェ――。

「あのねえ、ルリカ――」

 俺はすっぽんの生き血の杯を卓に置いた。

 まだそこにいて口を開く機会を窺っていた様子の女将さんが、

「――あっ、まだ他にご注文はあるかねェ?」

「ああ、ルリカは何か――」

 俺が言うと、

「女将さん、ジャンジャン、ビールの大瓶を持ってきて!」

 ルリカが乱暴に言った。

「――うん、じゃあ、俺もビールをもう一本もらおうかな」

 弱い声で言った俺の前にお品書きがすっと出てきた。

 これを持ってきたのはリサだ。

 品書きの上でとんとん動くその指先を見て、

「リサはグレープフルーツジュースが欲しいの?」

 俺は訊いた。

「!」

 リサが頷いた。

「女将さん、グレープフルーツジュースの瓶も頼むよ」

 俺が言うと、

「はいよゥ。鍋が終わったら、雑炊にするからねェ――」

 女将さんは座敷から出ていった。俺が視線を戻すと卓上にあった筈のすっぽんの生き血の杯がない。消えた先はひとつだけだ。

 リサがすっぽんの生き血をごくごく飲んでいる。

「あっ、リサ、いっぺんに飲むな。それって半分はお酒だから――!」

 俺が言ったときにはもう遅かった。

 リサはニンマリ笑いながら手にあった杯を逆さまにして見せた。

「おい、リサ、本当に大丈夫か?」

 俺のほうは心配だ。

「?」

「?」

 首を捻ったリサの笑顔全体が赤い。

 そのままぶっ倒れないといいのだけど――。

「――大丈夫なのか?」

 俺はもう一度訊いた。

 リサは、にやにや笑ったまま、ふわんと頷いた。

 珍しく、俺と顔を突き合せている状態でもリサはご機嫌だ。

 これ、お酒の所為だよなあ――。

「まあ、大丈夫ならいいんだけどな。リサは年齢の割合に味覚が渋いね」

 俺が溜息を吐いたところで、女将さんが注文したビールを持ってきた。女将さんからビール瓶をふんだくったルリカが自分のコップへそれをドバドバ注いだ。気まずい俺は目を伏せてコップを突き出した。そのコップへもルリカの手でビールが注がれた。乱暴な動作だ。コップの半分くらいが泡だった。すっぽんの内臓の刺身を箸先で散らかしつつ、ルリカと俺はしばらく無言でビールを飲んだ。しょうが醤油で食うすっぽんの刺身は心臓だのレバーだの卵巣だのそれぞれの部位で、こりこりしていたりねっとりしていたり、ぷちぷちとした食感の違いがあって意外にも臭みや癖のない上品な味わいだ。

 これはビールよりも日本酒のほうが合いそうだなあ。

 俺はそう思った。

 グレープフルーツジュースの入ったコップを片手に上機嫌のリサは、すっぽんのから揚げを頬張っている――。

 すっぽんの刺身の大半がなくなった頃合いだ。

「――で、黒神さんとリサちゃんはまだ浜松に残るの?」

 沈黙を破ったのはルリカのほうだった。

「うん、俺の意思だけでもないけどね」

 俺は少し笑った。

 ルリカは眉をきつく寄せて、

「じゃ、誰の意思なの。やっぱり、リサちゃん?」

「いや、アブラ狸がちょっとの間だけそうしてくれってさ。浜松で『俺たち向きの仕事』が残っているらしいんだ」

「黒神さんとあのゲロ狸って相思相愛よね」

「ゲロ狸はいい呼び名だね。だけど、ルリカ、相思相愛は違う」

「黒神さん、絶対無比の社会悪であるロリコンよりも、当事者同士の他の誰かに迷惑をかけるわけではない同性愛者のほうが、ずっとずっと健全なのよ?」

 俺は卓の向こうにいるルリカをじっと見つめた。

 ルリカは真顔だ。

 俺は努めて冷静を装いつつ、

「ルリカの価値基準的にはそうなるの?」

 リサがもにゅもにゅしながら横目で視線を送ってきた。から揚げを平らげたリサはまたすっぽん鍋を食べている。リサがもにゅもにゅしているのはすっぽんの甲羅の部分だ。すっぽんの甲羅にある側面はエンペラという部位があって、そこもおいしく食べられる、らしい。リサがそれを全部食べてしまいそうな勢いだから、俺はその味を確認できそうにない。

「――いえ、黒神さん。世の中の価値基準がそうなのよ。ロリコンは死ね」

 ルリカが深く頷いて見せた。

 学者みたいな態度だ。

 うん、女とこういう口論をすると、つまらない喧嘩に発展するよね。

 俺は経験則からそう判断して話題を変える。

「それはともあれね、そのゲロ狸と俺は犬猿の仲なんだ。それだけは間違いないよ」

「狸と狼で?」

「あの狸は間違いなく狸なんだろうけどね、俺は狼じゃないよなあ――」

「じゃあ、何になるの?」

「――さしずめ、俺は小羊ってところだ」

「それは嘘よね」

 ルリカがフンッと笑った。

「本当に小羊だよ。俺は気が小さいんだ。小市民なんだ本当に――」

 俺は弱く笑って見せた。

 リサが小さく、しかし、はっきりと頷いた。

 それで俺はイラッとした。

「それで、ゲロ狸の頼み事を断り切れなかった小市民の黒神さんは、まだ浜松居住区に残って、リサちゃんと一緒に組合の仕事をする?」

 ルリカはニッコリと微笑んでいるが言葉にはわかりやすい棘がある。綺麗なバラには棘があるとはいうものの。今のルリカはバラというよりも、サボテンのほうが近いように俺は思えた。

「ああ、うん、実は次の仕事がもう決まっているんだ」

 俺は視線を惑わせて、

「今度はちょっと特殊でね。新米狩人団を天竜自治区へ案内する仕事らしいんだけど――」

「へえ、黒神さん、忙しいんだ?」

 ルリカはれんげを使って鍋に残ったすっぽんの肉を探していた。

 投げやりな態度だ。

 俺はほとんどダシ汁だけになったすっぽん鍋を眺めながら、

「忙しい、のかな――ルリカ、俺だけが忙しいは少し違うよ」

「――違うの?」

「最近は騒がしいが正解だ。南海トラフ大震災後の復興が一番早かった浜松居住区の区外は自治区があったり大農工場もいくつかあったりして、他の居住区では考えられないほど賑やかだろ?」

「そうね。私、汚染後はほとんど東の居住区にいたから驚いたわ。浜松ではNPC障壁の検問を行き来する自動車がとても多くて。あれで本当に胞子感染対策は大丈夫なのかしら――」

 ルリカは苦笑いだ。汚染後の日本列島は胞子と放射線で終焉の地と化した東京を中心に死と絶望が広がっている。しかし、そこからあるていどの距離がある居住区はNPCよりも人間の勢力が強かったり区外でも安全に生活ができる地帯――自治区があったりと、人間の前向きな姿勢があった。

 もっとも、これは日本にある悲惨な地域と比較をすればの話だが――。

「――まあ、浜松居住区の周辺が賑やかな所為もあるのかも知れないけど」

 俺はリサを見やった。

「!」

 リサが表情を厳しくした。

「浜松の区外でもNPCが多くなっているの?」

 ルリカが声をひそめた。聞かれて困る話でもないが、NPCの話題になるとたいていのひとは声が小さくなるものだ。特に区内で生きている人間にとって、あの化け物どもは未知の恐怖でしかない。何年も奴らを相手にしている俺だって未だにNPCという存在に慣れることはない。今もってまだ恐怖もある。NPCの数は汚染後からほとんど減っていない。それどころか実態数が把握できないNPCの軍勢はユーラシア大陸にまで勢力を広げている。

 おそらく、全世界がゾンビ・ファンガスの惨禍に巻き込まれるのも時間の問題――。

「――最近は北の山から降りてくるNPCの数が多くなったんだ」

 俺は自分の頭を占めた最悪の妄想を自分の言葉で振り払って、

「自治区の住民も口を揃えてそう言っていたから間違いないと思う。実際、リサや俺が撃った弾の数も東に比べてずっと多いよ」

「まさか、浜松居住区も静岡居住区みたいに――」

 ルリカの顔が曇った。

「うーん、それはどうだろうな、リサ?」

 腕組みをした俺はリサへ視線を送った。

「?」

 エンペラを根こそぎ食い終わったリサも懐疑的な様子だ。

 俺は顔をしかめた。

 少しは残しておけよなあ――。

「――うん。浜松の周辺で活動している大手の狩人団は多いからね。ま、まだ浜松居住区は大丈夫だと思うよ。少なくとも組合にそこまで危機感はない」

 俺が顔をしかめたまま言うと、

「!」

 リサは鍋の熱とすっぽんと少しの酒で機嫌と血色が良くなった顔を縦にぶんぶん振った。

「やっぱり、リサちゃんと黒神さんはすごく仲がいいんだ」

 ルリカの冷えた声だ。視線をちらりと送ってみると、ビールを呷るルリカはやっぱり不機嫌そうな表情だった。

「仲がいいっていうのか?」

 俺はリサに訊いてみた。

「!?」

 カッとリサは俺を睨んだ。

 俺は視線を落とした。

 改めて問われるとリサと俺って妙な関係だよな――。

「じゃあ、黒神さんとリサちゃんの関係をどう言えばいいの?」

 ルリカがしつこい。さっきからルリカは座敷へ女将さんの手で届くビールを端からガブ飲みしているから、さすがに酔ってきたのかも知れない。

 少し間を置いて、

「リサと俺は戦友かな――」

 俺は呟いた。

「!」

 リサが瞳を輝かせた。

 キラッキラだ。

 戦友という言葉の響きがすごく気に入ったらしい。

 俺の天使は好戦的だからね――。

「へぇえ、戦友――!」

 ルリカが呆れ声で言った。

「――うん。ルリカ、そうなんだ」

 俺が顔を正面に向けると、

「はい、何でしょうか?」

 ルリカが姿勢を正して見せた。

「実際、俺は区外で何度もリサに命を救われた。ルリカも仕事中のリサを見たら驚くと思う。こいつ本当に凄いんだ」

 俺は少し笑って見せた。

「!」

 強く頷いたリサはドヤ顔だ。

「――へぇえ?」

 目を細くしたルリカの返事だ。

「ま、普段はちょっとだけ、ポンコツだけどね――」

 俺が言うと、

「!?」

 リサがバッと音がするほど顔を振って睨んできた。

 俺の耳元で天使の歯ぎしりする音が鳴っている。

 俺は顔を正面に向けたままだ。

 こういうとき下手に反応するとリサは暴れる。

 もう俺は慣れた。

「ふん――」

 ルリカが鼻を鳴らした。

「ルリカ、何?」

 俺が訊くと、

「この、ロリコン」

 そう言われた。

 いやいや、俺は相手にする女の年齢をあまり気にしないだけで、それが専門というわけじゃないぞ――。

「あのね、ルリカ。ロリコンは少し違うと思うんだ。ええと、何だろうな――リサって本当のところは何歳だったっけ?」

 俺は強張った顔を横に向けた。俺はリサの実年齢を知らない。知らないほうが俺にとって都合がいいからだ。だから今まで本人に年齢を訊いたことがない。まあ幸いだ。リサと会話が成立するのは俺だけだ。リサがこの場で何かアクションをすれば適当に年齢をでっち上げられるだろう。十四歳くらいが相手ならロリコンじゃないよな。確かに汚染前の日本はそこらへんが異常に厳しかった。しかし、汚染後の今では、俺の他の誰かが勝手な判断で作り上げるしゃらくさいモラルなんて、あってないようなものだ。

「?」

 リサが小首をきょとんと傾げて見せた。

「――ああ、そうか。区外生まれのリサは自分でも正確な年齢がわからないのか」

 俺は呻いた。ルリカは何も言わずに視線を落として自分のコップへビールを注いだ。リサはそれ以上の反応を見せずに小皿の白菜をお箸で口へ運んだ。俺の視線が落ちると、リサがさっきまで抱え込んでいた皿が目に入った。すっぽんのから揚げが一個だけ残っている。

 少し考えたあと、俺はそれを指でつまんで口へ入れた。


 §


 傍から見れば両手に花になるのだろう。

 右がリサで左にルリカだ。

 しかし中央にいる俺は気まずかった。

 思い出すと寒気がするほど馬鹿高い会計を済ませて、亀代の玄関を三人並んで出たところで、

「良し、リサは先にお宿へ帰れ」

 俺は冷たく告げた。

 ネオン看板が整列した夜も冷えていた。

「!」

 リサが俺を見上げた。

「何だよ。リサはおいしいものを気が済むまで食っただろ。俺はこのあと、ルリカと大事な用があるの。だから先に帰りなさい」

 俺が言うと、

「!」

「?」

「!」

「!?」

 リサの長いジェスチャー・ゲームが始まった。これはひとりでやる小芝居に近かった。高級飲食店が並ぶこの通りは光も通行人も多い。近くにタクシーも何台か止まっている。足こそ止めないが、道を行き交うひとは、リサの派手な動きへ物珍し気な視線を送っていた。

 当人はちっとも気にしていない。

「リサちゃん、何て言ってるの?」

 ルリカが少し笑った。言葉をなくしたリサの動作は大袈裟なので眺めていると退屈しない。しかし、ルリカを相手にした甘いひとときが、お前の所為でお預けを食らいそうな予感でいっぱいになっている今の俺にとっては、あまり楽しくない――。

「――夜遅くにか弱い女の子の独り歩きはたいへんに危険ですだと?」

 俺が無言の意見を棒読みで発音すると、演技途中の姿勢から抉り込むようにして振り向いたリサが、

「!」

「!」

 力強く二度も頷いた。

「――リサ、まだ夜の八時な」

 俺は自分の腕時計を指差して、

「それに、リサなら大丈夫だろ」

「!」

 リサがえっと目を丸々させて驚愕の表情を作って俺を見上げた。

「そんな演技しても駄目だから」

 俺が言うと、

「!?」

 リサは両方のまぶたをスッと落として俺を睨んだ。

「睨んでも、駄目」

 俺が言うと、

「!」

 リサは口元に両方の拳を置いた上目遣いで俺を見やった。

 目がうるうるしている。

 身体を小刻みに震わせる念の入れようだ。

「――それはお前らしくなくて気持ち悪い」

 俺が言うと、

「!?」

 リサが両手をぶんと振り下ろしてまた睨んできた。

 キキキッと歯ぎしりの音がする。

「だいたい、今はリサにも護身用の拳銃を持たせてあるだろう。この前、俺がお前に買ってやった拳銃だ。浜松居住区は人口が多くて他の居住区より物騒だからな」

 俺はしかめた顔をリサに寄せた。リサが携帯している拳銃はシルバーフレームのSIG P232だ。浜松の居住区で利用している高岡火砲店という店だ。そこでP232を目にしたリサが気に入って、その場で恐喝に近いおねだりを繰り返した。どうも、リサがこの前にお宿で見ていた映画の(テレビで放映されたものだ)なかで何某という昔の映画女優がこのシルバーフレームのP232を使っていた記憶がある。かなり熱心に見ていたから、それが格好いいだとか、可愛いだとか、リサは感心したのかも知れない。まあ、理由はよくわからない。とにかくリサはそのP232をどうしても欲しがった。熾烈な抵抗を試みたものの最終的に音を上げた俺は、その拳銃をリサに買ってやった。渋々嫌々だ。だから最近のリサは、懐のホルスターへ拳銃を突っ込んである。もっとも今のリサはフード周りと裾に白いファーのついた可愛い外套を羽織っているので、外からは拳銃を持っているのは見えないが――。

「――料亭に拳銃を忘れてきたのか?」

 俺が訊くとムッと眉を寄せたリサが外套をはだけて見せた。

 ホルスターにP232がちゃんとある。

「うん、それだ。銃を持っているお前に悪さをする奴って間違いなく死ぬだろ?」

 俺が真顔で言うと、

「――!?」

 とうとうリサが襲いかかってきた。

 ふんふん猛りながら腕を振り回してぐいぐいぽかぽかだった。

「何だよ、もう、うっるさいな――」

 俺が柔道の組み手争い的な要領でリサの暴行に対応をしていると、

「はあ」

 真横で溜息を吐いたルリカが離れていった。

「あっ、ルリカ、ちょっと待ってて――」

 俺はルリカの背を追ったのだが腰にまとわりついたリサがすごく重い。

「――妬けるわ」

 ルリカの背が呟いた。

 俺の足が止まった。

 リサは俺の腰のあたりからルリカを眺めていた。

「黒神さん、今日はごちそうさま」

 ルリカが背中越しに横顔を見せた。

 その横顔は笑顔だった。

 しかし、小ざっぱりとした感情を浮かべたそれは、どう見ても別れの笑顔だ。

「ええと――」

 口籠った俺に、

「黒神さん。私、もう、おなか一杯だから」

 ルリカが言った。

「いや、リサは今から絶対に帰らせる」

 俺は表情を引き締めた。俺は貧乏性自慢なのだ。高いめしを奢った女にここで帰られたら、貧乏性の名乗りが泣くというものだろう。

「そういうわけだ。リサ、さっさと放せ、こんにゃろめ。このままだと投資分を回収する機会損失は目前だろうが――」

 俺がリサとじたばた格闘している最中、

「タクシー!」

 手を挙げたルリカが通りかかった黄色いタクシーを止めた。

「ルリカ、ちょっと!」

 俺はルリカを止めようとした。

 ルリカは開いたタクシーの後部ドアに半身を隠して、

「黒神武雄さん」

 これは何というのだろう。

 ルリカの表情は俺に対する嫌悪ではないと思う。

 まあ、そう思いたい。

 しかし、それは間違いなく俺に対する断定的な拒絶ではあった。

「ああ、うん――」

 俺は視線を落とした。

 そんな俺の腰にまとわりついたリサが無表情で見上げていた。

 今まで散々暴れていたので頬が赤い。

 俺の身体も火照っている。

「黒神さん、娼婦にそれを見せるのってすごく残酷なのよ?」

 ルリカが弱く笑った。

「いや、あの――」

 俺はまだ粘ろうとしたのだが。

 だが――。

「――ああ、いや、いいんだ、ルリカ」

 俺は顔を上げた。

 作った笑顔の顔だ。

 上手く笑えているか少し心配だった。

 しかし、そのままの勢いで、

「名古屋でも元気でやれよ。暇を見つけて遊びにいく」

 俺なりに恰好をつけてみる。

「――ん。ありがと。期待をせずに待ってるから」

 笑顔を大きくしたルリカはタクシーに乗り込んだ。

 リサと俺は、走り去っていくタクシーを見送った。

 分不相応の見栄を見せたあとだ。

「――はぁあ、餌だけ食われて逃げられたよ。これって大損だぜ?」

 俺は大きな溜息をリサへ聞かせてやった。

「!?」

 リサが俺の後ろへ回り込んだ。

「リサはすっぽんの血の日本酒割りで酔っているのか?」

 顔をしかめた俺の背に、

「!」

「!」

「!」

 ぱたぱた暴れながらリサが乗っかってきた。

「――おんぶ、だとォ?」

 俺は呻いた。

「!」

 頷いたリサの癖のある黒い髪が俺の頬をくすぐった。

「――信じられん。降りろ、降りろ。お前は子供か?」

 俺は身体を捩じったが、

「!?」

 首にかじりついたリサは、絶対に降りるつもりがないようだった。

 ああ、もう面倒だ――。

「くっそ、やっぱり重い。これは子供の体重ではないよな――」

 俺は呟いて、そのまま歩きだした。

 浜松駅に近いこの場所から、リサと俺が使っているお宿へは小一時間ほど歩く。

 来るときはルリカがいたので奮発してタクシーを使った。

 今はルリカがいないので歩いてお宿へ帰ってやる。

 意地でもだ。

 俺はムスッと無言でリサを背負ったまま夜の繁華街の雑踏を歩いた。

 リサは大人しくしていた。

 慣れないお酒を飲んだので寝ているのかも知れないね。

「――重い。最近のリサは少し太ったのか?」

 俺が意地悪く呟くと、その途端、

「!?」

 ガブリ、だ。

「痛っ!」

 俺はリサに耳を噛まれて悲鳴を上げた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る